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2017年7月23日 (日)

川戦:安城合戦編Ⅱ 5-1 ③検証:安城城天文九年攻落説(安城撤退記事の解釈)

 安城市史1 通史編 原始・古代・中世の論考には安城落城天文九年説についての難点についても述べられております。それは、天文九年時点における水野氏の動向です。この時の水野氏当主は忠政と言い、息子を松平信定に嫁がせ、娘を石川清兼や形原松平家広に嫁がせたりして西三河衆との関係構築に余念のない人物でした。
 織田信秀のいる古渡から安城に兵を差し向けようとするなら鎌倉街道を通るルートが最短ですが、沓掛から知立に抜ける途上で境川を渡河しなければならないのですが、その流域一帯が水野氏のテリトリーです。

 天文九年に安城城が攻撃されたとすれば、水野氏は織田の軍勢を通過させたか、織田軍は水野領を避けて安城に向かったかのどちらかになります。水野忠政が織田軍の通過を許したとすれば、松平方の敵に回った事と同義です。しかし、水野忠政はその翌年娘の於大を松平広忠に嫁がせております。織田方からすればこれは背信であり、これによって安城の占領維持は困難になりますし、水野家は織田からの攻勢圧力の矢面に立つことになります。これは敗者である松平広忠にだけ都合がよく、勝者側の織田・水野にあまりメリットのない状況なので、考えにくいです。
 織田・水野はがっちりスクラムを組んで安城城を蹂躙、広忠は屈服して織田方の傘下に入ることと引き換えに水野忠政の娘を娶ることを受け入れた、という解釈も可能です。これであれば第一次小豆坂合戦においても松平広忠があまり活躍していない説明はつきます。しかし、通説ではその合戦は織田方の勝利であるはずなのに、その後水野忠政が死ぬと後継者の水野信元は織田信秀との結びつきを強め、松平と手切れする理由が判らなくなります。しかも、それが今川家の侵攻を呼び込むことになってしまっているので、安城が対今川・松平の最前線になってしまいます。水野信元がこんな愚策を犯す理由も判然としません。
 安城市史では織田信秀は水野領を避けて侵攻した想定で論を進めております。その場合考えられるのは、守山から岩崎城を抜けて三河へ侵入するルートです。守山は織田信光(信秀の弟)が守備しており、岩崎城も配下の荒川頼宗が守っていたという記録がありますので、史料の矛盾に目を瞑ればルートを確保していると言えます。このルートは小牧長久手合戦で徳川家康が中割りしてきた豊臣秀吉軍を撃退したルートでもあります。但し、このルートを取った場合、すぐに矢作川にぶつかり、そこを下ってゆくと内藤正成が守っていたという上野城にぶち当たります。そこを抜いてから安城攻めに取り掛かる事になるので、そのような記録が存在しないことが不自然です。

 別解として矢作川ルートを避け、渡河後に知立経由で鎌倉街道に戻って進軍というのもありえなくはないです。しかし、それは水野領の向背に出ることを意味します。水野氏が敵方に回ることを避けて水野領を迂回しているのに無用に水野忠政を刺激することになります。そもそも地勢的に水野領の通過を含む応諾なくして安城城を攻めたとしても、長期占領はおぼつきません。そして、天文九年十二月二十八日付妙源寺宛都筑竹松等連署売券の記載の通り、この年安城乱中があったとするなら、まさしくこの別解のようなことがおこったと解釈するのが最も自然であると私は考えます。

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 寛永諸家系図伝にしても、藤井松平利長や五井松平忠次が安城城に攻めてくる敵を撃退したという記述があるにもかかわらず、その日を安城落城としています。それは城主をはじめとする一門衆や有力家臣が討死しているからでありましょう。普通はそれで合戦終了なのですが、この局面から撤退となるのは普通に考えて退路が脅かされた為くらいしか考えられません。
 そう考えると水野が動いた程度で撤退を余儀なくされるようなずさんな作戦を、織田信秀ともあろう者がなぜ企てたのかという疑問がわきます。そこで出てくるのが松平信定でしょう。織田信定、信秀親子は彼に守山、品野、岩崎の諸城を与えておりました。一時は彼が織田にとっての三河権益の利益代表を務めておりました。それが天文六年に松平広忠が岡崎に帰還することで失脚。その翌年に亡くなっております。広忠は今川家の三河における利益代弁者として帰還しました。それ故松平信定死後の尾張領地の回収を行うとともに三河衆に桜井松平信定への仕打ちに対する報復を行ったものと思われます。故に織田信秀にはこの段階で安城城を占領・維持する考えは最初からなかったとするべきであると私は考えます。

 水野忠政はそれまで婚姻政策で勢力や影響力を伸ばしてきただけに、その努力を台無しにする武力行使に慎重だったと思われます。松平広忠が今川家の肝いりで岡崎を回復していますので、水野忠政としては親織田を明確にして矢面に立つことがためらわれたのでしょう。但し、水野家にも松平信定の縁者はいました。息子の信元の妻が松平信定の娘でした。水野信元が父忠政を説得することを期待した上で織田信秀は軍を動員したのでしょう。しかし、それは逆効果になり水野忠政は松平家に接近する方に傾きます。安城乱中の翌年の天文十年、水野忠政は娘於大を松平広忠に与えたのでした。
 天文十二年に水野忠政が亡くなると水野信元は松平広忠と手切れをし、織田家と同盟を結びます。その同盟は今川家が尾張を蚕食したの後も変わることのない強固なものでした。

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2017年7月22日 (土)

川戦:安城合戦編Ⅱ 5-1 ②検証:安城城天文九年攻落説(反証史料の提示)


 本稿では前稿で述べた論文史料に対し、安城城落城天文九年六月六日説を取った場合に矛盾が生じる史料を列挙し、それをもって反証可能性を探ってゆきたいと思います。

〇山田世譜(長慶寺文書)安城市史5 資料編 古代・中世 より読み下しにして引用
吉久 初めの名は信義、字は甚八、兵部少輔。実は松平下野守源信康の子也。
天文九年庚子六月六日信康三河安祥に戦死する時、吉久の母ははらみて五月なり。
たちまちに父母の家に帰り、十一月二十八日尾張愛知郡前津村において吉久を生む。
外祖父母の大喜為重・信子養育す。成長に及んで織田右大臣平信長につかう。

