« 川戦:安城合戦編Ⅱ 2-4 日覚が聞いた話の出所と経緯はどうなっているのか? | トップページ | 川戦:安城合戦編Ⅱ 第3節の論点抽出:北条氏康書状のプロファイル(その1) »

2017年6月 4日 (日)

川戦:安城合戦編Ⅱ 2-5 論文が日覚書状から読み取ったこと。読み取っていないこと。

 論文が日覚書状から読みとったことは、実はこの章ではなく、次の「3.織田信秀の岡崎攻落を伝える別文書」に記されております。次の章の前半部分は前章のまとめ、後半部分で別文書の紹介から新たな論点を展開しておりますので、今までの考察内容を踏まえて、本稿では次章前半部分についての考察をしたいと思います。

 ここで論文が述べているのは、織田信秀が三河「一国を管領」、「弾(弾正忠織田信秀)は、「三州平均」)と書かれていることを指摘した上で、そこには誇張が含まれているとのこと。そして、誇張が含まれてしまうのはこの情報が織田信秀並びにその周辺から発せられたものである事が理由であろうことが示唆されています。

 そのうえで確かな情報として書状が語っているのは、岡崎こと松平広忠の降参とし、その降参の内容について、別文書を用いた考察を展開しております。ことに論文においては以下のように「確かな情報」として評価していて、非常に興味深いのですが、論文も考察を後回しにしていますので、本稿では踏み込みません。

〇論文より引用
当該文書が、三河における信秀の「威勢前代未聞」という
事態に関し、確かな情報として語っているのは、次のこと
である。
 岡崎ハ弾江かう参之分にて、からゝゝの命にて候、

 松平広忠の降伏についての考察は論文同様次稿以降に譲るとして、ここでは論文が日覚書状から読み取った「一国管領」と「三州平均」の文言についての評価について、検討してみます。

 まず「一国管領」です。前稿でも指摘した通り、論文は織田信秀が管領した一国を三河国としています。状況としては鵜殿領の制圧が未確定だし、岡崎を降参させることが一国管領や三河平均に必ずしも直結するわけでもありません。それ故論文は「誇張が含まれている」と解釈上の留保をつけざるをえなくなってしまっているように思えます。

〇論文より引用(拙稿にて下線部付記)
一三州ハ駿河衆敗軍の様二候て、弾正忠先以一国を管領候、威勢前代未聞之様二其沙汰共候、

 上記の「駿河衆」に対置させるべきは本来「尾張衆」であるはずなのですが、書状では弾正忠になっています。そのすわりの悪さから「威勢前代未聞」という記述を加える必要があったと私は解釈します。

 後世の我々は織田信長が天下をほぼ統一した事を知っています。その父親である織田信秀は美濃や三河に攻め込んで確たる戦果を得ていたことは甫庵信長記や牛一信長公記の初めの部分に書かれているので、興味のある人なら知っている事です。なので、織田信秀が駿河衆と一戦する主体となっても当然という気分が生まれても不自然ではありません。
 しかし、この書状の書き手は中世の僧侶日覚です。日覚が尾張出身で三河の地理にも詳しい人物であったとしても、逆に詳しい人物であったからこそ、三河で尾張衆を勝利に導いた弾正忠の尾張における威勢を「前代未聞」と描写ざるを得なかったのでしょう。書状の読み手は尾張や三河とは縁の薄い越後にある本山の坊主衆なので、駿河衆に対置する存在の弾正忠の立場については正確に記述したかったものと思料致します。

 次に、「三州平均」です。論文においては三州平均は誇張が含まれているので解釈を留保すべきと言っている一方で、岡崎降参は確かな情報として語っているといっているのですね。しかし、日覚書状が「岡崎降参」の前提として強調している点が書状に二ヶ所あります。

〇論文より引用
三州ハ駿河衆敗軍の様二候て
其謂ハ尾と駿と間を見あはせ候て、種々上手をせられ候之処二、覚悟外二東国はいくん二成候間、

 それは「駿河衆敗軍=東国はいくん」なのですね。日覚はそれ故に不安定な状況におかれている鵜殿氏のもとに弟子を送ると書いています。確かに三州平均や鵜殿領の状況は日覚が書状を書いた時点で知りえない情報かもしれませんが、駿河衆敗軍そのものは、あったこととして日覚は行動を起こしています。逆に言うと、鵜殿領の危機と三州平均は「駿河衆敗軍」の結果生じうるものなのですね。この論文にはその点についての言及はありません。

 では、三河平均とはいったいどのような状況をさすのでしょうか。三河は今川義元が征服するまで国主不在の状況でした。影響力の強い吉良家や三河を武力統一しかけた松平清康等の国人衆はいましたが、守護は勢力を失って久しく、平均には程遠い状況です。この三河後に西から織田勢が、東から今川勢が入り込みぶつかって、最終的に今川家による平定、すなわち平均がなされたことを我々は知っております。だとするなら、三河平均は無主の地であった三河に国主が定まったことを言うものと考えてよいでしょう。
 それは決して松平広忠が降参して達成するものでも、鵜殿領が占領されて達成するものでもないはずです。そして、書状の書かれた天文十六年時点で国主候補となりうる二つの勢力が三河国に侵入しておりました。

 ―弾正忠率いる尾張衆と駿河衆です―。

 日覚書状が書かれた天文十六年の九月ないしは八月頃に織田信秀率いる尾張衆と駿河衆の両勢力が雌雄を決するべく合戦に及び、その勝敗が定まった(駿河衆敗軍)とすれば、それは日覚が三河に国主が定まったと判断するにふさわしい状況と言えます。それはすなわち、牛一信長公記が年未詳八月上旬にあったとしている、第一次小豆坂合戦ではなかったでしょうか。

 仮に、天文十六年八月上旬ないしは十日に信長公記「あづき坂合戦の事」に書かれているような織田軍の勝利があったとすれば、当然織田信秀はその事を喧伝したでしょう。その結果鵜殿を檀越に持つ陣門法華は危機感を覚えることになり、さらに織田に呼応する勢力が三河国山間部や東三河地域にも現れることになれば、それこそが「三州平均」の日であるという解釈も成立し得ると私は考えています。

 これについては次稿以降、論文への考察を進める中で詳細に記述してゆくつもりです。
 現時点においては仮説未満の雑説として頭の片隅にでも置いておいていただければ幸いです。

|

« 川戦:安城合戦編Ⅱ 2-4 日覚が聞いた話の出所と経緯はどうなっているのか? | トップページ | 川戦:安城合戦編Ⅱ 第3節の論点抽出:北条氏康書状のプロファイル(その1) »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/164985/65304345

この記事へのトラックバック一覧です: 川戦:安城合戦編Ⅱ 2-5 論文が日覚書状から読み取ったこと。読み取っていないこと。:

« 川戦:安城合戦編Ⅱ 2-4 日覚が聞いた話の出所と経緯はどうなっているのか? | トップページ | 川戦:安城合戦編Ⅱ 第3節の論点抽出:北条氏康書状のプロファイル(その1) »