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2017年6月25日 (日)

川戦:安城合戦編Ⅱ 3-3 ③とある幕臣の蔵書目録

 本稿は余談です。大久保酉山は本名を大久保忠寄といい、大久保彦左衛門忠教のすぐ上の兄、大久保忠長の血統を継いでいる人物です。彼は1732年(享保十七年)に生まれ、通称一郎右衛門、官途名を内匠を名乗り、上総・武蔵・伊豆に千二百石の知行を持つ大身の旗本として書院番という役職を務めておりました。書院番と言うのは、書物蔵の番人ではなく、一朝事あれば騎兵として将軍を護衛する親衛隊員のことを言います。

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 父親の忠眞も小姓組(これも書院番と同じく将軍親衛隊の役職です)を務めた武門系の旗本です。考えてみれば大久保彦左衛門忠教も大坂夏の陣で徳川家康の親衛隊として槍奉行を務めておりました。大久保庶家はそういう役どころを任される家系であったのでしょう。仕えた将軍は徳川家重、家治、家斉の三代という感じでしょうか。とは言え、長い泰平の中で親衛隊を務めていた大久保忠寄は文武両道に熱心で中でも和漢・天文・易・絵画・囲碁・薬草の学や遊興ばかりか大根の漬け方等の料理にも精通していたらしく、自著の中に記事を残しています。彼は中でも和学に熱心で安永・天明期いわゆる田沼時代に和学についての著述を表しているそうです。そして彼の幕臣としての俸禄は書籍購入の為に費やされてゆきました。
 1789年(寛政元年)に彼は家督を内藤家からの養子忠豪に譲って隠居し、酉山と号しました。五十八歳の時ですから泰平の世とは言え武人としての務めはとっくに譲っておくべき頃でしょう。ちなみにこの年、フランスでは大革命が起こっており、その翌年松平定信は寛政異学の禁で幕府公認の漢学を朱子学に絞っています。別に松平定信が和学を遠ざけたという事はないのですが、彼は彼で隠居の立場から和学興隆を図ろうとしたのでしょう。自邸の書庫に学者の出入りを許したそうです。彼が拝領した屋敷は江戸愛宕山下にあり、その書庫を愛岳麓文庫と呼んで、蔵書に書印を押して管理しました。愛岳=愛宕山の麓の書庫と言うわけですね。

〇愛岳麓蔵書印(大久保酉山旧蔵古証文写本に押印)
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 ここに出入りしていた同じく幕臣にして狂歌師の大田南畝によると、この書庫には二階がなく、床は板羽目で籾殻が撒いてあり、入口の棟札を書いたのは、群書類従や寛政重修諸家譜の編纂にも加わった国学者屋代弘賢と言う人物であったということらしい。

 この書庫の評判は幕府の耳にも入りました。奇しくも尊号一件でしくじった松平定信が老中の職を辞した1793年(寛政五年)の事です。幕府は家督を継いだ大久保主税忠豪を呼び出して、書庫修繕費として金百両を下げ渡しました。大久保主税はこの翌年、蔵書の目録を作って幕府に提出しております。(ただし古証文はこの目録ではなく別の目録に載っています。主税提出本は板倉・朽木・大久保家蔵書目録 第5巻 (酉山蔵書目録 分類編)として刊行されております。)百両下賜と同じ年に幕府は塙保己一に和学講談所の設立を許しておりますので、松平定信解任のこの年は幕府において俄かに歴史ブームを起こっていたようです。実はちょうどこの時ロシアからアダム・ラックスマン率いるロシア使節が根室に来航しており、国交交渉をしていた真っ最中でした。そんな経緯から幕府も日本の地理と歴史に大いに関心を寄せ、その情報を収集しておく必要性を感じるようになったという事かもしれません。

 そんな時勢は隠居暮らしの大久保酉山の身にも影響を及ぼし、幕府は寛永年間に編纂した寛永諸家系図伝にひきつづく家系図集の政策を企画し、酉山を再登用いたします。これは幕府若年寄堀田正敦をプロジェクトリーダーにして、先に述べた国学者屋代弘賢(彼もまた御家人として幕府に仕えております)も参加した一大事業でした。彼の蔵書家としての知見を期待しての事であったようですが、大久保酉山はその二年後の七月に亡くなりました。享年七十です。

 その知らせを聞いた時、大田南畝は銅座勤務の為に大坂におりました。彼は大久保主税が百両下賜された前年に幕府が清国の科挙に倣って試験的に導入した学問吟味登科済を受験し、見事に甲科及第主席合格することで幕僚としての道が開けました。彼は若いころから狂歌師としての才能が有り余り、そういう著作を出して売れっ子作家になっていたせいで、寛政の改革が始まった頃に次の狂歌が流行してそれが彼の作品と目されるようになっていました。

 世の中に蚊ほど五月蝿きものはなし、ぶんぶぶんぶと夜も眠れず
(世の中に斯ほど五月蝿きものはなし、文武文武と夜も眠れず)

 実は上の狂歌は彼の作品ではなかったのですが、これが田沼から松平定信時代への変わり目で幕政批判の一首の意味にも取れるので、悪い噂が立っていたわけです。そこで一念発起して国家公務員試験に一発合格したものの、彼は勤務中に次のような狂歌を書き付けて怒られる不良官僚でした。

 五月雨の日も竹橋の反古調べ 今日も降るてふ明日も降るてふ
(五月雨の日も竹橋の反古調べ 今日も古帳 明日も古帳)

 そんな彼が大坂に転勤になって(これ自体は左遷ではありません。いわゆる出世コースの異動です)間もなく聞いたのが、大久保酉山死去の知らせだったのです。その報せを聞いて大田南畝が作ったのが次の七言絶句でした。

〇南畝集十二 石楠堂集 享和元年(1801年)十月 大田南畝全集 第四巻 岩波書店刊より引用
2065 哭酉山翁
 歳逢辛酉々山頽
 二酉蔵書空自堆
 憶昨殊恩下台命
 為修文庫賜金催