 安城市史の資料編には松平信康(松平広忠弟)が天文九年六月六日の安城城落城の折に討ち死にしたことを説明するために織田信長に仕えた山田吉久という人物の家譜を使っております。家譜では山田吉久なる人物は松平信康の息子であり、安城合戦の前に母親は吉久を孕んでおり、実家の尾張に戻って出産。そのまま尾張の武士として織田信長に仕えることになったわけです。

 この史料の突っ込みどころは松平信康が松平広忠の弟であることとその年齢です。松平広忠は1526年(大永六年)生まれで1540年(天文九年)の折には十五歳でした。松平信康が広忠の弟なので、その年齢は広忠の年齢を超えることはまずありません。安城市史1通史編は信康を広忠の異母弟としていますが、平野明夫氏の三河松平一族によると一応父親の松平清康には二人妻がいて一人が松平信定の娘、もう一人が青木氏の娘(もう一人華陽院が清康の妻として言われているが年代的に合わず、俗説らしい)、信康は信定の娘を1525年(大永五年)に離縁し、青木氏の娘を娶って広忠を生んだそうなのですが、そうであれば松平信康は広忠の同母弟ということになります。双子でなければ一年以上の年齢差があるはずです。武士の元服は大体十三歳頃なので元服してすぐ尾張から嫁を娶って子を孕ませたということになります。早熟であればありえなくもないのですが、さらに不自然な点は、岡崎松平家惣領の松平広忠の最初の結婚が1541年(天文十年)だという事です。松平信康は元服するや否やのタイミングで兄であり惣領でもある広忠よりも先に結婚して子供を設けていたのですね。そしてその年のうちに妻の実家の国からの侵攻を受けて討死したわけです。

 広忠の孫の水戸徳川頼房が兄である尾張徳川義直、紀州徳川頼宣に遠慮して彼らの嫡子よりも早く生まれてしまった初子を庶子(後の丸亀藩主松平頼重)として扱ってしまった事例を考えると不自然さを禁じえません。
 この話も安城城陥落がせめて竹千代が生まれた翌年の天文十二年以降であればその不自然さはかなりぬぐえると思います。
 そもそも、寛永諸家系図伝に言及される松平信康を天文九年六月六日に死んだと大樹寺過去帳に書かれている信翁祥忠と結び付けて「岡崎三郎廣忠弟 松平源次郎 法名信翁祥忠」と考証したのは、江戸期も後半に入って編纂された朝野旧聞ほう藁です。安城市史1通史編や三河松平一族はこの記述を根拠にしているものと考えられるのですが、同じ朝野旧聞ほう藁が引用する大樹寺過去帳には信康を清康の御舎弟ともしていて、その記事は安城市史資料編の方にも引用されています。なので、厳密にいうと松平信康を松平広忠の弟として扱う事には注意が必要になります。

〇与二郎ひろ定請文 愛知県史 資料編10より引用
一五三三 与二郎ひろ定請文 本光寺常盤歴史館所蔵文書
こゝもとなりかにて弐十俵、明年よりいらんなくしんしやう申すへく候、
すこしも無さた申ましく候、そのためこ一筆申候、かしく

 天文十三年
   十一月十一日     ひろ定(花押)

(ウワ書)             あんしやうより
 (墨引)ふかうす殿御上さま         与二郎
            参 人々御中

 これは天文九年十二月二十八日付妙源寺宛都筑竹松等連署売券(以下都筑氏売券とします)と対で考えたらよいのではないかと思っている史料です。横山道雄氏は「織田信長の系譜」で都筑氏売券を安城一帯が織田氏の治めるところになったため、松平家臣の都筑氏らはその土地を耕作できなくなって土地を明眼寺に売却したものと読み解いています。この読み解きの前提に西三河は矢作川を挟んで東西に分断されてしまって西岸は東岸に対して支配を及ぼすことは出来なかったという事があるように思えます。しかし、与二郎ひろ定請文の差出人は安城の与二郎ひろ定で、受取人は深溝領主夫人です。内容は翌年以降の年貢の納付を約束したものです。この書状は花押が付されておりますので、現実に発給されたということは、契約の前提として安城を含む領域が深溝領主らの主人である松平氏の支配下にあることを示唆していると考えられます。
 とはいえ、この書状が「かしく」で締められているように女手によるものであり、明年の進上が間違いなく行われる約束をわざわざするという事は、当年は違乱があって年貢の進上ができず、与二郎は深溝領主夫人に対して無沙汰であった事を示していると言えなくはありません。そればかりか、与二郎は自分の意思でこの文面をかいたわけではなく、深溝領主夫人が自ら用意した書式に与二郎は花押のみ押すことを求められた契約書であったとも考えられます。そこに年貢が払えない事情があったのかもしれません。しかし、書状が明年以降の契約の履行を求めていることは、やはり契約は履行可能であるという判断が深溝領主夫人の側にも存在するとも想定できるのです。

〇東国紀行 安城市史5 資料編 古代・中世 より引用
一両年すぎにて、大野の衆同道あるべしなど契約の所に、
参河より尾州へ手違いある可の使い、昨日つきたれば、
無念のよりかずゝゝの事なり、

むかひは吉良大家御里成べし、こゝの眺望えもいわれぬ入江の磯なり、
船より馬ひきおろさせ、うちはへ行ほど、
むさしの国まで思ひやられたる野徑うちすぎて岡崎につきたり、
安部大蔵など知人、をはりざかひまで出陣の事ありて、いまだ不帰、
大浜よりは申遣れど不届や有けん、

 この史料は川の戦国史の記事でも紹介したことのある東国紀行です。連歌師宗牧が関東下向のついでに勅使もやりつつ尾張三河国境の知多半島に来た辺りで三河と尾張で戦いがあったというニュースを聞きます。常滑の水野監物から宗牧一行につけられていた大野衆はその報せを聞いて同道できない旨を宗牧に告げています。常滑水野氏を含めこの辺りは織田方なので、同道してはかえって宗牧を危険に巻き込みかねないことを心配しての事でした。
 1544年(天文十三年)十一月十二日に宗牧一行は大浜につき、その翌日に称名寺住持の案内で鷲塚経由で矢作川を陸路北上して岡崎に向かいますが、岡崎には目当ての阿部大蔵がいませんでした。聞けば『をはりざかい(尾張国境)まで出陣のことありていまた帰らず』とのこと。どうやら阿部大蔵は加納口合戦に勝利した斎藤道三の誘いに乗って尾張攻めをしていたようです。この時点で安城城が陥落し、矢作川西岸が織田信秀の勢力下にあったなら、尾張国境までの出陣は無理だと思われます

