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2017年7月 1日 (土)

川戦:安城合戦編Ⅱ 3-4 「安城は要害だから」か、「安城の要害を」か?

 論文についての考証に戻ります。北条氏康書状の冒頭部分に以下の様な文言があります。

〇安城市史5 資料編 古代・中世より引用(拙稿にて下線部付記)
 駿州へ被相談去年向彼国被起軍
 安城者要害則時ニ被破破之由候

 上記の下線部「安城者要害」の「者」の部分について、私が参考にした戦国遺文、安城市史、小田原市史の刊本はいずれも「者」とした上で「「之」か?」等と注釈がついております。私自身「者」と解釈した場合、うまく解釈できなかったのですが、論文中では以下のような解釈で進めております。

〇論文より引用
「要害」の語を「城砦」の義でなく、「要害」本来の意味である「敵を防ぎ味方を守る
のに便利な地」で解し、「安城は要害(にて)」のように、それ以下に続く文に連結する
語句を補って読めば「安城は織田にとっての要害ですから即座にこの地の敵をお破り
になり」として意味は通る。

 その一方で「安城之要害」と読むことについては、否定というよりも、その不自然さを強調しております。

〇論文より引用
一方「安城之要害(城砦)を破る」としても意味は通るが、不安も残る。
一般にこの時期の文書において、「要害を築く」等のように「要害」の語を自方の砦を
指して用いる例はよく見られる。このくだりは織田からの来信の文面を踏襲したとおぼ
しいが、敵方(今川)の砦を攻落したことを他者(北条)に向かって語る際に、織田が
「(敵方である)安城城という要害を破った」と表現するのはいささか不自然のように
も感じられる。

 まずは「安城〇要害」をそれぞれの本がどんなふうに読んでいるのか見てみたいと思います。

〇「安城者要害」(#の数字はリンク先のスケールを参照)
Photo


 刊本は「者」と記しているものの、注釈にそれぞれ(之か?)と疑問符をつけています。古証文の肉筆写本はどちらとも取れそうな微妙な形状。むしろ旧蔵所不明本が「者」に寄っているのに対し、朝野旧聞ほう藁が「之」にしているように見えます。刊本の注釈はおそらくは朝野旧聞ほう藁の読み方も参考にした結果なのではないかと思います。他の字の傾向を調べてみても微妙な線です。幾分「者」っぽく見えは致しますが、私程度の技量ではいずれとも判別しがたいです。

〇「之」(#の数字はリンク先のスケールを参照)
Photo_2


〇「者」(#の数字はリンク先のスケールを参照)
Photo_3

 次に、要害は味方の陣地という見解についてです。論文では以下のような見解が示されております。

〇論文より引用
 一般にこの時期の文書において、「要害を築く」などのように、「要害」の語を自方の砦を指して用いる例はよくみられる。

 まずは要害を敵の陣地として解する認識はどのあたりにあるかを調べてみました。ネットで検索してみると、時代はずっと遡って日本書紀の神武天皇紀から以下のようなセンテンスを見つけました。即位前の神武天皇が磐余邑(奈良県桜井市阿部)に勢力を持つ兄磯城を討つ段です。刊本を探しましたので、原文と読み下しを引用します。

〇神武天皇(即位前紀戊午年八月―九月)日本書紀上 巻一神代[上]~巻十応神天皇 小学館刊より引用
 賊虜所拠、皆是要害之地。
中略
 賊虜(あたども)の拠る所は、皆これ要害(ぬみ)の地なり

 日本書紀の流布本がいつ頃成立したかの議論はあるかもしれませんが、少なくとも平安時代には多様な種類の古写本が作られて現存しています。織田信秀のご先祖様は織田剣神社の神職ですし、信秀本人も三種の神器のうち日本武尊が使った草薙の剣を納める熱田神宮や八咫鏡を安置する伊勢神宮とも関係が深いので日本書紀を読んでいても不思議はないとは思います。「要害」の語は日本書紀が書かれた昔から敵が使う拠点に対しても使われていました。