[酉山翁を哭す]
歳は辛酉に逢うて酉山頽(くず)れ
二酉の蔵書空しく自ら堆(うずたか)し
憶(おも)う昨(むかし)殊恩台命下り
文庫を修するが為に賜金催ししことを

 訃報を知って七言絶句を読むのは唐の李白が阿倍仲麻呂の訃報を知って(遠方で遭難したものの、実は生きていた)「哭晁卿衡(晁卿衡=阿部仲麻呂を哭す)」という七言絶句を編んだのに倣ったのでありましょう。没年である1801年(享和元年)は辛酉年にあたり、酉山の号に並べて調子をとったり、酉山の蔵書を山に見立てたりして趣向を凝らした絶句です。後半部で大久保主税への百両下賜のエピソードに触れ、それが彼にとって印象深い記憶だったことが窺えます。

 大久保酉山の蔵書目録は1794年(寛政六年)に大久保主税が作った物の他にその後より晩年である1801年(享和元年)の間あたりに改めて作られた物もあったらしく、件の「古證文 並目録 五冊」はこちらの目録の方に載っております。こちらの目録には楽善斎主人なる人物の跋文が掲載されております。どうもこの楽善斎なる人物が大久保酉山と同一人物であるらしく、朽木家蔵書目録では「大久保忠寄 上書目録」に続けて「同 楽善斎蔵書目録」という書名を載せております。すなわち、大久保忠寄=楽善斎ということらしいです。
 

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2017年6月24日 (土)

川戦:安城合戦編Ⅱ 3-3 ②『古証文』の底本は何か?

ここまでの論点を整理すると以下のようになります。

① 現存する三種の古証文写本には判読困難な文言がそのままの字形や、改行・改頁位置で書写されている。
② 朝野旧聞ほう藁は古証文の判読困難な文言の解読を試みた形跡がある。
③ 旧蔵所不明本古証文には朝野旧聞ほう藁の解読結果が反映していると見られる文言が存在する。
④ ①~③より、旧蔵所不明本古証文は朝野旧聞ほう藁成立後、同書を参考に書写された可能性がある。

⑤ 大久保酉山旧蔵本古証文は他写本にある乱丁が正されていると同時に冊数と巻数に不一致が存在する。
⑥ 大久保酉山蔵本目録に古証文が存在し、その冊数は現存大久保酉山旧蔵本と一致する。
⑦ 大久保酉山の死没は朝野旧聞ほう藁の起稿以前である。
⑧ 朝野旧聞ほう藁は古証文の乱丁を正さないまま記事を書写している。
⑨ ⑤~⑦により大久保酉山旧蔵本は乱丁が正された形で朝野旧聞ほう藁起稿以前に存在していた。
⑩ ⑤~⑦と⑧により大久保酉山旧蔵本は朝野旧聞ほう藁の底本ではない。

 一連の考察の流れから言うと④が最も論拠の弱い点なのですが、これに反証するとすれば、旧蔵所不明本や朝野旧聞ほう藁の字体からどういう経緯を経れば大久保酉山旧蔵本や和学講談所旧蔵本に変遷してゆくのかを考察しなければならなくなるでしょう。今のところ私には、そのような流れになる経緯は思いつきません。

 上記の流れから考察できること。それは、朝野旧聞ほう藁の編纂の為に、旧蔵所不明本・大久保酉山旧蔵本以外の写本が使われたということになります。古証文という本が刊行されることなく、現存する肉筆写本の出所が江戸市中の範囲内に限定されている事を考えると、古証文の写本は限られた部数しか作られていないと考えられます。だとすると、朝野旧聞ほう藁の編纂時に引用された古証文とは和学講談所旧蔵本として現代に伝わる写本である可能性は決して低くはありません。
 さらに可能性を敷衍してみます。朝野旧聞ほう藁の編纂後に新たに古証文の写本が作られたとするなら、そこに含まれる判読困難な文言を正確に書写することを目的に朝野旧聞ほう藁の解釈が参考にされ、本来の字形は活かされつつも微妙に朝野旧聞ほう藁の解釈に字形が寄った写本がつくられた。このより実用として使いやすくなった写本が旧蔵所不明本であり、江戸城内の文庫に実用を目的として残り、筆写元の本は保存・バックアップを目的として和学講談所に下げ渡されたという見立ても成立しうるでしょう。

 ともあれ、朝野旧聞ほう藁の字句解釈についてはあくまで参考とした上で、大久保酉山旧蔵本や和学講談所旧蔵本の字形と大きく外れる文字の解釈については、一つづつ確認した方がよいと私は考えます。その上で「駿州へ〇相談」について改めて考えてみます。

〇安城市史5 資料編 古代・中世より引用(下線部は拙稿にて付記)
 駿州へ被相談去年向彼国被起軍
 安城者要害則時ニ被破破之由候

 無相談と読んだ場合の解釈を論文の注8においては、以下のような解説をしております。

〇論文より引用(※印は拙稿にて付記。補注参照)
去年は今川と「相談」の上で三河においていくさを起こしたが、「それ以後」に
「よろずその国(尾張※)にとって相違のあしらい」が生じたので、近々に織田信秀が
再度三河に出馬することになった、と文章は無理なくつながっており、文意も明白である。
これを「相談なく」と解したのでは、かえって「其れ以後」に文章がつながらない。

 文章の流れがおかしくなるという論点での指摘になります。こちらも既に国家鮟鱇ブログの鮟鱇氏が指摘されている事でもあるのですが、「去年向彼国起軍」の「被」の文字ですが、この「被」の字形が明らかに同じ文書の他の「被」の字形とは異なっております。

〇「向彼国被起軍」
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〇「被」の文字
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 ここの部分は戦国遺文が読んでいるように「之」の字も入る余地がありそうです。その様に読んだ場合の解釈を以下に示します。

(原文改) 仍三州之儀駿州へ無相談去年向彼国之起軍
(読み下し)仍て三州の儀、駿州へ相談無く、去年彼国の起した軍に向かい
(拙訳)  よって三河の一件ですが、駿河国に相談もなく去年彼の国(三河)が起こした軍に向かって

 三河国=岡崎=松平広忠が宗主国の駿河に相談もしないで勝手に軍を起こしたのを織田信秀が破ったと解釈してやれば、論文が指摘している文章の流れの不自然さは解消されますし、三河をめぐる織田と今川の約定をもとにした秩序も考える必要はなくなります。
 よって、「無相談」とよんでもなお、解釈は成立するのではないかと考える次第です。

 次稿においては、少し話を脱線させて蔵書家大久保酉山と彼が生きた時代を描写してみたいと思います。

※その国=尾張とする解釈は間違い。文の流れから駿河だと私は考えます。
第一に「預貴札候(あなたの手紙を預かりました)」とあるように信秀(尾張)への指示代名詞は「貴」
第二に「殊に岡崎の城『其の国』より相押さえ候」の解釈が自分で自国から押さえることになっておかしい。

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2017年6月18日 (日)

川戦:安城合戦編Ⅱ 3-3 ①『古証文』の底本は何か?