 本稿の結論として論文の書き方に倣うなら、「断片的な同時代史料が示す状況証拠・江戸時代成立諸資料を総合すれば、天文十二年までには織田が安城城を奪ったという説を否定することもまた可能である」と言う感じでしょうか。

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2017年7月16日 (日)

川戦:安城合戦編Ⅱ 5-1 ①検証:安城城天文九年攻落説(安城市史提示説の検討)

 論文では安城城落城天文九年落城の根拠を示し、その補足として安城市史の記事を示した上で、北条氏康書状の平野説解釈とは別の解釈を提起してその説を否定しています。論文で触れられている安城市史、横山住雄氏の著書の内容を改めて吟味した上で、天文九年安城城落城説を考察してみます。

  元々安城城が織田信秀に奪われたのが天文十六年というのはかなりチャレンジ精神あふれる仮説です。以前「川の戦国史」の記事でも触れましたが、この説を通すためにかなりの量の歴史資料をひっくり返す必要があります。では、それがどんなものであるのか、論文では「安城市史1 通史編 原始・古代・中世」にその根拠を示した旨が記されております。また、「同5 資料編 古代・中世」で、活字起こしされた史料の内容(全部ではありません)も読めますので、その内容を検討してみます。

〇同時代史料:天文九年十二月二十八日付妙源寺宛都筑竹松等連署売券
安城市史5資料編 古代・中世より引用。(下線部は拙稿にて付記)
「(端裏書)ましま小三郎殿」
 永代売渡申下地之事
右件下地者、雖為真嶋本名、代八百貫文ニ永代桑子殿
へ売渡申候、色済之年貢毎年参反ニ二百文、慥ニ可
有御納所、諸役以下少も不可有之候、別而依有仔細、
為寄進申合候間、いか様之儀候共、於末代不可有相
違候、仍為後日証状如件

                南との
 天文九年庚子拾二月廿八日
            都筑   竹松(略印)
            同与三郎 忠親(花押)
            同孫七郎 清次(花押)
桑子殿
  まいる

 就安城乱中、償年貢幷夫銭ニ入候代物にて候、

 年号だけでなく、十干十二支まで記載されていますので、間違いなく1540年の書状と見てよいと思います。文面の内容は土地を桑子明眼寺に売り渡す契約書ですが、着目すべきは最後の「就安城乱中」と言う文言です。この年に安城に乱が起こった事が示されており、乱にあって払えなかった年貢の代金として土地を桑子の明眼寺へ売り渡すことになった旨が記されています。但し、安城乱中が安城落城を述べたものであるかどうかまでは判りません。

〇地元寺院の過去帳:大樹寺過去帳、大樹寺文書、上宮寺過去帳
 まずは、寺院関係の過去帳等です。大樹寺過去帳、大樹寺文書に天文九年六月六日に亡くなったとする城主松平長家を初めとした死者の名が記されております。写本の補記には討死・切腹などの死因も書かれておりますが、それらは過去帳事態には載せられていないらしい。なお、大樹寺は松平家の菩提寺です。本願寺教団の三河三ヶ寺の一つ上宮寺の過去帳にも同日に討死した門徒衆の名として、林藤介、山田八蔵、蜂須賀正利(織田方)の名が記されておりました。但し、この討死には「トイフ」と伝聞であることが記されています。過去帳は常に書き足しや後世の者による改稿が行われますのでいつ成立ものなのか年代が定められず、記述内容の信憑性にも検討が必要になります。
 それも、史料自体は死亡記事しか書いておりませんので、実際に安城城がこの日に落城したかどうかまでは確認できません。

〇安城近辺の古墓の伝承
 戦場となった安城城の近くには不自塚、大胴塚、十三塚、東城塚等、戦死者を祀った塚が整備されていて現存しているそうです。それぞれに戦死者をだした伝承が伝えられていて、安城落城が天文九年六月六日として説明されているのですが、塚に葬られた戦死者は安城落城時だけでなく、その後天文十八年に今川軍が安城城を織田方から奪い返すまでに何度か行われた攻城戦の際に討ち死にした者も含まれていて、具体的にいつの戦闘で誰が死んだ者なのか特定は困難なのだそうです。

〇江戸期編纂の系図資料
 江戸時代の系図資料といえば寛政重修諸家譜が網羅している範囲・分量とも充実したものなのですが、成立が1812年(文化九年)と江戸幕府ができてから二百年以上経ってからのものなので、鮮度に難があります。量と範囲が充実しているという事は裏返せば根拠・裏付けの薄い情報も採録されている可能性もまたあるということです。安城市史はそれも踏まえてて、寛永諸家系図伝という1643年(寛永二十年)、江戸時代初期に編纂された史料を参照しております。ここには、安城城主松平長家らの討死記事はあるのですが、藤井松平利長、渡辺義綱らの記事には確かに討死は出したものの、織田勢を撃退したという記事も乗っております。
 このほか、譜牒余録という1799年(寛政十一年)という江戸後期に編纂されたものの、ソースが貞享書上という1684年(貞享元年)時点で幕府が諸家に提出されたわりと早期の家譜に基づいた史料にも、五井松平外記の記録として安城城を死守した記述があります。

 寛永諸家系図伝
  松平長家、康忠  天文九年六月六日の安城戦で討死記事
  (藤井)松平利長 松平長家らの討死と共に、敵を撃退した記述。
  渡辺義綱     安城死守記事
  渡辺照綱     安城戦で戦死記事
 譜牒余録
  (五井)松平忠次 安城戦で敵を撃退した記事

 これだけを見ると、安城城は落城していないようにも見えるのですが、安城城が織田方の手に落ちていないと説明がつかない二つの記事もまた、寛永諸家系図伝は載せております。その一つが松平郷松平伝十郎某の天文十一年八月十日の小豆坂合戦における戦死記事。もう一つが同年に安城から上野城に攻め寄せてきた織田勢を撃退した内藤正成の記事です。

 寛永諸家系図伝
  松平郷松平伝十郎(親長弟)天文十一年八月十日の第一次小豆坂合戦で戦死。
  内藤正成         天文十一年時織田方の安城兵が上野城を攻撃記事。

