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2017年7月22日 (土)

川戦:安城合戦編Ⅱ 5-1 ②検証:安城城天文九年攻落説(反証史料の提示)


 本稿では前稿で述べた論文史料に対し、安城城落城天文九年六月六日説を取った場合に矛盾が生じる史料を列挙し、それをもって反証可能性を探ってゆきたいと思います。

〇山田世譜(長慶寺文書)安城市史5 資料編 古代・中世 より読み下しにして引用
吉久 初めの名は信義、字は甚八、兵部少輔。実は松平下野守源信康の子也。
天文九年庚子六月六日信康三河安祥に戦死する時、吉久の母ははらみて五月なり。
たちまちに父母の家に帰り、十一月二十八日尾張愛知郡前津村において吉久を生む。
外祖父母の大喜為重・信子養育す。成長に及んで織田右大臣平信長につかう。

 安城市史の資料編には松平信康(松平広忠弟)が天文九年六月六日の安城城落城の折に討ち死にしたことを説明するために織田信長に仕えた山田吉久という人物の家譜を使っております。家譜では山田吉久なる人物は松平信康の息子であり、安城合戦の前に母親は吉久を孕んでおり、実家の尾張に戻って出産。そのまま尾張の武士として織田信長に仕えることになったわけです。

 この史料の突っ込みどころは松平信康が松平広忠の弟であることとその年齢です。松平広忠は1526年(大永六年)生まれで1540年(天文九年)の折には十五歳でした。松平信康が広忠の弟なので、その年齢は広忠の年齢を超えることはまずありません。安城市史1通史編は信康を広忠の異母弟としていますが、平野明夫氏の三河松平一族によると一応父親の松平清康には二人妻がいて一人が松平信定の娘、もう一人が青木氏の娘(もう一人華陽院が清康の妻として言われているが年代的に合わず、俗説らしい)、信康は信定の娘を1525年(大永五年)に離縁し、青木氏の娘を娶って広忠を生んだそうなのですが、そうであれば松平信康は広忠の同母弟ということになります。双子でなければ一年以上の年齢差があるはずです。武士の元服は大体十三歳頃なので元服してすぐ尾張から嫁を娶って子を孕ませたということになります。早熟であればありえなくもないのですが、さらに不自然な点は、岡崎松平家惣領の松平広忠の最初の結婚が1541年(天文十年)だという事です。松平信康は元服するや否やのタイミングで兄であり惣領でもある広忠よりも先に結婚して子供を設けていたのですね。そしてその年のうちに妻の実家の国からの侵攻を受けて討死したわけです。

 広忠の孫の水戸徳川頼房が兄である尾張徳川義直、紀州徳川頼宣に遠慮して彼らの嫡子よりも早く生まれてしまった初子を庶子(後の丸亀藩主松平頼重)として扱ってしまった事例を考えると不自然さを禁じえません。
 この話も安城城陥落がせめて竹千代が生まれた翌年の天文十二年以降であればその不自然さはかなりぬぐえると思います。
 そもそも、寛永諸家系図伝に言及される松平信康を天文九年六月六日に死んだと大樹寺過去帳に書かれている信翁祥忠と結び付けて「岡崎三郎廣忠弟 松平源次郎 法名信翁祥忠」と考証したのは、江戸期も後半に入って編纂された朝野旧聞ほう藁です。安城市史1通史編や三河松平一族はこの記述を根拠にしているものと考えられるのですが、同じ朝野旧聞ほう藁が引用する大樹寺過去帳には信康を清康の御舎弟ともしていて、その記事は安城市史資料編の方にも引用されています。なので、厳密にいうと松平信康を松平広忠の弟として扱う事には注意が必要になります。

〇与二郎ひろ定請文 愛知県史 資料編10より引用
一五三三 与二郎ひろ定請文 本光寺常盤歴史館所蔵文書
こゝもとなりかにて弐十俵、明年よりいらんなくしんしやう申すへく候、
すこしも無さた申ましく候、そのためこ一筆申候、かしく