 本稿では古証文の現存する三種写本の成り立ちについて、考察してゆきます。とは言っても情報は限られていますので、明確な結論を出すところまでは至らないのですが、ある程度の輪郭は描けたらいいなと思っております。
 古証文と朝野旧聞ほう藁との関係は安城市史にも以下の通り言及されています。

〇安城市史5 資料編 古代・中世より引用
【解説】 史料五二七は、「朝野旧聞裒藁」にも「古証文曰(にいわく)」として載せられているが
 (同書永正三年<一五〇六>十一月十二日条)、そこでは、本文末尾の「恐々謹言」の、「恐々」
以降から、全くの別文書である永正三年閏十一月七日付宗瑞書状(史料三七五解説参照)につながった
不完全な形で収められている。

 実際に朝野旧聞裒藁の内容を陰影本に落とした「内閣文庫所蔵史跡叢書 特刊第一 朝野旧聞裒藁 第一巻」史籍研究会編 汲古書院刊で調べてみると、「古証文曰(にいわく)」ではなく、「古證文載(にのる)」という表現になっておりました。そこは本稿の主旨と直接関係ないのですが、要するに「曰」にせよ、「載」にせよ朝野旧聞ほう藁の成立より古証文の成立が古いということを示します。朝野旧聞ほう藁は幕臣戸田伊豆守ら二十一名の編纂グループが林述斎の監修の元、1819年(文政二年)に起稿され、1841年(天保十二年)に完成した歴史書です。なので、古証文はどんなに新しいとしても1841年(天保十二年)には存在していたことが判ります。
 ただし、現存している旧蔵所不明本の古証文から朝野旧聞ほう藁の記事が起こされたかどうかまでは判りません。なぜなら、旧蔵所不明本の書写年代が不明であるからです。現存する古証文の写本に乱丁が存在する事や、和学講談所旧蔵本や大久保酉山旧蔵本が存在することから、古証文は成立後数次に渡る筆写が行われていたことは確実です。旧蔵所不明本の古証文から朝野旧聞ほう藁の記事が起こされた可能性は確かにあるのですが、朝野旧聞ほう藁成立後に旧蔵所不明本の筆写が行われた可能性もまた存在するからです。
 川戦:安城合戦編⑪漢字パズルⅡ(「無」の読み方)で、北条氏康書状の「〇相談」の「〇」の字形の違いを以下のように書きました。

〇判読辞典「無」>大久保酉山旧蔵本≧和学講談所旧蔵本>旧蔵所不明本>朝野旧聞ほう藁≧判読辞典「被」(#の数字はリンク先のスケールを参照)
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 大久保酉山旧蔵本と和学講談所旧蔵本の字形はほぼ同じなのに、旧蔵所不明本の字形が朝野旧聞ほう藁寄りになって「被」の字に近くなっているのは、旧蔵所不明本の作成時に底本の文字を判読した朝野旧聞ほう藁を参考にしつつ読める文字に近づけた結果だったのではないかと考えられるのです。肉筆写本はトレースで作るわけですが、その筆の動きが判読された文字を意識して行われたとすれば、字形もそちらに近づいても不思議ではないわけです。

 旧蔵所不明本の字体が朝野旧聞ほう藁に寄った文字がもう一箇所あります。以下の部分の「違」と「哉」の字です。

〇相違之刷候哉(#の数字はリンク先のスケールを参照)
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 「違」の字について、大久保酉山旧蔵本・和学講談所旧蔵本では「韋」の部分から「しんにゅう」に向かう筆の流れが小さく、「しんにゅう」であるかどうかも判断しにくいのですが、旧蔵所不明本は朝野旧聞ほう藁ににて大きく筆が流れていてより明確に「しんにゅう」の形が判る字形となっています。
 また、大久保酉山旧蔵本・和学講談所旧蔵本では「哉」の左下部分がかぎ状に湾曲しているのですが、旧蔵所不明本ではその湾曲部が無くなっています。かぎ状の湾曲部分は朝野旧聞ほう藁にもありません。逆に旧蔵所不明本の字体から大久保酉山旧蔵本・和学講談所旧蔵本の湾曲や無に寄った文字がトレースによって生じうるのかどうか、疑ってみてもよいのではないかと私は考えます。

 以上、旧蔵所不明本が朝野旧聞ほう藁編纂以後に作られた可能性について言及した訳ですが、その可能性に関しては和学講談所旧蔵本も変わるところはありません。
 確実にわかっていることは1793年(寛政五年)に塙保己一が和学講談所を江戸麹町(後に六番町)に設立した時以後、1863年(慶応四年)に廃止されるまでのどこかの時点からその本はそこに存在したという事だけです。その写本がいつそこに置かれたのか、和学講談所設立時点でその写本は作成されていたのか、朝野旧聞ほう藁編纂以後に書写されて和学講談所に収められたのかすら不明なのです。

 しかし、残る一書大久保酉山旧蔵本については、少し事情が異なります。旗本にして一大蔵書家である大久保忠寄こと、酉山が自らの書庫に蔵した本です。1801年(享和元年)七月に彼は亡くなりますが、彼が残した蔵書と文庫は彼の息子が管理するべく、幕府も金百両を与えております。その管理の一環として彼の蔵書は目録が作られ、現在その内容は「板倉・朽木・大久保家蔵書目録」という刊本で確認することができます。その中に「古證文 並目録 五冊」として古証文が掲載されています。国立公文書館の大久保酉山旧蔵本が四冊七巻本でしたが、目録の一冊を除けば冊数は一致します。