 二つの傾向の記事には矛盾が存在するわけですが、それを解消するとなると天文九年六月六日から天文十一年八月十日の間に安城城が落城したという事になります。では、いつ落城してその城は誰が守っていたのでしょうか。その戦いには戦死者がいたのでしょうか。そしてそのことはどこかに記録として残っているのでしょうか。等の疑問が付きまといます。

〇安城攻落を明記した地元史料:参州本間氏覚書、岡崎領主古記
 拙ブログで過去に安城攻落を明記した史料として東栄鑑に記載がある旨記事として書きました。これは柴田顕正著、岡崎市史別巻・徳川家康と其周囲の記事に基づくものだったと記憶しています。朝野旧聞ほう藁の編纂者はこの本を偽書として採用しなかったという話もあり、ブログ記事では信憑性に難ありとしておりました。安城市史の方では、それとは異なる二書を紹介しております。

 〇安城市史5 資料編 古代・中世より引用
 岡崎領主古記
  一天文九年尾州勢安祥へ取掛ル、城代ハ松平左馬允長家也(親忠主御息)、
   岡崎ヨリモ御加勢ノ為御一門及御譜代衆ヲ被遣、同年六月六日合戦ニ安祥方討負、城陥ル、
   左馬允切腹並松平甚六(中略(戦死した人名列記))討死ス
   是ヨリ安祥織田家ニ渡ル、

 参州本間氏覚書
  同年六月六日合戦ニ安城打負、
  左馬允切腹幷松平甚六(中略(戦死した人名列記))討死
  此已後安城織田家に渉ル、

 岡崎領主古記は記述が1645年(正保二年)二月の記事までですので、成立はこの後から、現存する最古の写本が書き写された1799年(寛政十一年)にの間に成立したものと考えられています。編纂者はよくわかっていないのですが、新編岡崎市史の記事にこの記録に本間重豊という人物がかかわっているとの事が書かれているらしい。WikiPediaの岩松八弥の記事には同書の著者が総侍尼寺の寺侍を務める本間重豊であり、十七世紀中に成立したという説が安城市史5資料編 古代・中世に載っているという説明があります。私の手元にもその本がありますが、その記事は今のところ見つけられておりません。参州本間氏覚書も色々な本に記事が引用されているのですが、今のところその信ぴょう性を含め確認は取れておりません。ただ、引用した部分の表現・内容が両書とも似通っており、岡崎領主古記には本間重豊と言う人物の関与が示唆されていることから、本間重豊に関連する人物が作ったのかもしれません。

 論文が「断片的な同時代史料が示す状況証拠・江戸時代成立諸資料を総合すれば、天文十二年までには織田が安城城を奪ったことはほぼ確実である」と記しておりますが、合戦や討死があった事と落城を直接結び付けなければ、落城に言及のない同時代史料も省くことができます。すると残るは江戸時代に成立した寛永諸家系図伝の松平郷松平伝十郎・内藤正成記事と岡崎領主古記・参州本間氏覚書の四点あたりが厳密に言う所の根拠として絞り込めます。

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2017年7月15日 (土)

第5節の論点抽出:北条氏康書状は何を述べているか?

 本稿は論文第5節:「北条氏康書状が述べる三河情勢の検討」について考察する物です。

 第3節・第4節において論文が大きな紙幅を取って論考してきたことは、論文著者が北条氏康書状を論旨に沿って活用できるようにする為に自説を修正する事でした。その中には著者自身が北条氏康書状の有効性について呈していた疑義も含まれていたので、無視はできないのですがおかげで日覚書状の記述での論点の積み残しがあることについての記憶が薄れてしまいそうになります。やむを得ない部分ではあるのですが、第5節でようやく日覚が「岡崎ハ弾江かう参之分」と書いた部分について、氏康書状の内容とどう組み合わせてゆくのかが語られます。
 本稿はその論点抽出の為に批判は押さえつつ、どのような論点が語られているかを抽出したいと思います。

北条氏康書状(長文版)に記された三河情勢を以下のように整理しております。

〇論文より引用
 (1) 去年に織田信秀は三河でいくさを起こし、安城の敵を破った
 (2) 岡崎城を確保した。(1)と(2)は織田と今川での相談の上でのことである。
 (3) 今川義元も今橋を「本意」にした。

 その上で、まず織田信秀が松平広忠から安城城を奪った年次を天文十二年以前であることを示します。その根拠として提示しているのは新編安城市史1の氏による記事を根拠としています。その上で 断片的な同時代史料の状況証拠・江戸時代成立諸史料を総合し、天文十二年迄の安城攻略はほぼ確実と結論付けられました。

その上で、平野明夫氏による安城陥落天文十六年説への批判を展開しております。
 すなわち、(1)について、安城城陥落天文九年説は他史料からも裏付けられ、当該文書も安城城が最初から織田方の手に落ちていたという読み方ができる為、北条氏康書状は天文九年六月六日の織田軍による安城攻撃の事実を否定する根拠にはなりえない、ということですね。

 そして(2)についてですが、論文では②北条氏康書状が言っている織田信秀による岡崎城の確保は日覚書状で裏付けられる、と述べております。当該論文をするまでは織田信秀の岡崎確保を他にこれに類する事を述べている書状がないため、疑義が唱えられていました。しかし、日覚書状が天文十六年に年代否定でき、同書状に岡崎攻落の事が触れられているため、織田信秀が岡崎城を抑えたのは間違いなしと論者は自説を見直しております。
 後段で③(1)(2)は織田と今川の相談の上でなされたとし、織田と今川との外交チャンネルの存在を日覚書状の鵜殿情報に搦めてその可能性を論じています。それによると両者による三河分割の合意の存在とそれによる今川の今橋支配と織田の岡崎確保がバーターとして扱われたこと(ただし、織田信秀の主張)が読みとれるのだそうです。
 付随して日覚書状が④織田の岡崎攻落をもって鵜殿氏の立場が危ういものに急変したという認識を示しているそうです。実際の歴史の流れは織田と今川の激突である「第二次小豆坂合戦」へと突入してゆくわけですが、その事態は氏康書状がいっている「織田にとっての相違のあしらいが生じた」ことだろうとのことでした。

 (3)については安城市史で提起した自説の修正に紙幅を費やしています。すなわち、書状が去年(天文十六年)の事について言っているにもかかわらず、今川義元が今橋の戸田宜成を倒したのは天文十五年であるはすと疑義を記したのですね。ここについては、戸田宣成は天文十五年十一月十五日の今橋城陥落時に討ち死にしたのではなく、生き残って今川傘下に入ったことが述べられています。落城即今川家に支配権が移ったのではなく、その後に城引き渡しに伴う交渉事が行われたはずなので⑤今橋を「本意」にしたのは、去年(天文十六年)の事としても差し支えないと、自説を修正されております。

