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2017年7月29日 (土)

川戦:安城合戦編Ⅱ 5-1 ④検証:安城城天文九年攻落説(系図資料の変遷)

 国立公文書館のサイトにとても興味深い記事が掲載されておりました。島津義弘が朝鮮の役での活躍に恩賞をもらった話が江戸時代に編纂されている系図史料にどんな風に記載されているかを比較したものです。比較しやすいように解説を一行にまとめたダイジェストを以下に記します。ニュアンスの差が分かりやすいように実際の記事の文言も多少いじってます。

 寛永諸家系図伝(草稿本):秀吉公が薨じたことにより五奉行(大老)が恩賞を与えた。
 寛永諸家系図伝(献上本):家康が前田・上杉・毛利・宇喜多らと諮り、恩賞を与えた。
 藩翰譜:家康が豊臣の奉行衆(大老)と議論した上で、恩賞を与えた。
 譜牒余録:義弘は家康の御意で恩賞を賜った。
 寛政重修諸家譜:義弘は大老連署で恩賞を賜った。これは家康の計らいである。

 ざっと見て一番古い寛永諸家系図伝の草稿本では、義弘への恩賞の主体が五奉行(大老)であったことが、時代を下るにつれ、家康主導であることが強調されだし、譜牒余録で豊臣奉行衆(大老)の関与が消えますが、最後の寛政重修諸家譜で恩賞の出所は豊臣大老連署と言う形で最終決着します。但し、家康主導であることも併せ記されております。
 譜牒余録は五代将軍徳川綱吉の命令で全国の諸侯に家伝を集めさせたもののお蔵入りになっていた貞享書上という文書集を、寛政重修諸家譜の編者でもある堀田正敦が編纂し直したものです。この貞享書上は1873年(明治六年)五月五日の皇居火災で焼失し、現在では読むことはできません。しかし、系図資料の書きぶりは後世になるほど家康や徳川家との関係を強調する記述になっている傾向は見て取れると思います。

※創立40周年記念貴重資料展Ⅰという企画物の記事ですので、いずれ見られなくなる類の記事かと思います。
 http://www.archives.go.jp/exhibition/digital/rekishitomonogatari/contents/51.html

 これらの史料はデジタルアーカイブとして国立公文書館のサイトで見られるよう公開されておりますので、
 実際の記事はそこでご確認ください。

 それを踏まえて五井松平外記忠次の系図史料を読み比べてみます。

〇寛永諸家系図伝(献上本) 松平忠次 国立公文書館デジタルアーカイブより
忠次
弥九郎 外記
尾州織田弾正参州安祥の城をせむるとき
広忠卿加勢として忠次をつかハさる
忠次かの城を守りて戦功あるゆへ
広忠卿よくその功を感じて参州こく
伊田羽根の両郷をたまハる

〇譜牒余録 松平忠次 安城市史5 資料編 古代・中世より引用(拙稿にて下線部付記)
忠次 弥九郎 号外記 法名源栄
   天文十六年丁未九月廿八日討死 廿七歳
   母ハ松平紀伊女

天文九年庚子年六月六日織田弾正忠信秀三州安祥ノ城
ヲ攻ム、城主安祥左馬助長家微勢タルニ依リテ忠次
広忠公ノ命ヲ蒙り援兵トシテ安祥ニ籠城ス、信秀ノ
城兵ヲ囲ムコト急ナリ、忠次城ヲ出テ士卒ヲ励シ、
防キ戦フ事数回、依之、信秀之軍兵、利ヲ失テ退散
ス、
其軍功ニ依テ、御褒美トシテ三州伊田・羽根ノ
両郷ヲ下シ給ハル、(後略)

 譜牒余録に記載されている情報のうち、寛永諸家系図伝に描写されていない情報を下線部に示しました。
 松平忠次の年譜に法名、死亡年次、母親の情報に加えて、大軍を率いた織田信秀の侵攻が天文九年であること、忠次らによる城外戦闘での防戦の結果、織田信秀は利を失って退散したことが書き加えられています。そして、その書き加えられた出来事の出所は以下の家譜をご確認ください。