〇板倉・朽木・大久保家蔵書目録 第4巻 (酉山蔵書目録 函別編)より引用(拙稿にて下線部付記)
百五十四番
土佐國古文書  四冊
古證文 並目録 五冊
水月古鑑

 これが意味する所は明確で、大久保酉山旧蔵本は1819年(文政二年)に朝野旧聞ほう藁が起稿される以前に存在していたことが確実な本であるということです。と同時に、それは朝野旧聞ほう藁に書写された版ではないことも断定できます。と言うのは大久保酉山の蔵書目録が成立した時点ですでに現存する他の写本に存在する乱丁が直されていることが冊数から判断できるからです。

 古証文の字体を判断するにあたって、1801年(享和元年)七月には確実に存在していたことが判っている本と、いつ書写されたのかが不明な本。いずれを優先して考えるべきかは明らかであろうと思います。

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2017年6月17日 (土)

川戦:安城合戦編Ⅱ 3-2 織田信秀は出兵を今川義元に相談したのか?

  論文の第3節は北条氏康書状の紹介からすぐに補足に入っています。

〇論文より引用
仍て三州の儀、駿州に相談せられ、去年かの国に向け軍を起こされ、安城は要害、即時に敗れるるの由候
(中略)
*傍線を付した二箇所は、文字につき説明を要する。
相談せられ(原文「被相談」)『神奈川県史』や愛知県史「中世3」などは「無相談」と読んでいるが、
以前に指摘した通り、文字自体は間違いなく「被」である。

もう一ヶ所が「安城は要害」という文言ですが、これについての説明は後段に譲ります。

 とりあえず、この補足の前段に「岡崎城を押さえた」別文書の存在を言い、その来歴を語って本文を紹介した直後なのですから、岡崎城云々の解説に入るのが本来の流れのはずなのですが、それを後節に持っていってわざわざ、岡崎城攻落の有無との関連性の薄い駿河との相談の有無や、文書における安城城の位置づけについての補足に入るところが、当該書状の解釈がいまだ定まっていない証拠なのだろうと思います。そしてこの部分は私自身が論文中で最も納得のいかない部分でもあります。
 それは上記の部分だけでなく、注釈の部分において長文を費やして解説をしております。その字句の形状に係る主張が以下のものとなります。

〇論文より引用
(8)「被」「無」の草書体は似ることがある。この文書中の他のくだりで「被」は何度も用いられ、
「無」も二度用いられている。『古証文』原本に当たってそれらと比較するに、『古証文』筆記者が
当該箇所を「被」と書いていることは明らかである。

 この内容は平成五年に編纂された安城市史に著者自身が書かれた解説の内容がほぼ踏襲されています。しかし、『古証文』は前稿で示した通り、編纂時期が不明な上、現存するのは写本のみであり、いつ作成されたものであるか不明な物も含まれております。
 三種の写本の字形については、過去の拙稿にて考察した通り、素人目には「無」と読んでも差し支えないように見えると結論付けました。詳細は以下リンク先を参照してください。

〇川戦:安城合戦編⑪漢字パズルⅠ~Ⅲ

 それだけに安城市史の解説同様「原本」なるものをもって、「被」と断定するのであれば、少なくとも論文が言う所の「原本」の来歴を明らかにするべきではなかったかと思います。

 強いてこの論文が「原本」とした物を推理するなら、当ブログで旧蔵所不明本と呼称したものではないかと考えております。この本は肉筆写本三種のうち、朝野旧聞ほう藁の字体に最も近く、かつ、他の二写本と違って江戸城城外に流出したという記録がありません。但し、作成又は書写の経緯と年代が不明でありその活用には色々な前提をつけられるべき写本であることは留意する必要があるでしょう。
 城外に出たものの一書が江戸中期の旗本にして蔵書家でもある大久保酉山が愛宕山下の自邸書庫に蔵されたものです。残る一書は検校塙保己一が群書類従を作るために麹町(後六番町に移転)に設立した学問所に納められたものです。城外に出たと言っても江戸城下の域内であり、かつ、管理者も幕臣です。いずれも後に内閣文庫として国立公文書館に収められている事を考えると、それぞれの書庫にあった際も妥当な管理は行われており旧蔵所不明本を補完する写本として扱って何ら差し支えないと私は考えます。
 併せてこの三種の写本は朝野旧聞ほう藁と比較すると字体の選択、改行箇所、改頁箇所が一致しており、同一又は極めて近似した写本をトレースして筆写した物と想定できます。リンク先は大久保酉山旧蔵本(赤字に加工)と旧蔵所不明本(青字に加工)を重ね合わせたものです。ご参照いただければ一目瞭然でしょう。

〇画像比較大久保酉山旧蔵本+旧蔵書不明本
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 三写本と朝野旧聞ほう藁の違いは、写本の方は筆写を行う者が文意を取れるかどうかに関係なく、書かれている文字をあるがままにトレースしているのに対し、朝野旧聞ほう藁は読解を試み、その解釈に従って読みやすいように字体の統一を図っていることです。以下は北条氏康文書で使われている「被」という文字を刊本と古証文の肉筆写本、朝野旧聞ほう藁でどのように扱っているかを比較したものです。

〇「被」の一覧(#の数字はリンク先のスケールを参照)
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 032の文字が本稿でいう所の相談せられ(原文「被相談」)の部分に当たる所で、朝野旧聞ほう藁はここを「被」と読んでいるわけですが、それ以外の「被」の文字について、古証文の肉筆写本の字体がばらついているにもかかわらず、朝野旧聞ほう藁においては、すべて同じ字体で統一されています。これが意味する所は、朝野旧聞ほう藁は文書を掲載するときに古証文の底本を判読し、意味を解釈した上で転載しているわけです。それに対して古証文の写本については、そのまま読むと判読できない部分もあるがままに筆写しています。
 それが典型的に顕われているのが以下の字句です。そのまま読み下すと「破られ破るの由」でしょうか。意味不明です。なので、朝野旧聞ほう藁は二つ目の「破」の存在を抹消しています。

