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2017年6月11日 (日)

川戦:安城合戦編Ⅱ 3-1 北条氏康書状作成の背景について

  北条氏康書状は天文十七年三月十一日に出された書状です。この書状が書かれてからわずか八日後、三河国の西から東下してくる織田信秀率いる尾張衆と、東から西上する太原崇孚率いる駿河衆が小豆坂で激突し、雌雄を決したいわゆる「第二次小豆坂合戦」が起こっています。北条氏康書状はこれ以前に織田信秀が書き送った書状の返事として書かれています。その書状そのものは現存していないのですが、北条氏康がその書状に何が書かれていたのかを事細かに記しているので、当時の状況と重ね合わせるとある程度推測することができます。

 すなわち、織田信秀は今川義元との決戦に及ぶにあたって北条氏康に同盟を持ち掛けたらしい。それも直前になって思いついたようです。なので、書状は『尾張と相模は遠路のせいか近年は誼を通じることがなかったのにわざわざ手紙を送ってくれてありがとう』、などと読みようによれば、皮肉とも取れる言い回しから始まっております。
 日覚が書状を書いていたころには三河には戸田康光という織田信秀の味方が田原城で戦っておりました。そこも城は陥落し、今川義元は満を持して西三河に蟠踞する織田勢を追い出すべく兵を西三河に進出させようとしています。日覚書状では「岡崎(松平広忠)は降伏させた」とも読めるようなことを書いてあるのですが、その広忠は岡崎城南方上和田に砦を築いて籠もっていた織田方の同族松平忠倫を筧重蔵に暗殺させていて、今川方としての存在感を示しておりました。
 織田信秀としてはこの状況で東三河にいる今川軍に攻め込まれたくはなかったものと推察されます。そこで駿河の今川本領東方に位置する相模国の北条氏康と接触し、今川義元のいる駿河国を牽制してもらうことを画策したものと考えられます。今川義元と北条氏は天文十四年まで戦争をしており、駿河国の東半分を北条氏康の父氏綱は占領していたのですが、その氏綱が天文十年に亡くなり今川義元が北条領の東を領する山内上杉氏と同盟を結んで失地回復を図ったところで和議がなった状況でした。

 信秀からしてみれば、今川義元が三河攻めに国力を傾注できるようになったのはこの和議が大きいと見たのでしょう。逆に言うとこの和議が壊れれば今川義元は征西どころではなくなります。なので、北条氏康に同盟を持ち掛けることは自然な流れでした。北条氏康は、この和議の翌年河越合戦で山内・扇谷上杉及び古賀公方連合軍を撃破し、父氏綱が打ち立てた後北条家構想の実現が現実化しつつあるところでした。
 氏康は織田信秀の申し出のメリットとデメリットを測り、申し出を断って今川家を敵に回さない選択をしたようです。とは言うもののせっかく来訪した織田信秀というカードを潰すのも利口ではありません。よって、言質を取らせないようにしつつ婉曲に断りを入れる書状が用意されたものと考えられます。この情勢そのものについて書かれた論文の主旨に異議はありません。但し、論文の次節でこの書状は実際には発給されなかったのではないか、と指摘している点については別途考察を進めるつもりです。

 その書状を現代の我々が読めるのは、江戸時代に編纂された史料集「古証文」のおかげです。これは戦国以前の武将たちの書状写しを肉筆でまとめた史料集で、内閣文庫蔵本として三種の写本が国立公文書館に保管されています。三冊の写本のうち二冊は大久保酉山という江戸時代の蔵書家が所有したものと、和学講談所という塙保己一が群書類従を編纂する為に作った古文書収集所にあったものをそれぞれ幕府が引き継いだものということが分かっています。残り一冊は出所は記されないまま幕府の書庫にあったものです。

 論文では「朝野旧聞ほう藁にも収録」と、以下のように紹介されていますが、若干不正確で補足が必要かと思います。

〇論文より引用
古くは『朝野旧聞ほう藁』にも収録されているが(永正三年十月十二日条)、誤って永正三年の別文書に繋げ末尾が消滅した状態で収録されている。

 まず、『朝野旧聞ほう藁』に収録されている北条氏康書状は古証文からの引用である旨、記事冒頭に記されています。この書き方だと、北条氏康書状は『古証文』と『朝野旧聞ほう藁』が別々に所載したものであるように読めてしまいます。
 また、『誤って永正三年の別文書に繋げ末尾が消滅した状態で収録』されているのは、三種ある古証文の写本のうち、和学講談所旧蔵六冊本と旧蔵元不明(おそらくは幕府の書庫にあった)六冊本もまた、同様な状態で収録されています。
 このあたりの事情は過去に考察しましたが、古証文が編纂又は筆者された段階で乱丁が生じた結果、誤った順番で書物が綴じられ、その誤りを気づかないまま『朝野旧聞ほう藁』が筆写したものです。
 当時の書物は和綴じ本と言って、文書を綴った半紙を二つ折りにして糸を通して本の形にしておりました。写本を作る時は、糸を外して一枚ずつ折った紙を広げてその上に半紙を乗せてトレースしていたようです。三種の写本はそれぞれ筆跡は違うものの、縦横の文字数、文字の大きさ、字体をほぼ統一させておりますので、そのようにまとめられたものと思われます。おそらくは乱丁が生じたのは、綴じなおした時に順番を間違えてしまい、間違えた順番がその後の写本においても踏襲されてしまったためでありましょう。
 三冊の写本のうち、大久保酉山旧蔵本は後になって気づいたものと思われますが、この乱丁が訂正された上で、四冊本に改められております。

 今日古証文という史料でその内容を吟味する場合、この三種の写本に基づいて考えるべきと私は思うのですが、論文においては内閣文庫「古証文」がどのような形態で保管されているかについては明記されていません。

 この論点は次稿でより詳細に検討してゆきたいと思います。

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