上記論旨の流れに沿って、以下の論点を設定してみました。

①安城城は天文九年六月六日に落城したか
 論文では安城城落城天文九年落城の根拠を示し、その補足として安城市史の記事を示した上で、北条氏康書状の平野説解釈とは別の解釈を提起してその説を否定しています。論文で触れられている安城市史、横山住雄氏の著書の内容を改めて吟味した上で、天文九年安城城落城説を考察してみます。

②天文十六年に織田信秀は岡崎城を確保したか
 日覚書状では「岡崎ハ弾江かう参之分にて、からゝゝの命にて候」と言う記述があって、北条氏康書状にも「殊岡崎之城自其国就相押候」と書かれています。論文ではこれらから織田信秀の岡崎城確保は裏付けられたといっておりますが、この見解について別解の余地がないか検討してみます。

③(1)安城合戦(2)岡崎攻落は織田と今川の相談の上でなされた
 「〇相談」が「相談無く」か「相談なされ」かの検討は本編でも、川の戦国史の過去記事でもすでに行っておりますが、過去記事の整理もかねて織田今川の外交チャンネルや密約の存在の可能性について検討をしてみたいと思います。

④織田の岡崎攻落をもって鵜殿氏の立場が危ういものに急変した
 論文のここのロジックは客観的に見てかなりいただけない感じになっております。日覚が鵜殿の危機を感じ取ったのは、あくまでも「駿河衆敗軍」であってそれが心配だから心城坊を三河に派遣するといった後に岡崎の話が出ているので、決して「駿河衆敗軍」=岡崎攻落ではないと私は考えております。その他この前後の節にて納得のいかない記述について考察させていただきます。

⑤今橋を「本意」にしたのは、去年(天文十六年)の事
 原文は「本意を致す」という現代人には馴染みにくい表現ですが、今川氏による今橋占領時期にかかる考察についての考察を試みたいと思います。氏康書状が書かれた時期には今橋だけではなく、戸田宗家の根拠地である田原も落とされていた筈なのに、なぜ今橋のみが言及されているのかが、少し引っかかりました。

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2017年7月 9日 (日)

川戦:安城合戦編Ⅱ 4-2&3 書状は発給者控えか?/書状は発給されたか?

 論文においては、かつて安城市史が長文版を短文版からの改作と言っていた事を改めて、短文版が長文版からの省略版であると述べております。

〇論文より引用(※印は拙稿による補注)
このことからすると、いったんは草案として三河情勢に触れた氏康書状B(※長文版)が作成されたものの、こうした明白な支持表明を与えることが、後日において織田への負い目、あるいはこれを今川が知る事態となった際には今川への負い目となることが危惧され、三河情勢への言及をすべて削除した簡潔な氏康書状A(※短文版)が作成されたという推定が導かれる。

 この指摘については、すでに述べた長文版の文書解釈が近々、つまり未来の信秀の三河侵攻(恐らくは第二次小豆坂合戦を指す)に支持を与えたとするまでの解釈は出来ない点と、長文版と短文版では宛先として想定された織田信秀の立場が異なっている点を鑑みれば、単純な字句抹消とは言えません。もちろん氏康が書状を大げさにしたくないから尾張太守に見せるべく書かれた書状を織田信秀個人宛てに格下げした想定も可能です。しかし、この書状が書かれた時点で織田信秀は尾張太守の意向に従って頼み勢した尾張兵を三河に駐留させております。なので、格を落とした短文版の作成という想定は成り立ちにくいのではないのでしょうか。

 

②古証文の掲載元は発給者控えか?

 そして次の論点に入ります。論文は以下の根拠から古証文に掲載書状の引用元は北条家で保管されていた控えであると言います。

〇論文より引用(※印は拙稿による補注)
 両文書が一つの書「古証文」に並べて収録されているという事実は、両文書が同一の場所で採録されたと
想定すべきである。すなわち両文書が、元々北条氏の元に残されて伝来した控えであった蓋然性をこそ
氏康B書状
(※長文版)は後代創作と想定するのに数倍して考慮すべきである。

 私自身古文書の判読は素人なので、純粋に判らないことであり、教えも請いたい部分なのですが、現代社会でサラリーマンをしていて契約書などを扱っていると、この記述にはどうにも違和感を感じざるを得ないのです。

〇短文版氏康署名  氏康 在判
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〇長文版氏康署名  氏康 在判
Photo_3

 着目したいのはこの氏康の署名の後の「在判」と書かれた部分です。古証文は書状の書式をそのまま手書きで写し取って編纂されているらしく、印判が押されている書状にはその印判の形状が模写されております。

〇十二月十六日付一色式部少輔宛織田弾正忠署名
Photo_4


 もちろん、印判や花押が据わっていない書状も収録されているのですが、現代社会における契約書管理において、社印や職印の据わっている文書は正式に発行された有効な文書であることを示します。逆に控えには署名部分に社印や職印は押さず、上部に控印を押して保管します。「在判」と書かれた部分が手書きなので、書写が重ねられて印判部分が略記されたのか、最初から在判と書かれて保管されていたのかはわかりませんが、「判在り」と書かれている以上、元書状の本紙に印判が押されていたことは確かでしょう。

 古証文の引用元が北条家伝来のものである可能性については否定するものではありませんが、短文版・長文版のいずれも書状も署名に「在判」の字句があり、書状の宛先が「織田弾正忠殿」である以上、引用元の書状が織田家から伝えられたものである可能性もまた北条家からの由来説と等しく存在すると思います。
 そして、いずれの署名も「在判」という字句があることは、次の論点に一つの反証を与える事にもつながります。

 

③ 北条氏康書状は織田信秀の元に届いたか?