〇被破破之由候(#の数字はリンク先のスケールを参照)
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 その判断は正しいものかもしれませんが、そこに至るまでにどのような判断があったのか、朝野旧聞ほう藁の字面だけを眺めていてもわかりません。「〇相談」の部分を「相談せられ」と読むのか「相談なく」と読むのかは、少なくとも三つの古証文写本の来歴を可能な限り調べた上で判断してゆくことが妥当なのだろうと思います。

 もう一ヶ所、朝野旧聞ほう藁が判読を放棄した文字があって、それが以下の字句の四文字目の部分になります。

〇相違之刷候哉(#の数字はリンク先のスケールを参照)
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 刊本が「刷」と判読している部分で、著者が同じ論文と安城市史の解説では「あしらい」、その他、小田原市史では「つくろい」と読まれている部分です。手元にはあまり良い辞書が無いのですが、「刷」を「あしらい」とか「つくろい」と訓じている漢和辞典・古語辞典には今のところお目に書かれておりません。おそらくは朝野旧聞ほう藁もそうだったのでしょう。古証文写本とは似ても似つかない小さい縦棒文字で表現されています。古証文を解釈して転記した朝野旧聞ほう藁の解釈は後世の古証文から文字を判読した刊本史料集編纂者の解釈とは異なっているわけです。

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2017年6月11日 (日)

川戦:安城合戦編Ⅱ 3-1 北条氏康書状作成の背景について

  北条氏康書状は天文十七年三月十一日に出された書状です。この書状が書かれてからわずか八日後、三河国の西から東下してくる織田信秀率いる尾張衆と、東から西上する太原崇孚率いる駿河衆が小豆坂で激突し、雌雄を決したいわゆる「第二次小豆坂合戦」が起こっています。北条氏康書状はこれ以前に織田信秀が書き送った書状の返事として書かれています。その書状そのものは現存していないのですが、北条氏康がその書状に何が書かれていたのかを事細かに記しているので、当時の状況と重ね合わせるとある程度推測することができます。

 すなわち、織田信秀は今川義元との決戦に及ぶにあたって北条氏康に同盟を持ち掛けたらしい。それも直前になって思いついたようです。なので、書状は『尾張と相模は遠路のせいか近年は誼を通じることがなかったのにわざわざ手紙を送ってくれてありがとう』、などと読みようによれば、皮肉とも取れる言い回しから始まっております。
 日覚が書状を書いていたころには三河には戸田康光という織田信秀の味方が田原城で戦っておりました。そこも城は陥落し、今川義元は満を持して西三河に蟠踞する織田勢を追い出すべく兵を西三河に進出させようとしています。日覚書状では「岡崎(松平広忠)は降伏させた」とも読めるようなことを書いてあるのですが、その広忠は岡崎城南方上和田に砦を築いて籠もっていた織田方の同族松平忠倫を筧重蔵に暗殺させていて、今川方としての存在感を示しておりました。
 織田信秀としてはこの状況で東三河にいる今川軍に攻め込まれたくはなかったものと推察されます。そこで駿河の今川本領東方に位置する相模国の北条氏康と接触し、今川義元のいる駿河国を牽制してもらうことを画策したものと考えられます。今川義元と北条氏は天文十四年まで戦争をしており、駿河国の東半分を北条氏康の父氏綱は占領していたのですが、その氏綱が天文十年に亡くなり今川義元が北条領の東を領する山内上杉氏と同盟を結んで失地回復を図ったところで和議がなった状況でした。

 信秀からしてみれば、今川義元が三河攻めに国力を傾注できるようになったのはこの和議が大きいと見たのでしょう。逆に言うとこの和議が壊れれば今川義元は征西どころではなくなります。なので、北条氏康に同盟を持ち掛けることは自然な流れでした。北条氏康は、この和議の翌年河越合戦で山内・扇谷上杉及び古賀公方連合軍を撃破し、父氏綱が打ち立てた後北条家構想の実現が現実化しつつあるところでした。
 氏康は織田信秀の申し出のメリットとデメリットを測り、申し出を断って今川家を敵に回さない選択をしたようです。とは言うもののせっかく来訪した織田信秀というカードを潰すのも利口ではありません。よって、言質を取らせないようにしつつ婉曲に断りを入れる書状が用意されたものと考えられます。この情勢そのものについて書かれた論文の主旨に異議はありません。但し、論文の次節でこの書状は実際には発給されなかったのではないか、と指摘している点については別途考察を進めるつもりです。

 その書状を現代の我々が読めるのは、江戸時代に編纂された史料集「古証文」のおかげです。これは戦国以前の武将たちの書状写しを肉筆でまとめた史料集で、内閣文庫蔵本として三種の写本が国立公文書館に保管されています。三冊の写本のうち二冊は大久保酉山という江戸時代の蔵書家が所有したものと、和学講談所という塙保己一が群書類従を編纂する為に作った古文書収集所にあったものをそれぞれ幕府が引き継いだものということが分かっています。残り一冊は出所は記されないまま幕府の書庫にあったものです。

 論文では「朝野旧聞ほう藁にも収録」と、以下のように紹介されていますが、若干不正確で補足が必要かと思います。

〇論文より引用
古くは『朝野旧聞ほう藁』にも収録されているが(永正三年十月十二日条)、誤って永正三年の別文書に繋げ末尾が消滅した状態で収録されている。

 まず、『朝野旧聞ほう藁』に収録されている北条氏康書状は古証文からの引用である旨、記事冒頭に記されています。この書き方だと、北条氏康書状は『古証文』と『朝野旧聞ほう藁』が別々に所載したものであるように読めてしまいます。
 また、『誤って永正三年の別文書に繋げ末尾が消滅した状態で収録』されているのは、三種ある古証文の写本のうち、和学講談所旧蔵六冊本と旧蔵元不明(おそらくは幕府の書庫にあった)六冊本もまた、同様な状態で収録されています。
 このあたりの事情は過去に考察しましたが、古証文が編纂又は筆者された段階で乱丁が生じた結果、誤った順番で書物が綴じられ、その誤りを気づかないまま『朝野旧聞ほう藁』が筆写したものです。
 当時の書物は和綴じ本と言って、文書を綴った半紙を二つ折りにして糸を通して本の形にしておりました。写本を作る時は、糸を外して一枚ずつ折った紙を広げてその上に半紙を乗せてトレースしていたようです。三種の写本はそれぞれ筆跡は違うものの、縦横の文字数、文字の大きさ、字体をほぼ統一させておりますので、そのようにまとめられたものと思われます。おそらくは乱丁が生じたのは、綴じなおした時に順番を間違えてしまい、間違えた順番がその後の写本においても踏襲されてしまったためでありましょう。
 三冊の写本のうち、大久保酉山旧蔵本は後になって気づいたものと思われますが、この乱丁が訂正された上で、四冊本に改められております。

