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2017年8月 5日 (土)

川戦:安城合戦編Ⅱ 5-1 ⑥検証:安城城天文九年攻落説(時系列でみた考察および結論)

 本稿においては、前稿で提起した寺院過去帳の天文九年六月六日説の出所を時系列にまとめつつ、考察してゆきたいと思います。

 慶長十五年に太田牛一が現存最古の信長公記を記載します。恐らくは慶長年間中の完成であろうと考えられます。これとほぼ同時期に松平記が成立しているのですが、信長公記は小豆坂合戦の年次を記しておりません。松平記は天文十七年三月十九日と記しておりました。いずれの小豆坂合戦もこれが始まる以前に織田信秀が安城城を手に入れていたことを明記しております。但し、信長公記も松平記も広く読まれることを前提として書かれた本ではありません。知る人ぞ知る本として退蔵されることとなります。

 信長公記の成立から間もなく、小瀬甫庵が信長公記をベースに信長記の執筆に着手します。その間に徳川家康は亡くなり、遺言に従って遺骸は久能山に安置され、後になって日光に改葬されます。そして大樹寺には位牌が置かれることとなりました。これを機に大樹寺に松平歴代の墓所が整備されることになります。魂場野(魂魄野)と言う寺域の外の場所にあった松平親忠の墓などはほかの歴代の墓と一緒に寺の敷地内に置かれることとなります。この時点で大樹寺は将軍家の位人臣を極める以前の一族の菩提を弔う役割を担うことになりますが、この時点においては大樹寺は徳川家康につながる直系の一族のことだけを把握していればよかったはずです。

 そして、1622年(元和八年)、小瀬甫庵は信長記を刊行しました。この本には牛一本には書かれていなかった小豆坂合戦の年次が天文十一年であるということが明記されています。小瀬甫庵の記述の根拠となる史料の存在は確認出来ません。にもかかわらず、刊行という手段がとられることによって、この本の存在は広く人口に膾炙することとなります。
 同じ年、将軍就任前の徳川家光が日光東照社を参拝します。彼は父親に愛されなかった反動で祖父である徳川家康に深い愛着を持つ人格に育っておりました。彼はこの時の参拝を含めて生涯に十回日光通いをすることになります。その為の費えが幕府の屋台骨を揺るがせ、幕府滅亡の遠因を作ったなどという話も残っております。その翌年に徳川家光は将軍職に就任します。

 その頃、隠居をして暇を持て余した旗本の老人がおりました。名を大久保彦左衛門忠教と言います。慶長年間に作られた松平記は作者未詳なのですが、冒頭部に「阿部夢物語」という阿部定吉の弟である定次が書いたとされる記録が収められています。そうしたことから松平記は阿部定次かその縁者の作ではないかとされています。その阿部定次は忠政という養子に家督を継がせておりました。彼は大久保家出身で、阿部定吉死後の阿部家を出身家である大久保家と一緒に武功を立てて盛り立てていった人物です。大久保彦左衛門忠教もまた、大久保家の一員であり、なおかつ幕臣であるがゆえに松平記に容易にアクセスできるコネクションを持っていたと考えられます。そして、甫庵信長記を読んで、自らの体験や松平記と異なる記述の多さに嘆息して三河物語を著述します。この隠居の著作は作為的に書写されて市中に出回り、甫庵信長記と並んで洛陽の紙価を高めました。頑固爺の小言を絡めた歴史著述が娯楽に飢えた江戸庶民に受けてベストセラーになったのです。

 その間も徳川家光は熱心に日光社参を繰り返しておりました。それから間もなく、大御所徳川秀忠が亡くなり、増上寺に葬られました。これによって彼の行動を掣肘する者がいなくなったのです。徳川家光は日本の国主としての権力を、敬愛する祖父である徳川家康を神として祀ることに全力を傾注します。そして行ったことが日光東照社と大樹寺の大規模な建て替えでした。日光を見ずして結構と言うなかれと言い慣わされるほどの豪奢な木造建築様式は大樹寺の楼門にも適用され、非常に立派に装飾された建築物として現在も残っております。そして徳川家康には東照大権現という神号が付与され、家光自身も死後はこの日光に祀られることになります。

 家光の祖父敬愛の念は寺社の建設にとどまりませんでした。初代徳川将軍を清和源氏の嫡統とし武家全体の主君と位置付け、家臣達には自らの出自に関わる報告書の提出を命じます。それを系図集としてまとめることにより、徳川将軍家と家臣達の関係を文書の形で残そうと思いついたのです。時に1641年(寛永十八年)のことでした。
 この思いつきは徳川幕府の親藩・譜代の大名・旗本・御家人達に恐らくは衝撃を走らせただろうことは想像に難くありません。それまで当たり前のように禄を食んでいた家臣達に自分がここにいていい理由を書類に書いて提出せよと言っているのです。徳川旗本八万騎を数えていても、このリクエストに即応できる、語りたがりの歴オタは概ね大久保彦左衛門くらいだったでしょう。とは言えこの思いつきが発布される二年前には大久保彦左衛門は亡くなっております。
 各家が己が家の蔵に眠っている古文書を探し出して、家臣本人と東照大権現との関係は概ね立証されてゆきます。しかし、どうにもならなかったのはその存在は伝えられていても後継者が絶えて家が存続していなかった人達の事績です。徳川家光の要求も、家臣個人だけではなく、その兄弟の血統もまた報告せよと求められていたのは、系図資料の網羅性を見れば察することが出来ます。
 それは大樹寺にとって直系の一族だけではなく、西三河全域に散っていた一門衆の消息を集めて把握しておく必要が生じたことを意味しておりました。その時点で残っている松平一門衆については、それぞれに家伝を出し合って融通しあうことが可能でしたが、どうにもならないのは絶家した一門衆をどのように記録するかということだったのです。

