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2017年8月19日 (土)

川戦:安城合戦編Ⅱ 5-5 今橋を「本意」にしたのは、去年(天文十六年)の事か?

 本稿の論点は私自身、さほど重要な物とは考えておりません。氏康書状が去年のことと言っているのはあくまで安城をめぐる合戦についてのことであって、今川義元が今橋を「本意に致した」と書いている部分にはかかっていないと考えているからです。仮にかかっていたとしても今川軍の今橋攻撃が天文十五年の十一月のことですから誤差の範囲ですし、そこに矛盾があったとして、史料の信憑性や価値が毀損するとかそんな類の話には見えません。

 しかしながら、論文においては今橋を「本意」にしたのは、去年(天文十六年)のことであるかどうかについて、紙幅をとって論考が加えられています。北条氏康書状を論考の俎上に載せるうえで、過去に行った考証に訂正が必要な点であると認識したからでありましょう。
 曰く「また③の記述について、同じく前述[解説]において、今川が今橋城(城主戸田橘七郎宣成)を陥落させたのは天文十六年ではなく、通説に従って同十五年十一月十五日であるとし(「豊橋市史第一巻」豊橋市発行、一九七三年、三九一ページ参照)、この記述に疑問を呈した。先の②の記述についてともども氏康B書状後代創作説に傾く根拠として挙げた所である」

 論文によると天文十五年十一月十五日付で今川義元が天野景泰に感状を出しており、そこには今橋城の外構を乗り崩して宿城に乗り入ったことが述べられているとのことです。宿城に乗り入ったからと言ってそれが必ずしも落城させたとまでは言えず、今川家が今橋城を確実に支配下におさめたと判るのは天文十六年六月十三日銘の神輿棟札発行までの間であるので、今橋支配を確実にしたのは天文十六年と言っても差し支えがないということらしいです。

 ただ、北条氏康書状におけるこの今橋の扱いには引っかかることがないわけではありません。北条氏康の認識もそうですが、論文の論理展開に見落としている事件があると思います。
 北条氏康書状が書かれたのは天文十七年三月十一日です。今川軍が三河に侵入して今橋城を本意にしたのが、天文十五年十一月十五日~天文十六年六月十三日の間。論文が安城を拠点に敵を破り、岡崎を攻落したとしているのが天文十六年九月のことです。北条氏康は織田信秀に次のような問いかけをしています。

 「其以後万其国相違之刷候哉(それ以後よろず其の国に相違のあしらいがあったのでしょうか?)」

 論文ではこのセンテンスの「其国」は尾張国と解釈していますが、以前の稿でも指摘した通り、私はここを駿河国と見ております。いずれにせよここの「哉」は反語表現で、其の国(駿河国)に「相違之刷」が実際にあったと説いているのです。そのせいで織田信秀は三河国に詰める羽目になっております。論文では「相違之刷」を織田信秀の岡崎城攻落としておりますが、たぶん違います。というのは、このセンテンスは織田の安城での合戦と岡崎「攻落」、今川の今橋「本意」について述べたくだりがあった後に「其以後」とつなげているからです。

 すなわち、織田・今川勢力の三河侵入の後に起こったことについて語っているのです。それが何であるかは年表を見れば明らかでしょう。氏康書状が書かれた時期には今橋だけではなく、戸田宗家の根拠地である田原城が今川軍によって落とされていたのです。天文十六年九月のことです。時期的には論文が岡崎を「攻落」したと言っている時期にあたり、同時期に三河で今川軍が軍事行動を起こし、田原城主である戸田宗家の康光・堯光親子が討ち取られているのですが、そこは何故か触れられていません。そのあたりは不自然に感じます。東三河の要衝として北条氏康の認識としては田原より今橋の方が重要と考えていたのかもしれません。あるいは、田原の戸田宗家を滅ぼすことによって、三河湾の海上交易ルートに干渉する物がいなくなり、最重要拠点である今橋の湊を「本意」にできるようになったことを言っている可能性もあります。

 しかしこれは、双方の当事者にとって言わずもがななことは敢えて書かない、もしくはぼかした表現で記すことになっていたのではないでしょうか。そしてそのぼかした表現こそが「其国相違之刷」=今川軍の田原侵攻であり、織田信秀が三河に詰めなければならない理由であったと考えられます。

 この氏康書状は知行宛行や感状ではないのですから、機微に触れる事項については敢えて明記しないことにしたという解釈で差し支えないでしょう。じつは、「其国相違之刷」の解釈については別解として、『天文十六年八月の第一次小豆坂合戦』も思案にいれているのですが、その論旨については次節「6.松平広忠降参情報の信憑性」の考察記事に回したいと思います。

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