 今日古証文という史料でその内容を吟味する場合、この三種の写本に基づいて考えるべきと私は思うのですが、論文においては内閣文庫「古証文」がどのような形態で保管されているかについては明記されていません。

 この論点は次稿でより詳細に検討してゆきたいと思います。

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2017年6月10日 (土)

川戦:安城合戦編Ⅱ 第3節の論点抽出:北条氏康書状のプロファイル(その1)

 本稿は論文第3節:「織田信秀の岡崎攻落を伝える別文書 」について考察する物です。

 論文の第3節と第4節は論文著者が以前記した北条氏康書状に関する論考記事を撤回して、今回の新説に組み込むための儀式のような内容ですので、論文の第3節前半部分にある氏康書状の読み下し文まで一通り目を通したら、第5節に飛んで、飛ばした部分は後で読んでも概ね問題ないと思います。私自身は過去の論考記事のロジックと今回その修正に使われているロジックにも首をかしげる部分がありますので論文の記述通りに論考を進めますが、それよりも論文の新説の骨子とその妥当性を確認したい向きには第5節まで飛ぶことがおすすめです。

 この節の後半部分は日覚書状が「岡崎ハ弾江かう参之分にて」と書かれていることをピックアップして、同じことを言っている別文書があると以下の通り紹介しております。

〇論文より引用
実は、天文十六年に織田信秀が岡崎城を押さえたとの伝は、別の同時代史料にも存在する。

 前節でも紹介されている日覚の記述は「岡崎ハ弾江かう参之分にて、からゝゝの命にて候」であり、ここで書かれている岡崎というのは松平広忠のことであって城のことではありません。「岡崎城主の松平広忠が織田信秀に降参した」のであれば、織田信秀が岡崎城を押さえたのと同じ意味とも取りうるのですが、そのあたりの考察は拙稿では第5節にやるつもりです。

 それはともかく論文の言う別文書というのが、天文十七年三月十一日付織田信秀宛て北条氏康書状写です。「第二次小豆坂合戦」の直前に書かれたこの書状については、私は以前に詳しくブログ記事にしているわけですが、改めて論文を読みつつ、思いが至っていなかった点、なおも理解の及ばない点などを示し、考察してゆきたいと思います。

①北条氏康書状作成の背景について
 ・織田信秀の岡崎攻落を伝える別文書、天文十七年三月十一日付織田信秀宛て北条氏康書状写の紹介
 まずは、この書状がどのような背景で書かれた物かについて書かれています。ここに書かれている内容が私自身の認識と同じ物か、違っているところはあるかについて、まずはおさらいさせていただきます。

そして、その後に論文著者による氏康書状(長文版)の前半部読み下しが掲載されています。論旨の流れから「岡崎攻落」を示す別文書であることを示す目的で提示されているのですが、この論文における北条氏康書状の字句解釈は過去に出版された神奈川県史をはじめとする刊本史料集の解釈やこの書状を紹介した横山住雄氏や平野明夫氏らの著作における解釈と異なっている部分がありますので、この読み下し(原文は漢字かな交じりではありません)はあくまでも著者の解釈であることに留意する必要があります。そして、その解釈の差異についての説明が加わっているため、この節だけではなく、次節・次々節と三つの節を書状の内容の説明に費やす結果となっています。

 北条氏康書状を紹介した三つの節のうち、最初の「3.織田信秀の岡崎攻落を伝える別文書」においては、2つの点において、他刊本での字句解釈とは異なる自説の主張がなされています。

②信秀は出兵を駿州に相談したのか。
  〇論文より引用
  - 従来の刊本が「無相談」と呼んでいる部分は実は「被相談」であり、相談せられと解するべきである。

 この論点は拙ブログで過去に考証を試みたことがあるのですが、いまだに判らないのが本論文の注釈にも『古証文』原本にあたってそれを確認した結果とされていることです。私が調べた範囲では、そもそも当該文書集は成立年代が未詳で、現存するのは国立公文書館蔵の三種と東大史料編纂所蔵の一種の肉筆写本のみです。そこで③『古証文』の底本は何か について、を一稿設けて考察してみたいと思います。

④「安城は要害だから」か、「安城の要害を」か?
 この書状にある「安城者要害則時ニ被破破之由候」のセンテンスが刊本で紹介される時、「安城者」の「者」の文字には概ね「之」の字ではないか?という注釈が施されておりました。実際に私も三種写本を確認しているのですが、素人目には「者」とも「之」にもとれる微妙な字形です。過去に横山住雄氏と平野明夫氏がここを「之」として解釈して安城城を織田信秀が攻め取ったとして紹介したのですが、論文においては「之」と付されている刊本史料集の解釈に異議を呈したうえで、 「安城の要害を信秀が破った」ではなく、「安城は織田の要害だから当地の敵に勝利した」と解釈しております。この解釈の妥当性についても、考察してゆきたいと思います。

改行

 

〇北条氏康書状(写)の原文 安城市史5 資料編 古代・中世より引用(スケールは拙稿にて付記)

