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2017年7月16日 (日)

川戦:安城合戦編Ⅱ 5-1 ①検証:安城城天文九年攻落説(安城市史提示説の検討)

 論文では安城城落城天文九年落城の根拠を示し、その補足として安城市史の記事を示した上で、北条氏康書状の平野説解釈とは別の解釈を提起してその説を否定しています。論文で触れられている安城市史、横山住雄氏の著書の内容を改めて吟味した上で、天文九年安城城落城説を考察してみます。

  元々安城城が織田信秀に奪われたのが天文十六年というのはかなりチャレンジ精神あふれる仮説です。以前「川の戦国史」の記事でも触れましたが、この説を通すためにかなりの量の歴史資料をひっくり返す必要があります。では、それがどんなものであるのか、論文では「安城市史1 通史編 原始・古代・中世」にその根拠を示した旨が記されております。また、「同5 資料編 古代・中世」で、活字起こしされた史料の内容(全部ではありません)も読めますので、その内容を検討してみます。

〇同時代史料:天文九年十二月二十八日付妙源寺宛都筑竹松等連署売券
安城市史5資料編 古代・中世より引用。(下線部は拙稿にて付記)
「(端裏書)ましま小三郎殿」
 永代売渡申下地之事
右件下地者、雖為真嶋本名、代八百貫文ニ永代桑子殿
へ売渡申候、色済之年貢毎年参反ニ二百文、慥ニ可
有御納所、諸役以下少も不可有之候、別而依有仔細、
為寄進申合候間、いか様之儀候共、於末代不可有相
違候、仍為後日証状如件

                南との
 天文九年庚子拾二月廿八日
            都筑   竹松(略印)
            同与三郎 忠親(花押)
            同孫七郎 清次(花押)
桑子殿
  まいる

 就安城乱中、償年貢幷夫銭ニ入候代物にて候、

 年号だけでなく、十干十二支まで記載されていますので、間違いなく1540年の書状と見てよいと思います。文面の内容は土地を桑子明眼寺に売り渡す契約書ですが、着目すべきは最後の「就安城乱中」と言う文言です。この年に安城に乱が起こった事が示されており、乱にあって払えなかった年貢の代金として土地を桑子の明眼寺へ売り渡すことになった旨が記されています。但し、安城乱中が安城落城を述べたものであるかどうかまでは判りません。

〇地元寺院の過去帳:大樹寺過去帳、大樹寺文書、上宮寺過去帳
 まずは、寺院関係の過去帳等です。大樹寺過去帳、大樹寺文書に天文九年六月六日に亡くなったとする城主松平長家を初めとした死者の名が記されております。写本の補記には討死・切腹などの死因も書かれておりますが、それらは過去帳事態には載せられていないらしい。なお、大樹寺は松平家の菩提寺です。本願寺教団の三河三ヶ寺の一つ上宮寺の過去帳にも同日に討死した門徒衆の名として、林藤介、山田八蔵、蜂須賀正利(織田方)の名が記されておりました。但し、この討死には「トイフ」と伝聞であることが記されています。過去帳は常に書き足しや後世の者による改稿が行われますのでいつ成立ものなのか年代が定められず、記述内容の信憑性にも検討が必要になります。
 それも、史料自体は死亡記事しか書いておりませんので、実際に安城城がこの日に落城したかどうかまでは確認できません。

〇安城近辺の古墓の伝承
 戦場となった安城城の近くには不自塚、大胴塚、十三塚、東城塚等、戦死者を祀った塚が整備されていて現存しているそうです。それぞれに戦死者をだした伝承が伝えられていて、安城落城が天文九年六月六日として説明されているのですが、塚に葬られた戦死者は安城落城時だけでなく、その後天文十八年に今川軍が安城城を織田方から奪い返すまでに何度か行われた攻城戦の際に討ち死にした者も含まれていて、具体的にいつの戦闘で誰が死んだ者なのか特定は困難なのだそうです。

〇江戸期編纂の系図資料
 江戸時代の系図資料といえば寛政重修諸家譜が網羅している範囲・分量とも充実したものなのですが、成立が1812年(文化九年)と江戸幕府ができてから二百年以上経ってからのものなので、鮮度に難があります。量と範囲が充実しているという事は裏返せば根拠・裏付けの薄い情報も採録されている可能性もまたあるということです。安城市史はそれも踏まえてて、寛永諸家系図伝という1643年(寛永二十年)、江戸時代初期に編纂された史料を参照しております。ここには、安城城主松平長家らの討死記事はあるのですが、藤井松平利長、渡辺義綱らの記事には確かに討死は出したものの、織田勢を撃退したという記事も乗っております。
 このほか、譜牒余録という1799年(寛政十一年)という江戸後期に編纂されたものの、ソースが貞享書上という1684年(貞享元年)時点で幕府が諸家に提出されたわりと早期の家譜に基づいた史料にも、五井松平外記の記録として安城城を死守した記述があります。

