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2017年8月12日 (土)

川戦:安城合戦編Ⅱ 5-3 安城合戦と岡崎攻落は織田と今川の相談の上でなされたか?

 論文において織田と今川に外交チャンネルがあったことを示唆している文言「〇相談」の〇の部分が無なのか被なのかについては、川の戦国史安城合戦編 でもやりましたし、本編 でもそれについての考察を行いました。とりあえず、それを置いて論文の解釈における今川と織田の合意のある状況というものがどのようなものであるのか、考えてみたいと思います。

 織田信秀は今川義元との相談の上で軍を起こして
①安城に迫る敵を破り、
②岡崎城を詰める、即ち、確保もしくは攻落させた。
③その前提として今川の方は今橋を本意とすることを織田も支持していたが、岡崎の攻落は今川義元の想定範囲を超えることであったためか、
④それ以後織田にとっての相違のあしらいが生じた、
 という具合に解釈を進めております。

〇安城市史5 資料編 古代・中世より引用(センテンス毎に改行、番号挿入を行う、指示代名詞+名詞を赤字)
如来札近年者遠路故不申通候処懇切ニ示給候悦着候、
仍三州之儀駿州へ被相談、去年向
彼国被起軍①安城者要害則時ニ被破破之由候、
毎度御戦功奇特候
②殊岡崎之城自其国就相押候
③駿州ニも今橋被致本意候
④其以後万其国相違之刷候哉

因茲
彼国被相詰之由承候
無余儀題目候
就中駿州此方間之儀預御尋候
近年雖遂一和候自
彼国疑心無止候間迷惑候
抑自清須御使并預
貴札候忝候
何様御礼自是可申入候委細者使者可有演説候
恐々謹言、

 確かに相談は存在し、そこでの合意を破った今川に非があり、自分はそれによって三河駐留を余儀なくされたというのが論文が描いたこの書状のストーリーです。では相談したのにもかかわらず生じた織田にとっての相違のあしらいとは何なのでしょう。論文では、織田と今川との外交チャンネルの存在を日覚書状の鵜殿情報に絡めてその可能性を論じています。それによると両者による三河分割の合意の存在とそれによる今川の今橋支配と織田の岡崎確保がバーターとして扱われたこと(ただし、織田信秀の主張)が読みとれるのだそうです。しかし、それは実際には機能しなかった。今川は織田の岡崎領有を許さなかったせいで、北条氏康に助力を請う羽目になったと論文は解釈しているわけです。

 以下、それに対する私自身の解釈による別解をまとめておきます。
まず、「〇相談」の〇の部分は無です。しかし、それは今川と織田との間に外交チャンネルの存在がなかったことを示すのではなく、相談をしなかったのは彼国(=三河の松平広忠)です。松平広忠は今川傘下にありながら今川家と相談することなく、軍を起こしたわけですね。

 そして①これに向かって織田信秀は戦いを挑み、安城の要害を破ったのです。(あるいは、安城は要害だけれども実力で打ち破った)「安城〇要害」の〇部分は素人目には「者」とも「之」とも読める微妙な表現なのですが、「之」とするのが妥当でありましょう。「者」にした場合はそのままの形ではうまく意味の通る解釈になりません。意味を通すなら論文が試みた通り「にて」という格助詞をつける必要が生じますが、そのような字句を恣意的につけての解釈が可能であるならば、「なれど」と逆接の補語で補って意味を取っても差し支えないことになります。その場合は〇を「之」と解釈したのと同じ意味合いになりますので、字句を付加しての解釈はそれ自体意味をなしません。よって、与えられたセンテンスのみで「者」で読んでも意味が通らないのであれば、「之」で解釈すべきでありましょう。

 松平広忠は日覚の書状が書いている通り、織田信秀に降参した旧松平広忠家臣衆によって命からがらになるまでの大敗を喫し、其国(=駿河勢力)の最前線である岡崎の城は松平記や三河物語が示す通り旧松平家臣達の岡崎城包囲によって織田信秀が押さえ込んだ状況になっています。論文では岡崎城を「確保」から日覚書状の「岡崎ハ弾江かう参之分にて、からゝゝの命にて候」の記述をうけて「攻落」と段階を上げていますが、ここは岡崎の降伏とする解釈には疑義を呈しておきます。論文では「にて」を資格・身分を示す格助詞として解釈していますが、「にて」には手段を表す格助詞としての意味もありますので、これもまた別解として成立しえます。

 ③駿河側も今橋を手中に収めていたが、
 ④それ以後に織田信秀は
其国(=駿河勢力)と仲違いしてしまった。
そのせいなのか、織田信秀は彼国(=三河)に自ら出馬せざるを得なくなったとの旨、承知いたしました。

 論文では「其国相違之刷候哉」を「織田にとって相違のあしらい」と解釈しております。とりあえず漢和辞典を調べても「刷」の字を「あしらい」と訓読する辞典は見当たらず、小田原市史は「(つくろい)扱い」と注釈していて、いずれが正しいのかを判断する材料は持っていません。以前の解釈では「刷」を「増刷」などからの連想してニュースと解釈していましたが、文字の意味からそれもなさそうです。

 そして「相違」はそもそもそれは織田にとってのものなのでしょうか。書状には「彼国」「其国」など指示語で国が記されていますが、尾張国を指す言葉については、北条氏康書状の「自清須御使并預貴札候忝候」に着目してください。織田信秀の書状のことを「貴札」と記しています。であれば信秀が属する国のことを北条氏康は「貴国」と呼称したはずです。よって「其国」は「殊岡崎之城自其国就相押候」の行で織田信秀に押さえられた岡崎城が頼みとしていた国、即ち駿河と考えるべきです。

 「相違」ですが、「ソウイ」と音読みするのではなく、訓読みして「あいちがい」とする別解もあり得ると考えます。「ちがい」というと直江兼続による「内府ちがひの条々」などの用法がある通り、非難をする意味があります。それを相互に行うことですから普通に仲違いという意味でいいのでしょう。織田信秀が岡崎、今川は今橋を確保する以前までは互いに譲っていた合意があり、その後仲違いをしたため、織田信秀本人が三河に駐留せざるを得なくなったということでよろしいかと思います。

 今川家も、斯波家を背後で支える織田家も互いに三河国人衆の後ろ盾として機能しておりました。三河国人衆が無用な紛争を治められるよう両家が相互に外交チャンネルを持っていたこともあり得ることだと思います。しかし、それはおそらく論文が言うような相談して岡崎に攻め込むような露骨なことを氏康書状が示しているわけではないと考えます。
 織田信秀は駿河国とあい「ちがい」して三河に駐留したわけですが、その原因になった「刷(あしらい)」とは何でしょうか。論文では信秀による岡崎攻落と位置付けていますが、別解もあり得ると思いますので、次稿以降で提示させていただきます。

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