〇寛永諸家系図伝 藤井松平利長 安城市史5 資料編 古代・中世より引用(拙稿にて下線部付記)
藤井彦四郎 法名喜春樹祥(改頁)
天文九年、広忠卿御一族源次郎信康ならびに利
長等に命して安祥の加勢としてかしこにおもむき、
城中にたてごもらしむ
六月六日、尾張の大軍しきりにこれをせむ。城主
安祥左馬助長家ならびに利長等城戸をひらいて出
てたゝかふ。
時に信康・甚六郎康忠・長家、その外
御譜代衆林藤助・内藤善左衛門・近藤与一郎数十
人討死す。尾州勢も又おほくうたる。渡辺八右衛門
等矢をはなちて敵をふせぐ。利長士卒をはげまして
かたく城をまもるゆへ、尾州勢そのそなへをしりぞ
きて城外に陣すといへども、つゐに引さる

 五井松平忠次譜の最初の法名・享年・母親の情報を除けば、概ね寛永諸家系図伝に記された藤井松平彦四郎利長の家譜に書かれている内容と被ります。よって、譜牒余録の五井松平忠次譜の追加情報は寛永諸家系図伝の藤井松平利長譜から取られた可能性があります。
 同時に寛永諸家系図伝では、五井松平忠次は織田信秀の攻撃から安城を守備した功績で恩賞を得ているのですから、この守備任務は成功したことを示しております。そしてその守備を行った合戦は天文九年六月六日に行われたとは限らないともいうことが出来るでしょう。

 ちなみに、先に紹介した寛永諸家系図伝(草稿本)には、五井松平外記忠次と藤井松平利長の家譜はありません。草稿本は献上本の六分の一の冊数で、松平家のうち採譜されているのは久松松平家と大河内松平家の二流のみで、それ以外の徳川・松平家の家譜は乗っておりません。この二家は松平を称していても岡崎松平―徳川家との男系のつながりがないという事が、家系を明確にする作業を楽にした為ではないかと推測します。寛永諸家系図伝は編纂に三年程度しかかけられておらず、後の系図史料と比べても呈譜や史料をそのまま掲載していて整合性は配慮されていないなどと言われておりますが、少なくとも徳川家康の家系と男系でつながる松平諸家の系図作成にはそれなりの時間をかけて行われたと言えるでしょう。よって五井松平外記忠次と藤井松平利長両人の系図記事としては寛永諸家系図伝(献上本)が現存する最古の物ということになります。

 寛永諸家系図伝の藤井松平利長譜にある安城方の戦術については、不可解なところがかなりあります。この合戦、織田方が安城の城を囲む前に松平信康を主将として藤井松平利長・五井松平忠次らが安城城に入城したわけです。そして安城城は織田の大軍に包囲される訳ですが、それを誰かが阻んだという記載もなく、松平広忠もそれ以上の援軍を送って城外から遊撃したという話もないまま、城主と援軍の主将が一緒になって城外に討って出て戦死します。だとすれば、その合戦の間誰が安城城を守っていたのかという話にならないでしょうか。
 寛永諸家系図伝の五井松平忠次譜では彼が城に残っていたように読めますが、譜牒余録になると彼もまた城外で合戦した話になっています。こういう場合、城主が城から出るケースはあり得なくもないのですが、その場合はたいてい息子等に留守番をさせるはずなのですが、安城城主松平長家には子供がおりません。なので城外で戦うという事は、城将としての務めを果たしていないことになります。

 敵の大軍を前にして、負ければ落城を覚悟して自ら出陣して一戦交えるという事もあったかもしれません。そして運よく戦場から脱出できた松平利長・忠次が城を守備し得たのかもしれません。しかし、筋立てに違和感を感じざるを得ないことは確かです。

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