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2017年6月25日 (日)

川戦:安城合戦編Ⅱ 3-3 ③とある幕臣の蔵書目録

 本稿は余談です。大久保酉山は本名を大久保忠寄といい、大久保彦左衛門忠教のすぐ上の兄、大久保忠長の血統を継いでいる人物です。彼は1732年(享保十七年)に生まれ、通称一郎右衛門、官途名を内匠を名乗り、上総・武蔵・伊豆に千二百石の知行を持つ大身の旗本として書院番という役職を務めておりました。書院番と言うのは、書物蔵の番人ではなく、一朝事あれば騎兵として将軍を護衛する親衛隊員のことを言います。

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 父親の忠眞も小姓組(これも書院番と同じく将軍親衛隊の役職です)を務めた武門系の旗本です。考えてみれば大久保彦左衛門忠教も大坂夏の陣で徳川家康の親衛隊として槍奉行を務めておりました。大久保庶家はそういう役どころを任される家系であったのでしょう。仕えた将軍は徳川家重、家治、家斉の三代という感じでしょうか。とは言え、長い泰平の中で親衛隊を務めていた大久保忠寄は文武両道に熱心で中でも和漢・天文・易・絵画・囲碁・薬草の学や遊興ばかりか大根の漬け方等の料理にも精通していたらしく、自著の中に記事を残しています。彼は中でも和学に熱心で安永・天明期いわゆる田沼時代に和学についての著述を表しているそうです。そして彼の幕臣としての俸禄は書籍購入の為に費やされてゆきました。
 1789年(寛政元年)に彼は家督を内藤家からの養子忠豪に譲って隠居し、酉山と号しました。五十八歳の時ですから泰平の世とは言え武人としての務めはとっくに譲っておくべき頃でしょう。ちなみにこの年、フランスでは大革命が起こっており、その翌年松平定信は寛政異学の禁で幕府公認の漢学を朱子学に絞っています。別に松平定信が和学を遠ざけたという事はないのですが、彼は彼で隠居の立場から和学興隆を図ろうとしたのでしょう。自邸の書庫に学者の出入りを許したそうです。彼が拝領した屋敷は江戸愛宕山下にあり、その書庫を愛岳麓文庫と呼んで、蔵書に書印を押して管理しました。愛岳=愛宕山の麓の書庫と言うわけですね。

〇愛岳麓蔵書印(大久保酉山旧蔵古証文写本に押印)
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 ここに出入りしていた同じく幕臣にして狂歌師の大田南畝によると、この書庫には二階がなく、床は板羽目で籾殻が撒いてあり、入口の棟札を書いたのは、群書類従や寛政重修諸家譜の編纂にも加わった国学者屋代弘賢と言う人物であったということらしい。

 この書庫の評判は幕府の耳にも入りました。奇しくも尊号一件でしくじった松平定信が老中の職を辞した1793年(寛政五年)の事です。幕府は家督を継いだ大久保主税忠豪を呼び出して、書庫修繕費として金百両を下げ渡しました。大久保主税はこの翌年、蔵書の目録を作って幕府に提出しております。(ただし古証文はこの目録ではなく別の目録に載っています。主税提出本は板倉・朽木・大久保家蔵書目録 第5巻 (酉山蔵書目録 分類編)として刊行されております。)百両下賜と同じ年に幕府は塙保己一に和学講談所の設立を許しておりますので、松平定信解任のこの年は幕府において俄かに歴史ブームを起こっていたようです。実はちょうどこの時ロシアからアダム・ラックスマン率いるロシア使節が根室に来航しており、国交交渉をしていた真っ最中でした。そんな経緯から幕府も日本の地理と歴史に大いに関心を寄せ、その情報を収集しておく必要性を感じるようになったという事かもしれません。

 そんな時勢は隠居暮らしの大久保酉山の身にも影響を及ぼし、幕府は寛永年間に編纂した寛永諸家系図伝にひきつづく家系図集の政策を企画し、酉山を再登用いたします。これは幕府若年寄堀田正敦をプロジェクトリーダーにして、先に述べた国学者屋代弘賢(彼もまた御家人として幕府に仕えております)も参加した一大事業でした。彼の蔵書家としての知見を期待しての事であったようですが、大久保酉山はその二年後の七月に亡くなりました。享年七十です。

 その知らせを聞いた時、大田南畝は銅座勤務の為に大坂におりました。彼は大久保主税が百両下賜された前年に幕府が清国の科挙に倣って試験的に導入した学問吟味登科済を受験し、見事に甲科及第主席合格することで幕僚としての道が開けました。彼は若いころから狂歌師としての才能が有り余り、そういう著作を出して売れっ子作家になっていたせいで、寛政の改革が始まった頃に次の狂歌が流行してそれが彼の作品と目されるようになっていました。

 世の中に蚊ほど五月蝿きものはなし、ぶんぶぶんぶと夜も眠れず
(世の中に斯ほど五月蝿きものはなし、文武文武と夜も眠れず)

 実は上の狂歌は彼の作品ではなかったのですが、これが田沼から松平定信時代への変わり目で幕政批判の一首の意味にも取れるので、悪い噂が立っていたわけです。そこで一念発起して国家公務員試験に一発合格したものの、彼は勤務中に次のような狂歌を書き付けて怒られる不良官僚でした。

 五月雨の日も竹橋の反古調べ 今日も降るてふ明日も降るてふ
(五月雨の日も竹橋の反古調べ 今日も古帳 明日も古帳)

 そんな彼が大坂に転勤になって(これ自体は左遷ではありません。いわゆる出世コースの異動です)間もなく聞いたのが、大久保酉山死去の知らせだったのです。その報せを聞いて大田南畝が作ったのが次の七言絶句でした。

〇南畝集十二 石楠堂集 享和元年(1801年)十月 大田南畝全集 第四巻 岩波書店刊より引用
2065 哭酉山翁
 歳逢辛酉々山頽
 二酉蔵書空自堆
 憶昨殊恩下台命
 為修文庫賜金催

[酉山翁を哭す]
歳は辛酉に逢うて酉山頽(くず)れ
二酉の蔵書空しく自ら堆(うずたか)し
憶(おも)う昨(むかし)殊恩台命下り
文庫を修するが為に賜金催ししことを

 訃報を知って七言絶句を読むのは唐の李白が阿倍仲麻呂の訃報を知って(遠方で遭難したものの、実は生きていた)「哭晁卿衡(晁卿衡=阿部仲麻呂を哭す)」という七言絶句を編んだのに倣ったのでありましょう。没年である1801年(享和元年)は辛酉年にあたり、酉山の号に並べて調子をとったり、酉山の蔵書を山に見立てたりして趣向を凝らした絶句です。後半部で大久保主税への百両下賜のエピソードに触れ、それが彼にとって印象深い記憶だったことが窺えます。

 大久保酉山の蔵書目録は1794年(寛政六年)に大久保主税が作った物の他にその後より晩年である1801年(享和元年)の間あたりに改めて作られた物もあったらしく、件の「古證文 並目録 五冊」はこちらの目録の方に載っております。こちらの目録には楽善斎主人なる人物の跋文が掲載されております。どうもこの楽善斎なる人物が大久保酉山と同一人物であるらしく、朽木家蔵書目録では「大久保忠寄 上書目録」に続けて「同 楽善斎蔵書目録」という書名を載せております。すなわち、大久保忠寄=楽善斎ということらしいです。
 

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