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2017年6月18日 (日)

川戦:安城合戦編Ⅱ 3-3 ①『古証文』の底本は何か?

 本稿では古証文の現存する三種写本の成り立ちについて、考察してゆきます。とは言っても情報は限られていますので、明確な結論を出すところまでは至らないのですが、ある程度の輪郭は描けたらいいなと思っております。
 古証文と朝野旧聞ほう藁との関係は安城市史にも以下の通り言及されています。

〇安城市史5 資料編 古代・中世より引用
【解説】 史料五二七は、「朝野旧聞裒藁」にも「古証文曰(にいわく)」として載せられているが
 (同書永正三年<一五〇六>十一月十二日条)、そこでは、本文末尾の「恐々謹言」の、「恐々」
以降から、全くの別文書である永正三年閏十一月七日付宗瑞書状(史料三七五解説参照)につながった
不完全な形で収められている。

 実際に朝野旧聞裒藁の内容を陰影本に落とした「内閣文庫所蔵史跡叢書 特刊第一 朝野旧聞裒藁 第一巻」史籍研究会編 汲古書院刊で調べてみると、「古証文曰(にいわく)」ではなく、「古證文載(にのる)」という表現になっておりました。そこは本稿の主旨と直接関係ないのですが、要するに「曰」にせよ、「載」にせよ朝野旧聞ほう藁の成立より古証文の成立が古いということを示します。朝野旧聞ほう藁は幕臣戸田伊豆守ら二十一名の編纂グループが林述斎の監修の元、1819年(文政二年)に起稿され、1841年(天保十二年)に完成した歴史書です。なので、古証文はどんなに新しいとしても1841年(天保十二年)には存在していたことが判ります。
 ただし、現存している旧蔵所不明本の古証文から朝野旧聞ほう藁の記事が起こされたかどうかまでは判りません。なぜなら、旧蔵所不明本の書写年代が不明であるからです。現存する古証文の写本に乱丁が存在する事や、和学講談所旧蔵本や大久保酉山旧蔵本が存在することから、古証文は成立後数次に渡る筆写が行われていたことは確実です。旧蔵所不明本の古証文から朝野旧聞ほう藁の記事が起こされた可能性は確かにあるのですが、朝野旧聞ほう藁成立後に旧蔵所不明本の筆写が行われた可能性もまた存在するからです。
 川戦:安城合戦編⑪漢字パズルⅡ(「無」の読み方)で、北条氏康書状の「〇相談」の「〇」の字形の違いを以下のように書きました。

〇判読辞典「無」>大久保酉山旧蔵本≧和学講談所旧蔵本>旧蔵所不明本>朝野旧聞ほう藁≧判読辞典「被」(#の数字はリンク先のスケールを参照)
Photo_3


 大久保酉山旧蔵本と和学講談所旧蔵本の字形はほぼ同じなのに、旧蔵所不明本の字形が朝野旧聞ほう藁寄りになって「被」の字に近くなっているのは、旧蔵所不明本の作成時に底本の文字を判読した朝野旧聞ほう藁を参考にしつつ読める文字に近づけた結果だったのではないかと考えられるのです。肉筆写本はトレースで作るわけですが、その筆の動きが判読された文字を意識して行われたとすれば、字形もそちらに近づいても不思議ではないわけです。

 旧蔵所不明本の字体が朝野旧聞ほう藁に寄った文字がもう一箇所あります。以下の部分の「違」と「哉」の字です。

〇相違之刷候哉(#の数字はリンク先のスケールを参照)
Photo_3


 「違」の字について、大久保酉山旧蔵本・和学講談所旧蔵本では「韋」の部分から「しんにゅう」に向かう筆の流れが小さく、「しんにゅう」であるかどうかも判断しにくいのですが、旧蔵所不明本は朝野旧聞ほう藁ににて大きく筆が流れていてより明確に「しんにゅう」の形が判る字形となっています。
 また、大久保酉山旧蔵本・和学講談所旧蔵本では「哉」の左下部分がかぎ状に湾曲しているのですが、旧蔵所不明本ではその湾曲部が無くなっています。かぎ状の湾曲部分は朝野旧聞ほう藁にもありません。逆に旧蔵所不明本の字体から大久保酉山旧蔵本・和学講談所旧蔵本の湾曲や無に寄った文字がトレースによって生じうるのかどうか、疑ってみてもよいのではないかと私は考えます。

 以上、旧蔵所不明本が朝野旧聞ほう藁編纂以後に作られた可能性について言及した訳ですが、その可能性に関しては和学講談所旧蔵本も変わるところはありません。
 確実にわかっていることは1793年(寛政五年)に塙保己一が和学講談所を江戸麹町(後に六番町)に設立した時以後、1863年(慶応四年)に廃止されるまでのどこかの時点からその本はそこに存在したという事だけです。その写本がいつそこに置かれたのか、和学講談所設立時点でその写本は作成されていたのか、朝野旧聞ほう藁編纂以後に書写されて和学講談所に収められたのかすら不明なのです。

 しかし、残る一書大久保酉山旧蔵本については、少し事情が異なります。旗本にして一大蔵書家である大久保忠寄こと、酉山が自らの書庫に蔵した本です。1801年(享和元年)七月に彼は亡くなりますが、彼が残した蔵書と文庫は彼の息子が管理するべく、幕府も金百両を与えております。その管理の一環として彼の蔵書は目録が作られ、現在その内容は「板倉・朽木・大久保家蔵書目録」という刊本で確認することができます。その中に「古證文 並目録 五冊」として古証文が掲載されています。国立公文書館の大久保酉山旧蔵本が四冊七巻本でしたが、目録の一冊を除けば冊数は一致します。

〇板倉・朽木・大久保家蔵書目録 第4巻 (酉山蔵書目録 函別編)より引用(拙稿にて下線部付記)
百五十四番
土佐國古文書  四冊
古證文 並目録 五冊
水月古鑑

 これが意味する所は明確で、大久保酉山旧蔵本は1819年(文政二年)に朝野旧聞ほう藁が起稿される以前に存在していたことが確実な本であるということです。と同時に、それは朝野旧聞ほう藁に書写された版ではないことも断定できます。と言うのは大久保酉山の蔵書目録が成立した時点ですでに現存する他の写本に存在する乱丁が直されていることが冊数から判断できるからです。

 古証文の字体を判断するにあたって、1801年(享和元年)七月には確実に存在していたことが判っている本と、いつ書写されたのかが不明な本。いずれを優先して考えるべきかは明らかであろうと思います。

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