 戦国時代の文書の研究に長年携わってこられた著者による「自方の砦を指して用いる例はよくみられ」、その意味で使わないのは「いささか不自然であるように感じられる」という指摘は尊重されるべきと思いますので、搦め手からの反証も出してみることにいたします。それはすなわち実績に裏打ちされた権威には、その先達による権威を充てるということで、朝野旧聞ほう藁の編纂者の戸田伊豆守氏栄と監修の林述斎の名をあげてみます。
 すなわち、この古証文の文書を朝野旧聞ほう藁の編纂者達は天文十七年に発給された北条氏康の書状として認識していたわけではありません。北条氏康の書状は末尾箇所が抜け落ち、(年未詳)閏十一月七日に巨海越中守宛て伊勢宗瑞書状と合体した形で引用元である古証文に掲載されていました。その書状全体を伊勢宗瑞が遠江の国人領主であった巨海越中守に宛てた感状であると考えて以下の漢字を充てたわけです。

〇内閣文庫所藏史籍叢刊 特刊第1-[1] 朝野旧聞ほう藁より

__2


引用部を拙稿にて以下の通り判読及び、読み下しました。

 駿州へ被相談去年向彼国被走軍
 安城之要害則時ニ被破候由候
 毎度御戦功奇特候

 駿州へ相談せられ、去年彼の国に向け軍を起こされ、
 安城の要害を即時に破らるの由候
 毎度御戦功、奇特に候。

 朝野旧聞ほう藁の編纂者の想定としては、永正の井田野合戦で駿・遠・東三河の国人連合からなる伊勢宗瑞率いる今川軍を安城松平家の長親が打ち破って西三河の支配権を確立したというストーリーに沿うべくこの書状が配されております。この時の松平長親は家督を嫡男信忠に譲り自らは出家して大樹寺にいたのですが、国の存亡をかけた戦いに及んで安城を拠点とし、井田野で今川軍を迎え撃っております。史実でも今川方が安城城を攻め落とした記録はありませんので、安城方の要害、例えば岡崎城等(当時は松平長親とは別流の岡崎松平家(後の大草松平家)の拠点でした)を押さえたと解釈したのでしょう。
 この想定で考えると安城が今川方である巨海越中守の拠点=「要害」であるという解釈は到底成り立ちえません。故に、江戸時代を生きた朝野旧聞ほう藁の編纂者、幕府における修史のエキスパート達の認識においても日本書紀の記述同様に「要害」という言葉が敵の拠点として使われていたとしても、そこに「不自然さ」を感じることはなかった言ってよいでしょう。

 結論なのですが、論文では「安城者要害」の意味を通すため、漢字の連なりである原文に「にて」という格助詞をつけて解釈をされています。

〇安城市史5 資料編 古代・中世より引用
 安城者要害則時ニ被破々之由候

〇論文より引用
  「安城は要害(にて)」のように下に連結する語句を補って読めば「安城は織田にとって要害ですから即座にこの地の敵をお破りになり」として意味は通る。

 「にて」という格助詞は原文にはありません。その解釈が成立するとすれば、例えば以下のように逆接補語を挿入するという手段での解釈もまた成立しえます。この場合、安城は松平の要害という意味合いになります。

 安城は要害ナレド、即時に破らるの由候
 ⇒安城は敵の要害であるにもかかわらず、織田は即座にお破りになり

 下に連結する語句を補って読む手段はこのように真逆の解釈をも成立せしめます。もともと「要害」と「則時」の間に格助詞や補語は存在しないので、ここに敢えて「にて」を充てるなら、そう充てなければならない必然的な理由が必要になるでしょう。
 故にこの論点における論文の指摘は「安城は織田の要害」と解釈しうる可能性を示したもの以上のものではなく、当該センテンスだけで判断するなら「安城は松平の要害」という解釈もまたそれと同等以上に妥当であると言えます。よって安城の要害が織田か松平かいずれが保有するものかを確定するためには別の部分を根拠とせざるを得ないのではないかと私は考えます。

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