 論文は以下のロジックで実際に書状は発給されなかったのではないかと述べております。

〇論文より引用(引用1)
「茲に因りかの国(に)相詰らるの由承り候、余儀無き題目に候」はあきらかに、信秀が予定している近々の三河侵攻に対する明白な支持表明となっている。

〇論文より引用(引用2)(※印は拙稿による補注)
このことからすると、いったんは草案として三河情報にふれた氏康B書状(※長文版)が作成されたものの、こうした明白な支持表明を与えることが、後日において織田への負い目、あるいはこれを今川が知る事態となった際には今川への負い目となることが危惧され、三河情勢への言及をすべて削除した簡潔な氏康A書状(※短文版)が作成されたという推定が導かれる。

〇論文より引用(引用3)(※印は拙稿による補注)
すると三河情勢を述べている氏康書状B書状(※長文版)は実際発給されなかった文書という事になる(氏康A書状(※短文版)もまた結局のところ、届けられなかった可能性がある)。

(引用1)については、前稿にて書状は別に「近々の=(未来の)三河侵攻」について支持しているわけではなく、北条氏康が織田信秀の現時点における状況への認識を追認しているにすぎない旨、記しました。

(引用2)についても、前稿にて両方の書状において、織田信秀の立場に関する氏康側の態度を示す書式礼が違っている旨記しています。短文版が尾張太守の陪臣の陪臣への書状であり、長文版が尾張太守の取次への返書であるなら、同日同日人宛て文書発給もありうるのではないかと示しました。

 そして、(引用3)です。ここは本稿にて短文版・長文版の両方に「在判」と印判が押されたことを示す字句が存在する旨、指摘しました。これが意味するところは、長文版もまた、正式に文書として発給されたという事を示すのではないでしょうか。両書状とも届けられなかったとすれば、わざわざ署名に印判を押したものを手元に置いている理由もわからなくなってしまいます。

 戦国時代の文書管理の作法は知るべくもないのですが、現代人の感覚で見るならこの北条氏康書状については、「在判」なる字句がある故に実際に発給されたものであるように思えます。

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2017年7月 8日 (土)

川戦:安城合戦編Ⅱ 4-1 同一差出人の文意重複同一日付文書発給はあり得ないか?

 本稿では、論文で言及されている以下の文言の妥当性について考察してみたいと思います。

〇論文より引用
同一差出人の、文意が重複している同一日付の両文書がともに実際に発給されることはあり得ない。

 戦国時代に発給される書状には命令・禁制の類、または本領安堵や寄進等の契約的な文言に保証を与えている物が多いです。書状の発給者はその内容に違反した者に対して罰を与える義務を負います。領主が発給する書状には万一の場合の強制力の発動が期待されているのです。

 このような書状が同一差出人の、文意が重複している同一日付で複数あったとすれば、争いの元になります。具体例を考えるなら、本領安堵の書状が同一人の手に二通渡ったとして、それが後年書状を受け取った者の長男と次男にそれぞれ渡ったとすればどうなるでしょうか。それぞれが発給された文書の有効性を求めて建武親政期の二条河原の落書「本領ハナルヽ訴訟人 文書入タル細葛」が言うような状況になってしまうことは必至です。
 そういう前提を置けば、論文の言う同一差出人の文意重複同一日付文書発給はあり得ないという話はうなずけるのですが、今回の北条氏康書状も同様かと考えるなら、考慮しておくべき論点が三つばかりあると思います。

 まず第一に、書状が織田信秀に対し何らかの保証を与えているわけではないということです。書状の主旨は、論文の言う通り同盟を持ち掛けた織田信秀の誘いに対する婉曲な拒絶であり、信秀の要求に対して何らかの保証を与えたわけではありません。論文には以下の記述があり、信秀の「近々の三河侵攻」への支持表明をしたと書いていますが、ここは筆が滑っていると思います。

〇論文より引用
「茲に因りかの国(に)相詰らるの由承り候、余儀無き題目に候」はあきらかに、
信秀が予定している近々の三河侵攻に対する明白な支持表明となっている。

 「相詰」の「相」を「詰」の強調語と読むとしても、ここの「詰める」は文脈から言って小豆坂合戦を前にして織田信秀が拠点とした安城城と、せいぜい「相押」さえた岡崎の城(ここについても別解釈の余地は残っていると思っています)の事を言っているのでしょう。安城・岡崎は紛う事なく三河国にあります。ここで書状が言っているのは信秀の言う現状認識に対する肯定であって、「近々の三河侵攻」を支持したと取れる文言はありません。すなわち、本書状に含まれる契約的要素は極めて希薄であると言ってよいでしょう。

第二にこの書状が発給された時の状況です。天文十七年三月十一日はいわゆる第二次小豆坂合戦の八日前。今川義元のいる駿河は織田信秀のいる尾張・三河と、北条のいる相模の間にあり、敵領を超える使者の往還には危険がありました。ぶっちゃけ発給された手紙が届かない可能性があったわけです。
 そんなときにどうするか。海を越えて唐に書状を送った遣唐使は、正使と副使が別の船に乗り、それぞれに書状を携えて航海しました。当時は航海技術が未発達だったのです。あるいは、例えば以前にも例示した通り、幕末の大老井伊直弼が桜田門外の変で倒れた知らせを江戸藩邸から領国彦根に伝える為に二ルート、二隊に分けて書状が届けられました。もちろんこれは氏康書状と同じく契約書の類ではなく、状況を伝える為の書状です。
 もっとも、この説明だと送られた文面は書状の正文も予備文も同じはずだという指摘も出てくるでしょう。そのあたりの考察のために、次に別の角度からもう一つの論点を提示してみます。

 第三に短文版と長文版の記述の差異にネゴシエーションの形跡が窺えること。以下は北条氏康書状両版のそれぞれの後半部の抜粋です。

〇安城市史5 資料編 古代・中世より引用
(短文版)
委細者、御使可申入候条、令省略候、可得御意候、
(長文版)
抑自清須御使并預貴札候忝候 何様御礼自是可申入候 委細者使者可有演説候

 同じ織田信秀宛ての書状であるにもかかわらず、短文版と長文版で書きっぷりが異なっています。前者は詳しいことは使者が言うから省略するとだけ言っているのですが、後者は清州から送られて来た使いと信秀の手紙への感謝の念を示した上で、使者の演説がつくと書いているのですね。短文版が薄礼であるのにもかかわらず、長文版は礼を尽くした書き方になっています。
 最大の違いが「清須御使」という存在が追加されている事です。ここで言う所の清須とは尾張守護斯波義統のことでしょう。つまり短文版の書き方は相模太守が尾張守護代の一門衆、氏康にとって同格者の陪臣の陪臣に対する書式であるのに対し、長文版は相模太守が尾張太守へ披露する前提でその取次の織田信秀宛てに書状が書かれているわけです。
 織田信秀は尾張内部においては、主家の意向を代行する形で頼み勢にて尾張軍を編成する一方、守護家にも守護代家にも無断で伊勢神宮や朝廷に自分の名義で寄付を行う二面性を有しております。この二面性を踏まえれば、長文版が長々と織田信秀の書状に何が書かれていたのかを述べた上で氏康の見解を述べている理由が判るような気がします。