 天文十三年
   十一月十一日     ひろ定(花押)

(ウワ書)             あんしやうより
 (墨引)ふかうす殿御上さま         与二郎
            参 人々御中

 これは天文九年十二月二十八日付妙源寺宛都筑竹松等連署売券(以下都筑氏売券とします)と対で考えたらよいのではないかと思っている史料です。横山道雄氏は「織田信長の系譜」で都筑氏売券を安城一帯が織田氏の治めるところになったため、松平家臣の都筑氏らはその土地を耕作できなくなって土地を明眼寺に売却したものと読み解いています。この読み解きの前提に西三河は矢作川を挟んで東西に分断されてしまって西岸は東岸に対して支配を及ぼすことは出来なかったという事があるように思えます。しかし、与二郎ひろ定請文の差出人は安城の与二郎ひろ定で、受取人は深溝領主夫人です。内容は翌年以降の年貢の納付を約束したものです。この書状は花押が付されておりますので、現実に発給されたということは、契約の前提として安城を含む領域が深溝領主らの主人である松平氏の支配下にあることを示唆していると考えられます。
 とはいえ、この書状が「かしく」で締められているように女手によるものであり、明年の進上が間違いなく行われる約束をわざわざするという事は、当年は違乱があって年貢の進上ができず、与二郎は深溝領主夫人に対して無沙汰であった事を示していると言えなくはありません。そればかりか、与二郎は自分の意思でこの文面をかいたわけではなく、深溝領主夫人が自ら用意した書式に与二郎は花押のみ押すことを求められた契約書であったとも考えられます。そこに年貢が払えない事情があったのかもしれません。しかし、書状が明年以降の契約の履行を求めていることは、やはり契約は履行可能であるという判断が深溝領主夫人の側にも存在するとも想定できるのです。

〇東国紀行 安城市史5 資料編 古代・中世 より引用
一両年すぎにて、大野の衆同道あるべしなど契約の所に、
参河より尾州へ手違いある可の使い、昨日つきたれば、
無念のよりかずゝゝの事なり、

むかひは吉良大家御里成べし、こゝの眺望えもいわれぬ入江の磯なり、
船より馬ひきおろさせ、うちはへ行ほど、
むさしの国まで思ひやられたる野徑うちすぎて岡崎につきたり、
安部大蔵など知人、をはりざかひまで出陣の事ありて、いまだ不帰、
大浜よりは申遣れど不届や有けん、

 この史料は川の戦国史の記事でも紹介したことのある東国紀行です。連歌師宗牧が関東下向のついでに勅使もやりつつ尾張三河国境の知多半島に来た辺りで三河と尾張で戦いがあったというニュースを聞きます。常滑の水野監物から宗牧一行につけられていた大野衆はその報せを聞いて同道できない旨を宗牧に告げています。常滑水野氏を含めこの辺りは織田方なので、同道してはかえって宗牧を危険に巻き込みかねないことを心配しての事でした。
 1544年(天文十三年)十一月十二日に宗牧一行は大浜につき、その翌日に称名寺住持の案内で鷲塚経由で矢作川を陸路北上して岡崎に向かいますが、岡崎には目当ての阿部大蔵がいませんでした。聞けば『をはりざかい(尾張国境)まで出陣のことありていまた帰らず』とのこと。どうやら阿部大蔵は加納口合戦に勝利した斎藤道三の誘いに乗って尾張攻めをしていたようです。この時点で安城城が陥落し、矢作川西岸が織田信秀の勢力下にあったなら、尾張国境までの出陣は無理だと思われます

 本稿の結論として論文の書き方に倣うなら、「断片的な同時代史料が示す状況証拠・江戸時代成立諸資料を総合すれば、天文十二年までには織田が安城城を奪ったという説を否定することもまた可能である」と言う感じでしょうか。

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