 絶家した一門衆はその名前と戒名、そして安城での合戦で死んだことだけはわかっていたものと思われます。しかし、一口に安城合戦と言っても天文九年の安城乱、本多忠豊が戦死した天文十四年の戦い、五井松平忠次が戦死した天文十六年の渡河原合戦、そして今川軍が安城城を攻略した天文十八年の合戦、この合戦では本多忠高が戦死しております。それがいつのことかわからないとすれば、大樹寺はどのような行動をとるでしょう。
 恐らくは幕府に援助を受けていた手前、ただ単純にわからないと答えることは出来なかったのではないでしょうか。だとすれば、色々な資料を集めて没年を比定しようとしたと考えられます。寛永年間の時点で大樹寺がアクセスし得た情報を考えるとそれは大久保彦左衛門の三河物語、そして小瀬甫庵の信長記ではなかったでしょうか。松平記もまたそこに含まれていたでしょう。

 三河物語と松平記には安城落城の話こそは記されていますが、それがいつのことであるかは明記されておりません。そして、安城陥落のすぐ後段に佐々木松平忠倫が上和田に砦を作ったことが記されております。時期を特定する手掛かりはこれを読んでもわかりません。一方、甫庵信長記には天文十一年に小豆坂合戦があり、織田信秀は安城城から出陣した旨が記されております。小豆坂合戦が始まる以前に安城城が織田信秀の手に落ちていたということです。この記述を信じるのなら、天文十四年、十六年、十八年の三つの合戦は絶家した一門衆の終焉の時ではないということになります。大樹寺は甫庵信長記の記述から類推して絶家松平一門衆の没年を天文九年としたと私は考えます。

 諸家に呈譜を求め、総裁として系図集の編纂指揮を行ったは幕府若年寄の太田資宗で、実務家としてそれを整理したのが儒家の林羅山でした。大樹寺から天文九年に絶家一門衆が安城で亡くなった旨の報告を受けましたが、同じように五井松平忠次、藤井松平利長らが安城で戦って尾張衆を撃退した呈譜も受け取っておりました。同じように甫庵信長記の記述で考えるなら、その安城合戦は天文十一年以前でなければならないことになります。寛永諸家系図伝は、編纂の開始から献上本の完成までわずか二年しかかけられていません。そこで矛盾する記述はそのまま藤井松平利長譜に混ぜ合わせて記録されたものと考えるべきでありましょう。

 当然のことながら、天文九年の安城合戦における矛盾は後世の史家に気づかれることとなります。その是正がはかられたのが、参州本間氏覚書、岡崎領主古記ということになるのでしょう。それらの書物は寛永諸家系図伝の後に書かれたものと考えられます。

 大樹寺の寺伝は限られた時間で松平家の一門衆の伝を網羅し、なおかつ一門衆と徳川家康との関係を定義しなければならなかった。その為に大樹寺が依拠したのが根拠の存在しない小豆坂合戦の天文十一年説であり、その説が歴史考証の幅を狭めて生み出されたのが、松平絶家一門衆の天文九年死亡説なのでしょう。その死亡説はそのまま安城死守説をとる藤井松平利長、五井松平忠次らの家譜とともに矛盾、即ち城主が死亡する程の大敗なのに城は攻めきれずに織田軍は謎の撤退したこと、をすり合わせることなく寛永諸家系図伝に載せました。その一方で矛盾した記述の整合性をとる作業が始まります。判断材料を求める為に徳川綱吉の代に改めて日本中の諸家にさらに詳細な家伝の提出を求めます。その材料として寛永諸家系図伝が諸家に使われたことは想像に難くありません。苦し紛れの大樹寺の見解は甫庵信長記の断定を補強する材料として扱われ、天文九年の安城城陥落を確定事項のように扱った参州本間氏覚書、岡崎領主古記が現れます。それによって確かに寛永諸家系図伝の矛盾は解決されましたが、その解決が直ちに史実と合致するかどうかは別問題でありましょう。

 結論として天文九年に尾張衆が安城を攻めたことは天文九年十二月二十八日付妙源寺宛都筑竹松等連署売券などから事実であると考えますが、水野氏に話を通さずに行なった遠征の為、安城を攻めたものの向背に不穏さを感じて早々に撤収したのがその年の状況であったと私は考えます。その様な状況が落城説に至ったのは第一に甫庵信長記の記述にあり、短期間で呈譜を求められた大樹寺の対応であった。矛盾した記述をそのまま載せた寛永諸家系図伝を読んだ者がその矛盾を是正する為にその後に作られたのが天文九年の安城落城説であったのだと私は考えます。
 論文の指摘にある安城落城天文十二年以前説については、次節の検証において確認したいと思います。

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