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2017年8月 6日 (日)

川戦:安城合戦編Ⅱ 5-2 天文十六年に織田信秀は岡崎城を確保したか(日覚・氏康書状の検証)

 日覚書状では「岡崎ハ弾江かう参之分にて、からゝゝの命にて候」という記述があって、北条氏康書状にも「殊岡崎之城自其国就相押候」と書かれています。論文ではこれらから織田信秀の岡崎城確保は裏付けられたといっておりますが、本稿ではこの見解について別解の余地がないか検討してみます。

〇論文より引用
岡崎ハ弾江かう参之分にて、からゝゝの命にて候
(中略)
岡崎城主松平広忠は、織田信秀への降参者として処遇され、辛うじて命ばかりは許された。

 論文が言及しているセンテンスを論文のニュアンスにする場合は、以下のような文言になるかと思います。

「岡崎ハ弾江(之)かう参之分にて(遇され)、からゝゝ命にて(許され)候」

 戻し訳文から(之)、(遇され)、(許され)が略されていると考えれば一応のつじつまはあいます。 しかし、私は論文の訳文は順序が逆ではないかと思うのです。すなわち、降伏する人は、降伏者としての処遇が与えられる前に命の危険にさらされるのであって、降伏者としての遇された時点で命の危険は去っているはずです。
 もちろん、降伏した後に処遇が決まって処刑されるケースもありますが、論文が言っているような形の降参であれば以下のような原文になるのではないでしょうか。

「岡崎ハ弾江かう参致し候、からゝゝ命にて(許され)候」

「弾江かう参し」と「弾江(之)かう参之分」の違いは前者があくまでも広忠が降伏の意思表示をしたことに留まりますが、後者は信秀が遇した降参者というニュアンスが生じます。つまり、降参者は信秀に臣従を誓い、その代償としての降参者としての処遇を与えたということです。その後に命を脅かすような目に合わせることはまずないでしょう。
 なので、論文訳のようなニュアンスでシンプルに書くならば以下のようになるはずではないでしょうか。

「岡崎ハ弾江、からゝゝの命にてかう参致し候」

 しかし、そうなっていないとするならば、別解の存在の可能性を検討するべきではないかと思います。別解の可能性を検討する際に着目すべきは格助詞「にて」であろうと思います。「にて」でWeb検索すればその意味が出てくると思いますが、これは身分・処遇を示すだけでなく、手段や候を補って断定の意をもつケースもあります。当該原文には「にて」の語が二箇所存在しています。後者の「にて」は候が補われておりますので、断定の意でも通りそうです。そして、前者の「にて」を身分・処遇の意味から、手段(によって)に置き換えてみると意味が微妙に変わってきます。

 岡崎ハ弾江かう参之分「にて」(手段)、からゝゝの命「にて候」(断定)
 ⇒岡崎ハ弾江かう参之分によって、からゝゝの命である。

 「岡崎」と「弾江かう参之分」、論文訳及び今までの拙訳を含めて同じ者を指すと考えてきましたが、別解として別人である可能性が出てきました。口語訳にすれば、さらに明確になります。

(訳案)松平広忠は織田信秀への降参者によって、命の危険にさらされています。

 通説によるとこの書状が書かれた天文十六年九月時点で松平広忠の家臣団は分裂し、織田方についた一門衆の合歓木松平信孝は山崎(岡)の砦に、佐々木松平忠倫は上和田砦、桜井松平家次(内膳信定の孫)は譜代の重臣酒井将監とともに上野城に拠点を置いております。そして彼らは織田信秀に岡崎城攻略のための拠点としてそれらを提供しておりました。通説の状況とも一致しますので、訳案の一つとして打ち出しうるものだと思料致します。

 そして、その解釈を取った場合、松平広忠が命の危機の状態ではあっても、岡崎城攻落を示したものではないということになります。

 次に、北条氏康書状の岡崎攻落の箇所について検討をしてみます。

〇論文より引用
 殊岡崎之城自其国就相押候
(中略)
 殊に岡崎の城、其の国より相押さえ候に就き

 以前のブログ記事で「相押」を「押さえあい」と読んで岡崎城が尾駿両勢力の角逐の場になったと解釈したことを記しましたが、その解釈に強引さがあったことは認めます。本稿ではその解釈を改めさせていただきます。

〇論文より引用(拙稿にて下線部を追加)
② また、岡崎城を確保した

 論文では上記のように「相押さえ」を「確保」という言い方にしています。「押さえ」の意味に、物が動かないように押さえることとか、勢いを防ぎ止めること、等の意味があります。戦国時代の城の落とし方は、信長公記にみられるように目標となる城を付城と呼ばれる城砦群で包囲して標的の城への出入りを制限することで弱らせてから攻撃します。この付城が包囲した状態を「押さえ」と読んだのだとすれば、これは日覚書状の「岡崎ハ弾江かう参之分にて、からゝゝの命にて候」の私が挙げた別解の状況と合致します。

(訳案)殊に岡崎の城を、(付城包囲によって)駿河国より(の勢いを)押さえ込んだことについては、

 なので、付城包囲で其の国(=駿河国)の傘下である岡崎城の勢いを防ぎ止めたこと をもって「確保した」という言葉になっているのであれば、その用法は妥当なのでしょう。しかし、論文後段で②のニュアンスを根拠の提示がないまま以下のように変えてしまっております。

〇論文より引用(拙稿にて下線部を追加)
次に、②の織田信秀岡崎攻落の記述については、

 「確保した」ではなく「攻落(攻め落とした)」になっているのですね。
 もちろん日覚書状の「岡崎ハ弾江かう参之分にて、からゝゝの命にて候」を岡崎=「弾江かう参分」と読んだ結果を踏まえて、岡崎城が攻め落とされたと考えてもよいのです。しかし同じ節の前段で同じ項番②として定義した氏康書状の字句解釈を断りなくニュアンスを変えて述べるのはいかがなものかとも思います。

 結論として、日覚書状並びに北条氏康書状が述べる岡崎城の状況は付け城包囲による確保(今川方である岡崎城の勢いを防ぎ止める)状態として一致していると読みうる。よって、岡崎城を「攻め落とした」とする論文解釈には疑義を呈する余地があると私は考えます。

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