01---+----10----+----20
如来札近年者遠路故不申通候処懇切ニ示給候
21---+----30----+----40
悦着候仍三州之儀駿州へ被相談去年向彼国被
41---+----50----+----60-
起軍安城者要害則時ニ被破破之由候毎度御戦功
62--+----70----+----80--
奇特候殊岡崎之城自其国就相押候駿州ニも今橋
83-+----90----+----00-
被致本意候其以後万其国相違之刷候哉因茲
02--+----10----+----20-
彼国被相詰之由承候無余儀題目候就中駿州此

22--+----30----+----40-
方間之儀預御尋候近年雖遂一和候自彼国疑心
42--+----50----+----60-
無止候間迷惑候抑自清須御使并預貴札候忝候
62--+----70----+----80-
何様御礼自是可申入候委細者使者可有演説候
82--+
恐々謹言、

十七年
 三月十一日        氏康 在判

 織田弾正忠殿
       御返報

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2017年6月 4日 (日)

川戦:安城合戦編Ⅱ 2-5 論文が日覚書状から読み取ったこと。読み取っていないこと。

 論文が日覚書状から読みとったことは、実はこの章ではなく、次の「3.織田信秀の岡崎攻落を伝える別文書」に記されております。次の章の前半部分は前章のまとめ、後半部分で別文書の紹介から新たな論点を展開しておりますので、今までの考察内容を踏まえて、本稿では次章前半部分についての考察をしたいと思います。

 ここで論文が述べているのは、織田信秀が三河「一国を管領」、「弾(弾正忠織田信秀)は、「三州平均」)と書かれていることを指摘した上で、そこには誇張が含まれているとのこと。そして、誇張が含まれてしまうのはこの情報が織田信秀並びにその周辺から発せられたものである事が理由であろうことが示唆されています。

 そのうえで確かな情報として書状が語っているのは、岡崎こと松平広忠の降参とし、その降参の内容について、別文書を用いた考察を展開しております。ことに論文においては以下のように「確かな情報」として評価していて、非常に興味深いのですが、論文も考察を後回しにしていますので、本稿では踏み込みません。

〇論文より引用
当該文書が、三河における信秀の「威勢前代未聞」という
事態に関し、確かな情報として語っているのは、次のこと
である。
 岡崎ハ弾江かう参之分にて、からゝゝの命にて候、

 松平広忠の降伏についての考察は論文同様次稿以降に譲るとして、ここでは論文が日覚書状から読み取った「一国管領」と「三州平均」の文言についての評価について、検討してみます。

 まず「一国管領」です。前稿でも指摘した通り、論文は織田信秀が管領した一国を三河国としています。状況としては鵜殿領の制圧が未確定だし、岡崎を降参させることが一国管領や三河平均に必ずしも直結するわけでもありません。それ故論文は「誇張が含まれている」と解釈上の留保をつけざるをえなくなってしまっているように思えます。

〇論文より引用(拙稿にて下線部付記)
一三州ハ駿河衆敗軍の様二候て、弾正忠先以一国を管領候、威勢前代未聞之様二其沙汰共候、

 上記の「駿河衆」に対置させるべきは本来「尾張衆」であるはずなのですが、書状では弾正忠になっています。そのすわりの悪さから「威勢前代未聞」という記述を加える必要があったと私は解釈します。

 後世の我々は織田信長が天下をほぼ統一した事を知っています。その父親である織田信秀は美濃や三河に攻め込んで確たる戦果を得ていたことは甫庵信長記や牛一信長公記の初めの部分に書かれているので、興味のある人なら知っている事です。なので、織田信秀が駿河衆と一戦する主体となっても当然という気分が生まれても不自然ではありません。
 しかし、この書状の書き手は中世の僧侶日覚です。日覚が尾張出身で三河の地理にも詳しい人物であったとしても、逆に詳しい人物であったからこそ、三河で尾張衆を勝利に導いた弾正忠の尾張における威勢を「前代未聞」と描写ざるを得なかったのでしょう。書状の読み手は尾張や三河とは縁の薄い越後にある本山の坊主衆なので、駿河衆に対置する存在の弾正忠の立場については正確に記述したかったものと思料致します。

 次に、「三州平均」です。論文においては三州平均は誇張が含まれているので解釈を留保すべきと言っている一方で、岡崎降参は確かな情報として語っているといっているのですね。しかし、日覚書状が「岡崎降参」の前提として強調している点が書状に二ヶ所あります。

〇論文より引用
三州ハ駿河衆敗軍の様二候て
其謂ハ尾と駿と間を見あはせ候て、種々上手をせられ候之処二、覚悟外二東国はいくん二成候間、

 それは「駿河衆敗軍=東国はいくん」なのですね。日覚はそれ故に不安定な状況におかれている鵜殿氏のもとに弟子を送ると書いています。確かに三州平均や鵜殿領の状況は日覚が書状を書いた時点で知りえない情報かもしれませんが、駿河衆敗軍そのものは、あったこととして日覚は行動を起こしています。逆に言うと、鵜殿領の危機と三州平均は「駿河衆敗軍」の結果生じうるものなのですね。この論文にはその点についての言及はありません。

 では、三河平均とはいったいどのような状況をさすのでしょうか。三河は今川義元が征服するまで国主不在の状況でした。影響力の強い吉良家や三河を武力統一しかけた松平清康等の国人衆はいましたが、守護は勢力を失って久しく、平均には程遠い状況です。この三河後に西から織田勢が、東から今川勢が入り込みぶつかって、最終的に今川家による平定、すなわち平均がなされたことを我々は知っております。だとするなら、三河平均は無主の地であった三河に国主が定まったことを言うものと考えてよいでしょう。
 それは決して松平広忠が降参して達成するものでも、鵜殿領が占領されて達成するものでもないはずです。そして、書状の書かれた天文十六年時点で国主候補となりうる二つの勢力が三河国に侵入しておりました。

 ―弾正忠率いる尾張衆と駿河衆です―。

 日覚書状が書かれた天文十六年の九月ないしは八月頃に織田信秀率いる尾張衆と駿河衆の両勢力が雌雄を決するべく合戦に及び、その勝敗が定まった(駿河衆敗軍)とすれば、それは日覚が三河に国主が定まったと判断するにふさわしい状況と言えます。それはすなわち、牛一信長公記が年未詳八月上旬にあったとしている、第一次小豆坂合戦ではなかったでしょうか。

 仮に、天文十六年八月上旬ないしは十日に信長公記「あづき坂合戦の事」に書かれているような織田軍の勝利があったとすれば、当然織田信秀はその事を喧伝したでしょう。その結果鵜殿を檀越に持つ陣門法華は危機感を覚えることになり、さらに織田に呼応する勢力が三河国山間部や東三河地域にも現れることになれば、それこそが「三州平均」の日であるという解釈も成立し得ると私は考えています。

 これについては次稿以降、論文への考察を進める中で詳細に記述してゆくつもりです。
 現時点においては仮説未満の雑説として頭の片隅にでも置いておいていただければ幸いです。

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2017年6月 3日 (土)

川戦:安城合戦編Ⅱ 2-4 日覚が聞いた話の出所と経緯はどうなっているのか?

