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2017年8月13日 (日)

川戦:安城合戦編Ⅱ 5-4 織田の岡崎攻落をもって鵜殿氏の立場が危ういものに急変したのか?

 論文において「一方で菩提心院日覚書状は、織田の岡崎攻落を以って鵜殿氏の立場が危ういものに急変したとの認識を示している」と言う記述があります。そこに至るまでのロジックは、以下のプロセスを経て、⑥に当たる部分で言及されています。

 ① 氏康書状「殊岡崎之城自其国就相押候」の部分を「岡崎城を確保した」と解釈。
 ② 日覚書状「岡崎ハ弾江かう参分」の部分を「信秀に広忠は降参した」と解釈
 ③ ①②より氏康書状の「押さえ」は「確保」ではなく、「攻落」であると解釈変更。

 ④ 氏康書状「〇相談」を「(織田が今川に)被相談」と読み、織田と今川の外交チャンネルの存在を示唆
 ⑤ 氏康書状「駿州ニも今橋被致本意候」を④により織田が追認したと主張していると解釈

 ⑥ ①~③の結果、鵜殿氏が窮状に陥ったと日覚書状が示しているとの認識を提示。
 ⑦ 氏康書状「其以後万其国相違之刷候哉」の部分を「織田にとっての相違のあしらいが生じた」と解釈。
 ⑧ ④があったとしても、⑥に代表される傘下国人の窮状を今川が看過できない事情があったと結論

 ⑧の結論に至るまでかなりの紙幅が費やされており、果たしてこの論旨要約が正しいかどうかも怪しくはありますが、①、②、④(の前段)については既に拙稿にて別解を提示しております()。そして、⑥の主張を展開するためには、論文は以下の論理展開プロセスを経ていると解釈せざるを得ません。

 ⑥' ⑥の認識に至る前提として、論文は日覚書状の言う「駿河衆敗軍」を「岡崎攻落」と解釈。

 そしてその解釈は論文中には明示されてはおりません。実際に菩提心院日覚書状の書状を読みても、必ずしもそのようには書かれているとも読めないのです。故に論文のここのロジックは客観的に見てかなりいただけない感じになっております。以下に日覚書状の関連部分を引用します。

〇菩提心院日覚書状 本成寺文書  愛知県史資料編14より抜粋引用(拙稿にて下線部付記)

一三州ハ駿河衆敗軍の様二候て、弾正忠先以一国を管領
 候、威勢前代未聞之様二其沙汰共候、一、此十日計巳
 前ニ京都より楞厳坊罷下候、厳隆坊も同心にて候、心
 城坊ハ旧冬よりいまに当国二滞留候、さる仕合候て、
 濃州より当国へ上使二養雲軒と申人之内者の様にて候、
 于今旦方あひたの使なと仕候、此人なふてハの様にて
 候、一、彼楞厳坊申来候ハ、鵜殿仕合ハよくも有間敷
 様二物語候、其謂ハ尾と駿と間を見あはせ候て、種々
 上手をせられ候之処二、覚悟外二東国はいくん二成候
 間、弾正忠一段ノ曲なく被思たるよしに候、定而彼地
 をも只今の時分ハ攻いらんやと致物語候間、あまりニ
 □□許存候間、近日心□坊を可差遣覚悟にて候、岡崎
 ハ弾江かう参之分にて、からゝゝの命にて候、弾ハ三
 州平均、其翌日ニ京上候、其便宜候て楞厳物語も聞ま
 いらせ候、万一の辺も候てハ、門中力落外見実義口惜
 次第候、

 日覚書状で岡崎が言及されている部分は引用部の最後から五行目のあたりです。その前段で、日覚が鵜殿の危機を感じ取ったのは、あくまでも「駿河衆敗軍」「東国はいくん」であってそれが心配だから心城坊を三河に派遣するといった話の後に初めて岡崎がでてくるのです。

 論文の通りに書状を「駿河衆敗軍」=岡崎攻落と解釈しようとするとどうしても一度文章を最後まで読み切ってから前に戻って解釈をしなおさなければなりません。この論文においてはそのような解釈をするケースが多すぎると思います。普通に前から後ろへ読み進めるなら、織田方に敗軍したのはあくまで「駿河衆」「東国」であって、岡崎にいる松平広忠は駿河の今川義元の与党ではあっても、駿河衆そのものではありません。

 最終段での「万一の辺」という記述の想定が鵜殿の運命を岡崎のそれになぞらえていますが、岡崎の運命は日覚書状の文章の構成からあくまでも駿河衆敗軍の結果に付随するものとして見るべきです。
 論文の手法は日覚書状の辺句を切り取って解釈し、それを北条氏康書状の辺句と組み合わせて新たな解釈を生み出し、その解釈をまた日覚書状に戻して別の部分に適用することによってさらに新しい解釈を展開しています。しかし、それは日覚書状、氏康書状のそれぞれの文脈を無視した論旨の展開であるために、両書状を踏まえて論文を読むと、その論旨は中々理解しがたいものになっているのです。

 結論として、「織田の岡崎攻落をもって鵜殿氏の立場が危ういものに急変した」とする論文記述は日覚書状の文脈を無視した解釈であり、そこから導き出される「織田にとっての相違のあしらい」の根拠にはなりえないと私は考えます。
 それでは鵜殿氏の立場を危うくしたと日覚書状が述べている「駿河衆敗軍」の正体は何か、については論文の第六節「6.松平広忠降参情報の信憑性」の考察において進めようと思います。

 

 

 

※上記部分の論旨の展開は拙稿の以下部分で行っております。よろしければご参照ください。
 ① 氏康書状「殊岡崎之城自其国就相押候」の部分を「岡崎城を確保した」と解釈。
   ⇒岡崎城の状況は付け城包囲による確保と考察。
   「5-2  天文十六年に織田信秀は岡崎城を確保したか」

 ② 日覚書状「岡崎ハ弾江かう参分」の部分を「信秀に広忠は降参した」と解釈
   ⇒松平広忠は織田信秀への降参者によって、命の危険にさらされていますという解釈を提示
   「5-2  天文十六年に織田信秀は岡崎城を確保したか」

 ④ 氏康書状「〇相談」を「被相談」と読み、織田と今川の外交チャンネルの存在を示唆
   ⇒無相談と読むべき根拠を提示。
    外交チャンネルの存在そのものは否定しないが、書状に顕れていないと解釈。
   「3-2 織田信秀は出兵を今川義元に相談したのか?」
   「3-3  『古証文』の底本は何か?Ⅰ」
   「3-4  『古証文』の底本は何か?Ⅱ」
   「5-3  安城合戦と岡崎攻落は織田と今川の相談の上でなされたか?」

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