 寛永諸家系図伝
  松平長家、康忠  天文九年六月六日の安城戦で討死記事
  (藤井)松平利長 松平長家らの討死と共に、敵を撃退した記述。
  渡辺義綱     安城死守記事
  渡辺照綱     安城戦で戦死記事
 譜牒余録
  (五井)松平忠次 安城戦で敵を撃退した記事

 これだけを見ると、安城城は落城していないようにも見えるのですが、安城城が織田方の手に落ちていないと説明がつかない二つの記事もまた、寛永諸家系図伝は載せております。その一つが松平郷松平伝十郎某の天文十一年八月十日の小豆坂合戦における戦死記事。もう一つが同年に安城から上野城に攻め寄せてきた織田勢を撃退した内藤正成の記事です。

 寛永諸家系図伝
  松平郷松平伝十郎(親長弟)天文十一年八月十日の第一次小豆坂合戦で戦死。
  内藤正成         天文十一年時織田方の安城兵が上野城を攻撃記事。

 二つの傾向の記事には矛盾が存在するわけですが、それを解消するとなると天文九年六月六日から天文十一年八月十日の間に安城城が落城したという事になります。では、いつ落城してその城は誰が守っていたのでしょうか。その戦いには戦死者がいたのでしょうか。そしてそのことはどこかに記録として残っているのでしょうか。等の疑問が付きまといます。

〇安城攻落を明記した地元史料:参州本間氏覚書、岡崎領主古記
 拙ブログで過去に安城攻落を明記した史料として東栄鑑に記載がある旨記事として書きました。これは柴田顕正著、岡崎市史別巻・徳川家康と其周囲の記事に基づくものだったと記憶しています。朝野旧聞ほう藁の編纂者はこの本を偽書として採用しなかったという話もあり、ブログ記事では信憑性に難ありとしておりました。安城市史の方では、それとは異なる二書を紹介しております。

 〇安城市史5 資料編 古代・中世より引用
 岡崎領主古記
  一天文九年尾州勢安祥へ取掛ル、城代ハ松平左馬允長家也(親忠主御息)、
   岡崎ヨリモ御加勢ノ為御一門及御譜代衆ヲ被遣、同年六月六日合戦ニ安祥方討負、城陥ル、
   左馬允切腹並松平甚六(中略(戦死した人名列記))討死ス
   是ヨリ安祥織田家ニ渡ル、

 参州本間氏覚書
  同年六月六日合戦ニ安城打負、
  左馬允切腹幷松平甚六(中略(戦死した人名列記))討死
  此已後安城織田家に渉ル、

 岡崎領主古記は記述が1645年(正保二年)二月の記事までですので、成立はこの後から、現存する最古の写本が書き写された1799年(寛政十一年)にの間に成立したものと考えられています。編纂者はよくわかっていないのですが、新編岡崎市史の記事にこの記録に本間重豊という人物がかかわっているとの事が書かれているらしい。WikiPediaの岩松八弥の記事には同書の著者が総侍尼寺の寺侍を務める本間重豊であり、十七世紀中に成立したという説が安城市史5資料編 古代・中世に載っているという説明があります。私の手元にもその本がありますが、その記事は今のところ見つけられておりません。参州本間氏覚書も色々な本に記事が引用されているのですが、今のところその信ぴょう性を含め確認は取れておりません。ただ、引用した部分の表現・内容が両書とも似通っており、岡崎領主古記には本間重豊と言う人物の関与が示唆されていることから、本間重豊に関連する人物が作ったのかもしれません。

 論文が「断片的な同時代史料が示す状況証拠・江戸時代成立諸資料を総合すれば、天文十二年までには織田が安城城を奪ったことはほぼ確実である」と記しておりますが、合戦や討死があった事と落城を直接結び付けなければ、落城に言及のない同時代史料も省くことができます。すると残るは江戸時代に成立した寛永諸家系図伝の松平郷松平伝十郎・内藤正成記事と岡崎領主古記・参州本間氏覚書の四点あたりが厳密に言う所の根拠として絞り込めます。

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