 弾正忠三河平均の翌日に上洛という解釈は状況的に難しいとすれば、日覚書状の解釈に問題があるはずです。であれば、別解としてどのようなものが考えられるでしょうか。次のセンテンスが問題の部分です。

〇論文より引用
弾ハ三州平均、その翌日ニ京上候
(中略)
信秀は三河を平らげ(「平均」にし)、その翌日京に上った。

 当時の書状に句読点は基本的に打たれることはありませんし、そのことは愛知県史資料編14巻頭の菩提心院日覚書状原文写真で確認できます。

〇愛知県史資料編14 巻頭菩提心院日覚書状原文写真より引用
弾ハ三州平均其翌日ニ京上候

 弾正忠の上洛がないことを前提に強いて読み下すなら、以下のような感じになるのでしょうか。
→弾は(「弾が」の誤記?)三州平均せしその翌日に(日覚の弟子たちが)京に上り候

 楞厳坊らが京にいたこと自体は論文が日覚書状を引用しつつ「「此の十日計己前ニ京都より」、筆者日覚のもとに罷り下った彼の弟子である楞厳坊並びに厳隆坊がもたらした(「厳隆坊にも同心にて候」)、京都における「其沙汰」すなわち、うわさ、評判である。」と言及しております。
 織田信秀が上洛していないとするなら、上洛したのは厳隆坊又はその他の陣門法華派の僧侶とは考えられないでしょうか。楞厳坊も十日+α日前には京都にいたことは書かれていますが、それ以前の事は書かれていません。楞厳坊が京都にいて地方檀徒の情報を取りまとめて日覚に届ける役目を負っていて、その事情が越後にある陣門法華総本山の本成寺との間で共有されていた。そしてその情報共有は定期的になされていたとすれば、わざわざ書状にその事情が書かれることもないでしょう。

 論文では三河で駿河衆を撃破し、松平広忠を降参させた織田信秀が上洛した噂が京に流れ、そのうわさを聞き付けた楞厳坊達が鵜殿氏の事を心配して越中菩提心院の日覚の元に訪れたことになっています。
 しかし、肝心の日覚書状の論旨の並びは以下のようになっているのですね。

①織田信秀が駿河軍を敗軍させ、三河の支配者の様になっているというニュース
②京の楞厳坊が日覚の元に罷り下ってニュースを伝えてくれた。
③楞厳坊は、鵜殿氏を心配。
 情勢の変化で信秀は鵜殿氏の事を愛想するまでもないと思っている。
④松平広忠降参(=「駿河衆敗軍?」)
⑤信秀が広忠を降参させて三河を平均した翌日、織田信秀が上洛
実は①~⑤は京の楞厳坊が織田信秀周辺から聞いた情報だったのだ。
⑦日覚は鵜殿氏が倒れると教団が危うくなるので心配している。

 以前にも書いたのですが、⑥の部分があるせいで全体の流れが推理小説みたいになっています。もし論文の通りの解釈で日覚書状を再構成するなら以下の並びになるのが自然かと私は思います。

①織田信秀上洛
②京では信秀がもたらした三河の情報で持ち切りで、楞厳坊がその話を聞いた。
③三河支配者織田信秀が駿河軍を敗軍させたニュース
④松平広忠降参(=「駿河衆敗軍?」)
⑤③~④の結果、鵜殿氏がピンチである。
⑥京の楞厳坊が日覚の元に罷り下ってニュースを伝えてくれた。
⑦日覚は鵜殿氏が倒れると教団が危うくなるので心配している。

 上記のように時系列の流れで書くべきでありましょう。では、原文の並びで意味がスッキリ通るようにするにはどうすればよいか。前稿で提示している別解も拾いながら展開すると以下のようになるかと思います。

尾張支配の代行者である織田信秀が駿河軍を敗軍させたニュース
②京の楞厳坊が日覚の元に罷り下ってニュースを伝えてくれた。
③楞厳坊は、鵜殿氏を心配。
 鵜殿氏は「尾」(斯波家又は周辺)とはうまくやれていたが、「弾」(信秀)は愛想なしと思っている。
④松平広忠降参(=「駿河衆敗軍?」)
⑤④及び、織田信秀が三河を平均した翌日、厳隆坊or門流の坊主が三河情報をもって上洛。
⑥事態の重要性を京にいた楞厳坊も認識。
⑦日覚は鵜殿氏が倒れると教団が危うくなるので心配している。

 論文の解釈と私の解釈との違いは織田信秀の扱いにあると感じています。論文の解釈においては織田信秀は駿河衆に戦争で勝っただけではなく、その戦果を上洛して喧伝しています。そして、檀越である鵜殿氏の事が気になって仕方ない陣門法華宗徒に聞こえるように鵜殿には愛想をするまでもないと親切にも噂を流して回っています。まぁ、このあたりは鵜殿氏の事が気になって仕方のない楞厳坊の憶測なのかもしれません。
 論文では日覚の尾張情報のコネクションを書き連ねてあるのですが、情報を聞き付けてきた楞厳坊と信秀との間のコネクションについては、日覚の手紙にも、論文にも記されていません。しかし、日覚と鵜殿氏との関係については、手紙でも、論文でも言及されているのです。だとするならば、日覚書状の三河情報の出所は、鵜殿と考えるのが自然ではないかと思います。

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