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2017年7月15日 (土)

第5節の論点抽出:北条氏康書状は何を述べているか?

 本稿は論文第5節:「北条氏康書状が述べる三河情勢の検討」について考察する物です。

 第3節・第4節において論文が大きな紙幅を取って論考してきたことは、論文著者が北条氏康書状を論旨に沿って活用できるようにする為に自説を修正する事でした。その中には著者自身が北条氏康書状の有効性について呈していた疑義も含まれていたので、無視はできないのですがおかげで日覚書状の記述での論点の積み残しがあることについての記憶が薄れてしまいそうになります。やむを得ない部分ではあるのですが、第5節でようやく日覚が「岡崎ハ弾江かう参之分」と書いた部分について、氏康書状の内容とどう組み合わせてゆくのかが語られます。
 本稿はその論点抽出の為に批判は押さえつつ、どのような論点が語られているかを抽出したいと思います。

北条氏康書状(長文版)に記された三河情勢を以下のように整理しております。

〇論文より引用
 (1) 去年に織田信秀は三河でいくさを起こし、安城の敵を破った
 (2) 岡崎城を確保した。(1)と(2)は織田と今川での相談の上でのことである。
 (3) 今川義元も今橋を「本意」にした。

 その上で、まず織田信秀が松平広忠から安城城を奪った年次を天文十二年以前であることを示します。その根拠として提示しているのは新編安城市史1の氏による記事を根拠としています。その上で 断片的な同時代史料の状況証拠・江戸時代成立諸史料を総合し、天文十二年迄の安城攻略はほぼ確実と結論付けられました。

その上で、平野明夫氏による安城陥落天文十六年説への批判を展開しております。
 すなわち、(1)について、安城城陥落天文九年説は他史料からも裏付けられ、当該文書も安城城が最初から織田方の手に落ちていたという読み方ができる為、北条氏康書状は天文九年六月六日の織田軍による安城攻撃の事実を否定する根拠にはなりえない、ということですね。

 そして(2)についてですが、論文では②北条氏康書状が言っている織田信秀による岡崎城の確保は日覚書状で裏付けられる、と述べております。当該論文をするまでは織田信秀の岡崎確保を他にこれに類する事を述べている書状がないため、疑義が唱えられていました。しかし、日覚書状が天文十六年に年代否定でき、同書状に岡崎攻落の事が触れられているため、織田信秀が岡崎城を抑えたのは間違いなしと論者は自説を見直しております。
 後段で③(1)(2)は織田と今川の相談の上でなされたとし、織田と今川との外交チャンネルの存在を日覚書状の鵜殿情報に搦めてその可能性を論じています。それによると両者による三河分割の合意の存在とそれによる今川の今橋支配と織田の岡崎確保がバーターとして扱われたこと(ただし、織田信秀の主張)が読みとれるのだそうです。
 付随して日覚書状が④織田の岡崎攻落をもって鵜殿氏の立場が危ういものに急変したという認識を示しているそうです。実際の歴史の流れは織田と今川の激突である「第二次小豆坂合戦」へと突入してゆくわけですが、その事態は氏康書状がいっている「織田にとっての相違のあしらいが生じた」ことだろうとのことでした。

 (3)については安城市史で提起した自説の修正に紙幅を費やしています。すなわち、書状が去年(天文十六年)の事について言っているにもかかわらず、今川義元が今橋の戸田宜成を倒したのは天文十五年であるはすと疑義を記したのですね。ここについては、戸田宣成は天文十五年十一月十五日の今橋城陥落時に討ち死にしたのではなく、生き残って今川傘下に入ったことが述べられています。落城即今川家に支配権が移ったのではなく、その後に城引き渡しに伴う交渉事が行われたはずなので⑤今橋を「本意」にしたのは、去年(天文十六年)の事としても差し支えないと、自説を修正されております。

上記論旨の流れに沿って、以下の論点を設定してみました。

①安城城は天文九年六月六日に落城したか
 論文では安城城落城天文九年落城の根拠を示し、その補足として安城市史の記事を示した上で、北条氏康書状の平野説解釈とは別の解釈を提起してその説を否定しています。論文で触れられている安城市史、横山住雄氏の著書の内容を改めて吟味した上で、天文九年安城城落城説を考察してみます。

②天文十六年に織田信秀は岡崎城を確保したか
 日覚書状では「岡崎ハ弾江かう参之分にて、からゝゝの命にて候」と言う記述があって、北条氏康書状にも「殊岡崎之城自其国就相押候」と書かれています。論文ではこれらから織田信秀の岡崎城確保は裏付けられたといっておりますが、この見解について別解の余地がないか検討してみます。

③(1)安城合戦(2)岡崎攻落は織田と今川の相談の上でなされた
 「〇相談」が「相談無く」か「相談なされ」かの検討は本編でも、川の戦国史の過去記事でもすでに行っておりますが、過去記事の整理もかねて織田今川の外交チャンネルや密約の存在の可能性について検討をしてみたいと思います。

④織田の岡崎攻落をもって鵜殿氏の立場が危ういものに急変した
 論文のここのロジックは客観的に見てかなりいただけない感じになっております。日覚が鵜殿の危機を感じ取ったのは、あくまでも「駿河衆敗軍」であってそれが心配だから心城坊を三河に派遣するといった後に岡崎の話が出ているので、決して「駿河衆敗軍」=岡崎攻落ではないと私は考えております。その他この前後の節にて納得のいかない記述について考察させていただきます。

⑤今橋を「本意」にしたのは、去年(天文十六年)の事
 原文は「本意を致す」という現代人には馴染みにくい表現ですが、今川氏による今橋占領時期にかかる考察についての考察を試みたいと思います。氏康書状が書かれた時期には今橋だけではなく、戸田宗家の根拠地である田原も落とされていた筈なのに、なぜ今橋のみが言及されているのかが、少し引っかかりました。

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