 すなわち、使者は当初信秀の使者として北条氏康に同盟をもちかけ、短文版の拒絶の書状を得たところで、自らは「清須御使」であり、信秀は清須の取次として自分を相模に遣わした、そして自らの義務として書状を尾張太守斯波義統に披露しなければならないと言い出したのではないかと想像します。短文版は明らかに目下に向けての書式なので、それが斯波義統に披露されれば、北条氏康は非礼を働いたことになります。抵抗もあったでしょうが、使者に同盟勧誘は斯波義統の意思と主張されれば、抵抗するよりも斯波義統にも見せることが可能な書状を出した方がよいと判断したのでしょう。確証ありませんが、使者が平手政秀であれば北条氏康から二種類の書状をむしり取ることは可能かもしれません。
 いずれにせよその書式礼も考慮に入れれば、宛先である織田信秀の立場も異なっている点も考慮するべきでしょう。

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2017年7月 2日 (日)

川戦:安城合戦編Ⅱ 第4節の論点抽出:北条氏康書状のプロファイル(その2)


 本稿は論文第4節:「北条氏康書状の史料批判」について考察する物です。

 北条氏康書状は横山住雄氏が「織田信長の系譜」において今川義元と織田信秀の連携による三河共同統治の可能性の根拠として紹介して以降、平野明夫氏が「三河松平一族」にて安城城天文十六年攻落説をとなえ、さらには「織田信秀岡崎攻落考証」の筆者でもある村岡幹夫教授の手になる「安城市史」の解説において当該書状の「後世改作説」が提唱され、色々な意見が交わされている状態です。論文の著者が村岡教授でさえなければこの辺りの論争は注釈において軽く触れるに留めて前節及び本節に係る説明は最低限に本論である岡崎攻落考証に取り掛かる事ができ、論文そのものももっと読みやすくなっただろうな、と思います。

 学者の論文は書状一本の引用においても、過去における論争を踏まえ、その上で自説を開陳するプロセスを経なければならない。その手順をきちんと踏まれており、その上で過去の見解と異なる説を提唱する時にはその旨をきちんと論文中に記す。これは素直にすごいことだと思います。
 北条氏康書状は同一日付の書状後半部分の内容が記されている短文版の書状があり、それは古証文の中に掲載されております。論文の著者は安城市史の中でこの書状に着目して、横山住雄氏が紹介し、平野明夫氏が取り上げた長文版の文書を短文版をもとにした後代改作説を提唱されました。それが当該論文においては、誤りであったことを明言し、見直しをされたわけです。

 とは言え、どのように見直されたかもまた検討していきたいと思っております。

①同一差出人の文意重複同一日付文書発給はあり得ないか?
 論文では「同一差出人の、文意が重複している同一日付の両文書がともに実際に発給されることはあり得ない。」という断定から始まります。まずはこれが正しいかどうか、調べてみたいと思います。

②古証文の掲載元は発給者控えか?
 ①の断定に基づいて長文版と短文版のどちらかしか発給されていないにもかかわらず、それに基づいて長文版と短文版のどちらかしか発給されていないにもかかわらず、古証文に両文書が残されているのは

〇論文より引用
両文書が一つの書「古証文」に並べて収録されているという事実は、両文書が同一の場所で採録されたと想定すべきである。すなわち両文書が、元々北条氏の元に残されて伝来した控えであった蓋然性をこそ氏康B書状(※長文版)は後代創作と想定するのに数倍して考慮すべきである。
(※)は拙稿による補注。

 正直言って私はこれが正しいかどうか判断するだけの材料を持ち合わせておりませんが、この結論を持ってくるためには別に検討しなければならない論点があるのではないかと考えております。それを本稿以下で検討をします。

③北条氏康書状は織田信秀の元に届いたか?
 長文版は北条氏康の織田信秀に対する慮りが大きすぎるので発給されなかっただろうという文脈で、発給されたのは短文版のみ、もしくは短文版も織田信秀の元に届かなかったという考察がなされております。

  何のかんのと前節に続いて脱線した論旨の展開になっているのですが、第2節で紹介された菩提心院日覚書状の紹介に引き続いて本節が次節に繋がる本筋の部分というのは、安城市史で著者自身が立てた氏康書状長文版は短文版からの後代改作説を見直した上で、氏康書状長文版が天文十六年の出来事に織田信秀が言及した同時代史料と見なし得うることを提起、という事につきます。そのせいで論文全体の論旨も見えにくくなっているのですが、論旨のみを追うなら、この節と前の節は後回しにしてもよいのかもしれません。

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2017年7月 1日 (土)

川戦:安城合戦編Ⅱ 3-4 「安城は要害だから」か、「安城の要害を」か?

 論文についての考証に戻ります。北条氏康書状の冒頭部分に以下の様な文言があります。

〇安城市史5 資料編 古代・中世より引用(拙稿にて下線部付記)
 駿州へ被相談去年向彼国被起軍
 安城要害則時ニ被破破之由候

 上記の改変部分「安城者要害」の「者」の部分について、私が参考にした戦国遺文、安城市史、小田原市史の刊本はいずれも「者」とした上で「「之」か?」等と注釈がついております。私自身「者」と解釈した場合、うまく解釈できなかったのですが、論文中では以下のような解釈で進めております。

〇論文より引用
「要害」の語を「城砦」の義でなく、「要害」本来の意味である「敵を防ぎ味方を守る
のに便利な地」で解し、「安城は要害(にて)」のように、それ以下に続く文に連結する
語句を補って読めば「安城は織田にとっての要害ですから即座にこの地の敵をお破り
になり」として意味は通る。

 その一方で「安城之要害」と読むことについては、否定というよりも、その不自然さを強調しております。

〇論文より引用
一方「安城之要害(城砦)を破る」としても意味は通るが、不安も残る。
一般にこの時期の文書において、「要害を築く」等のように「要害」の語を自方の砦を
指して用いる例はよく見られる。このくだりは織田からの来信の文面を踏襲したとおぼ
しいが、敵方(今川)の砦を攻落したことを他者(北条)に向かって語る際に、織田が
「(敵方である)安城城という要害を破った」と表現するのはいささか不自然のように
も感じられる。

