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2017年7月23日 (日)

川戦:安城合戦編Ⅱ 5-1 ③検証:安城城天文九年攻落説(安城撤退記事の解釈)

 安城市史1 通史編 原始・古代・中世の論考には安城落城天文九年説についての難点についても述べられております。それは、天文九年時点における水野氏の動向です。この時の水野氏当主は忠政と言い、息子を松平信定に嫁がせ、娘を石川清兼や形原松平家広に嫁がせたりして西三河衆との関係構築に余念のない人物でした。
 織田信秀のいる古渡から安城に兵を差し向けようとするなら鎌倉街道を通るルートが最短ですが、沓掛から知立に抜ける途上で境川を渡河しなければならないのですが、その流域一帯が水野氏のテリトリーです。

 天文九年に安城城が攻撃されたとすれば、水野氏は織田の軍勢を通過させたか、織田軍は水野領を避けて安城に向かったかのどちらかになります。水野忠政が織田軍の通過を許したとすれば、松平方の敵に回った事と同義です。しかし、水野忠政はその翌年娘の於大を松平広忠に嫁がせております。織田方からすればこれは背信であり、これによって安城の占領維持は困難になりますし、水野家は織田からの攻勢圧力の矢面に立つことになります。これは敗者である松平広忠にだけ都合がよく、勝者側の織田・水野にあまりメリットのない状況なので、考えにくいです。
 織田・水野はがっちりスクラムを組んで安城城を蹂躙、広忠は屈服して織田方の傘下に入ることと引き換えに水野忠政の娘を娶ることを受け入れた、という解釈も可能です。これであれば第一次小豆坂合戦においても松平広忠があまり活躍していない説明はつきます。しかし、通説ではその合戦は織田方の勝利であるはずなのに、その後水野忠政が死ぬと後継者の水野信元は織田信秀との結びつきを強め、松平と手切れする理由が判らなくなります。しかも、それが今川家の侵攻を呼び込むことになってしまっているので、安城が対今川・松平の最前線になってしまいます。水野信元がこんな愚策を犯す理由も判然としません。
 安城市史では織田信秀は水野領を避けて侵攻した想定で論を進めております。その場合考えられるのは、守山から岩崎城を抜けて三河へ侵入するルートです。守山は織田信光(信秀の弟)が守備しており、岩崎城も配下の荒川頼宗が守っていたという記録がありますので、史料の矛盾に目を瞑ればルートを確保していると言えます。このルートは小牧長久手合戦で徳川家康が中割りしてきた豊臣秀吉軍を撃退したルートでもあります。但し、このルートを取った場合、すぐに矢作川にぶつかり、そこを下ってゆくと内藤正成が守っていたという上野城にぶち当たります。そこを抜いてから安城攻めに取り掛かる事になるので、そのような記録が存在しないことが不自然です。

 別解として矢作川ルートを避け、渡河後に知立経由で鎌倉街道に戻って進軍というのもありえなくはないです。しかし、それは水野領の向背に出ることを意味します。水野氏が敵方に回ることを避けて水野領を迂回しているのに無用に水野忠政を刺激することになります。そもそも地勢的に水野領の通過を含む応諾なくして安城城を攻めたとしても、長期占領はおぼつきません。そして、天文九年十二月二十八日付妙源寺宛都筑竹松等連署売券の記載の通り、この年安城乱中があったとするなら、まさしくこの別解のようなことがおこったと解釈するのが最も自然であると私は考えます。

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 寛永諸家系図伝にしても、藤井松平利長や五井松平忠次が安城城に攻めてくる敵を撃退したという記述があるにもかかわらず、その日を安城落城としています。それは城主をはじめとする一門衆や有力家臣が討死しているからでありましょう。普通はそれで合戦終了なのですが、この局面から撤退となるのは普通に考えて退路が脅かされた為くらいしか考えられません。
 そう考えると水野が動いた程度で撤退を余儀なくされるようなずさんな作戦を、織田信秀ともあろう者がなぜ企てたのかという疑問がわきます。そこで出てくるのが松平信定でしょう。織田信定、信秀親子は彼に守山、品野、岩崎の諸城を与えておりました。一時は彼が織田にとっての三河権益の利益代表を務めておりました。それが天文六年に松平広忠が岡崎に帰還することで失脚。その翌年に亡くなっております。広忠は今川家の三河における利益代弁者として帰還しました。それ故松平信定死後の尾張領地の回収を行うとともに三河衆に桜井松平信定への仕打ちに対する報復を行ったものと思われます。故に織田信秀にはこの段階で安城城を占領・維持する考えは最初からなかったとするべきであると私は考えます。

 水野忠政はそれまで婚姻政策で勢力や影響力を伸ばしてきただけに、その努力を台無しにする武力行使に慎重だったと思われます。松平広忠が今川家の肝いりで岡崎を回復していますので、水野忠政としては親織田を明確にして矢面に立つことがためらわれたのでしょう。但し、水野家にも松平信定の縁者はいました。息子の信元の妻が松平信定の娘でした。水野信元が父忠政を説得することを期待した上で織田信秀は軍を動員したのでしょう。しかし、それは逆効果になり水野忠政は松平家に接近する方に傾きます。安城乱中の翌年の天文十年、水野忠政は娘於大を松平広忠に与えたのでした。
 天文十二年に水野忠政が亡くなると水野信元は松平広忠と手切れをし、織田家と同盟を結びます。その同盟は今川家が尾張を蚕食したの後も変わることのない強固なものでした。

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