 まずは「安城〇要害」をそれぞれの本がどんなふうに読んでいるのか見てみたいと思います。

〇「安城者要害」(#の数字はリンク先のスケールを参照)
Photo


 刊本は「者」と記しているものの、注釈にそれぞれ(之か?)と疑問符をつけています。古証文の肉筆写本はどちらとも取れそうな微妙な形状。むしろ旧蔵所不明本が「者」に寄っているのに対し、朝野旧聞ほう藁が「之」にしているように見えます。刊本の注釈はおそらくは朝野旧聞ほう藁の読み方も参考にした結果なのではないかと思います。他の字の傾向を調べてみても微妙な線です。幾分「者」っぽく見えは致しますが、私程度の技量ではいずれとも判別しがたいです。

〇「之」(#の数字はリンク先のスケールを参照)
Photo_2


〇「者」(#の数字はリンク先のスケールを参照)
Photo_3

 次に、要害は味方の陣地という見解についてです。論文では以下のような見解が示されております。

〇論文より引用
 一般にこの時期の文書において、「要害を築く」などのように、「要害」の語を自方の砦を指して用いる例はよくみられる。

 まずは要害を敵の陣地として解する認識はどのあたりにあるかを調べてみました。ネットで検索してみると、時代はずっと遡って日本書紀の神武天皇紀から以下のようなセンテンスを見つけました。即位前の神武天皇が磐余邑(奈良県桜井市阿部)に勢力を持つ兄磯城を討つ段です。刊本を探しましたので、原文と読み下しを引用します。

〇神武天皇(即位前紀戊午年八月―九月)日本書紀上 巻一神代[上]~巻十応神天皇 小学館刊より引用
 賊虜所拠、皆是要害之地。
中略
 賊虜(あたども)の拠る所は、皆これ要害(ぬみ)の地なり

 日本書紀の流布本がいつ頃成立したかの議論はあるかもしれませんが、少なくとも平安時代には多様な種類の古写本が現存しています。織田信秀のご先祖様は織田剣神社の神職ですし、信秀本人も日本武尊の三種の神器のうちの草薙の剣を納める熱田神宮や八咫鏡を安置する伊勢神宮とも関係が深いので日本書紀を読んでいても不思議はないとは思います。「要害」の語は日本書紀が書かれた昔から敵が使う拠点に対しても使われていました。

 戦国時代の文書の研究に長年携わってこられた著者による「自方の砦を指して用いる例はよくみられ」、その意味で使わないのは「いささか不自然であるように感じられる」という指摘は尊重されるべきと思いますので、搦め手からの反証も出してみることにいたします。それはすなわち実績に裏打ちされた権威には、その先達による権威を充てるということで、朝野旧聞ほう藁の編纂者の戸田伊豆守氏栄と監修の林述斎の名をあげてみます。
 すなわち、この古証文の文書を朝野旧聞ほう藁の編纂者達は天文十七年に発給された北条氏康の書状として認識していたわけではありません。北条氏康の書状は末尾箇所が抜け落ち、(年未詳)閏十一月七日に巨海越中守宛て伊勢宗瑞書状と合体した書状全体を伊勢宗瑞が遠江の国人領主であった巨海越中守に宛てた感状であると考えて以下の漢字を充てたわけです。

〇内閣文庫所藏史籍叢刊 特刊第1-[1] 朝野旧聞ほう藁より

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引用部を拙稿にて以下の通り判読及び、読み下しました。

 駿州へ被相談去年向彼国被走軍
 安城之要害則時ニ被破候由候
 毎度御戦功奇特候

 駿州へ相談せられ、去年彼の国に向け軍を起こされ、
 安城の要害を即時に破らるの由候
 毎度御戦功、奇特に候。

 朝野旧聞ほう藁の編纂者が想定したこの書状の背景は永正の井田野合戦で、駿・遠・東三河の国人連合からなる伊勢宗瑞率いる今川軍を安城松平家の長親が打ち破って西三河の支配権を確立したというストーリーに沿うべくこの書状が配されているのです。この時の松平長親は家督を嫡男信忠に譲り自らは出家して大樹寺にいたのですが、国の存亡をかけた戦いに及んで安城を拠点とし、井田野で今川軍を迎え撃っております。史実でも今川方が安城城を攻め落とした記録はありませんので、安城方の要害、例えば岡崎城等(当時は松平長親とは別流の岡崎松平家(後の大草松平家)の拠点でした)を押さえたと解釈したのでしょう。
 この想定で考えると安城が今川方である巨海越中守の拠点=「要害」であるという解釈は到底成り立ちえません。故に、江戸時代を生きた朝野旧聞ほう藁の編纂者、幕府における修史のエキスパート達の認識においても日本書紀の記述同様に「要害」という言葉が敵の拠点として使われていたとしても、そこに「不自然さ」を感じることはなかった言ってよいでしょう。

 結論なのですが、論文では「安城者要害」の意味を通すため、漢字の連なりである原文に「にて」という格助詞をつけて解釈をされています。

〇安城市史5 資料編 古代・中世より引用
 安城者要害則時ニ被破々之由候

〇論文より引用
  「安城は要害(にて)」のように下に連結する語句を補って読めば「安城は織田にとって要害ですから即座にこの地の敵をお破りになり」として意味は通る。

 「にて」という格助詞は原文にはありません。その解釈が成立するとすれば、例えば以下のように逆接補語を挿入するという手段での解釈もまた成立しえます。この場合、安城は松平の要害という意味合いになります。

 安城は要害ナレド、即時に破らるの由候
 ⇒安城は敵の要害であるにもかかわらず、織田は即座にお破りになり

 下に連結する語句を補って読む手段はこのように真逆の解釈をも成立せしめます。もともと「要害」と「則時」の間に補語は存在しないので、ここに「にて」を充てるなら、そう充てなければならない必然的な理由が必要になるでしょう。
 故にこの論点における論文の指摘は「安城は織田の要害」と解釈しうる可能性を示したもの以上のものではなく、当該センテンスだけで判断するなら「安城は松平の要害」という解釈もまたそれと同等以上に妥当であると言える。よって安城の要害が織田か松平かいずれが保有するものかを確定するためには別の部分を根拠とせざるを得ないのではないかと私は考えます。

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