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2017年8月27日 (日)

川戦:安城合戦編Ⅱ 6-1 ②天文十二年以前:安城城陥落(内藤正成譜の上野城合戦記事)

 本稿は前稿の補足として寛永諸家系図伝の内藤正成譜が天文十一年十二月にあったとしている上野城攻防記事についてとりあげます。内藤氏は秀郷流藤原氏の一族で足利尊氏の挙兵に呼応して従軍した三河国人細川氏についていった一派が後に管領細川氏の内衆として丹波守護代になっております。内藤正成は三河に残った内藤一族の末裔であると考えてよいでしょう。彼は後に徳川十六神将の一人として数えられ、弓の名手としても知られております。史料はその初陣の活躍を記しております。その活躍とは第一次小豆坂合戦があったと言われている天文十一年、その年末に尾張の軍勢が彼の守る上野城に襲い掛かるのを撃退したという話です。
 上野城は岡崎城からみて北北西に位置する矢作川西岸の城で、桜井松平家の当主松平清定・家次親子の居城です。内藤正成は桜井松平家に仕える内藤清長の甥として在城していました。

〇安城市史5資料編 古代・中世より引用。(拙稿にて▽印を付記)
寛永諸家系図伝 藤原氏秀流内藤正成譜
正成
 四郎左衛門尉
はじめ伯父弥父右衛門に属して上野の城にあり。


天文十一年十二月上旬に織田弾正忠信秀の
兵五騎物見として上野の城にきたる時、城中の
兵はすゝみて是をうたんとす。こゝにをいて
正成衆兵にさきたちて相まじハり、鑓を合鑓下
の高名を得たり。此とき正成十六歳なり。


同月二十四日、尾州のさふらひ新兵衛といふもの
兵を率て夜中に上野の城を襲、すでに二丸に入
時、正成弓を持、百入の土俵靭をつけ、はしり
いでゝ是を射ける間、敵城中をいでゝしばゝゝ相
たゝかふ。正成勝にのりてこれを射、矢すでにつ
きんとする時、かたハらに童一人ありけるに、
正成彼に告て汝いそぎ矢をとりてきあるべし。と
いふ。その時童はしりゆきて矢を抱きたる。是
によりて大に勝利を得、敵すでに死傷するもの二
百余人。これ正成がよく弓を射けるちからない。
翌日広忠卿此事をきこしめし、其戦功を感じ
たまひ、はじめてめしいだされ、三州羽角村にを
ひて采地をたまハる。伯父弥次右衛門もまた此功
を感じ七所拵の刀をあたふ。松平弥右衛門尉も
是を褒て家の目貫・笄をさづく。


同年、三河安祥の兵、上野の城を襲。ときにその
部将陣頭にすゝみ諸卒を下知して競きたる。味
方突いでゝあひたゝかふとき、正成味方にさきだ
つこと三十間バかりにして、彼部将と鑓をあハせ其
首をとる。こゝにおひて敵兵利をうしなひて引し
りぞく。弥次右衛門これを感じて鎧ならびに脇差
をあたふ。

 記述は三つの部分に分かれていてそれぞれに完結しています。面白いことに三つのエピソードがそれぞれ内容を微妙にたがえつつも同じ構造を持っているので、比較がてらエッセンスを抽出してみます。

日時:天文十一年十二月上旬
敵:織田弾正忠信秀の兵五騎
敵の行動:物見
正成の行動:味方に先行して戦う
正成の武器:槍
戦果:不明
正成の得たもの:槍下の高名(一番槍のサポート)

日時:天文十一年十二月二十四日
敵:尾州の侍、新兵衛
敵の行動:城を夜襲
正成の行動:走り出て敵を射る
正成の武器:弓
戦果:二百人を射て大勝利。
正成の得たもの:(松平広忠)領地、(伯父=内藤清長)刀、(松平弥右衛門尉)目貫・笄

日時:天文十一年
敵:部将率いる三河安城の兵
敵の行動:上野城襲撃
正成の行動:味方に先行して戦う
正成の武器:槍
戦果:部将の首。敵軍撃退。
正成の得たもの:(内藤清長)鎧と脇差

最初の話は十二月上旬、真ん中の話は十二月二十四日と連続したの時間軸の中で起こった話として描写されていますが、三つ目の話が起こったのは天文十一年のどこかです。細部の異同から別事案のようにも見えますが、時期が重なっているところから一つ目、二つ目の話に関連した話のようにも見えます。
 一つ目の話が「此とき正成十六歳なり」と初陣っぽい書き方をしているのですが、一~三が連続した話だとすると、三つめの話が起こった時期は十二月二十四日~晦日までの数日間に限定できるわけですが、記事は敢えて日時をぼかしています。三つ目の話は一つ目、二つ目の話よりも先行して起こった出来事の記事かも知れませんが、あえて後ろに載せております。実は、寛永諸家系図伝という系図史料の編集方針なのですが、収集した記録をそのまま載せることもあるのですね。なので、三つ目の記録は整合性を考えずに年次だけ追記して後ろにくっつけられたもの、つまり独立した記事であると考えられます。

 ここで、三つ目の話が記録になかったとすれば、どのような解釈になるでしょうか。それは天文九年の安城乱中と同様、水野家の支援を受けないまま織田信秀が北方から上野城を攻め、撃退された記事であるように読めます。
 逆に、一つ目・二つ目の話がなくて三つ目の話が単体で記載されており、なおかつ第一次小豆坂合戦を考慮に入れないとすれば、松平家の内訌の記事にも読めます。天文十一年時点の上野城の城主は桜井松平清定で、父は松平一門衆の重鎮で親織田派でもあった桜井松平信定です。清定はその翌年の十月三日に亡くなっており、後を継いだ家次は織田側についた結果、松平家次は後に上野城を松平広忠に落とされて蟄居を余儀なくされます。すなわち、上野城は松平広忠にとって潜在的な敵勢力であり、安城城がまだ陥落していないと仮定すれば、広忠が命じて上野を攻めた可能性も考えるべきでしょう。天文十二年正月には岡崎松平家の家臣団が合歓木松平信孝を放逐しており、松平一門衆の内訌が始まっております。そう考えれば、敵将の名が記されず、敵将を討ち取ったにも関わらず、主君からの恩賞記事はなく、恩賞を与えたのが伯父だけということも頷けます。

 まとめますと、寛永諸家系図伝内藤正成譜における天文十一年上野城合戦記事は複数の史料を併記して構成され、三つの話をまとめて初めてこの年以前の安城城落城あったように読めるのですが、史料相互の整合性が取れていない為、安城落城を想定しない異なる原因で起きた複数の合戦があったという解釈も可能です。
 ここで甫庵信長記の小豆坂合戦天文十一年説にのっとって解釈すれば、三つの記事の記録は互いに関連していて、最初の二つの話にでてくる織田勢は北方からやってきたのではなく、織田勢が先に占領した安城を経由して南からやってきたように読めてしまいます。意図して行ったかどうかまではわかりませんが、小豆坂合戦天文十一年説を虚構と考えた場合に、見直しを行う糸口も含んだ史料であると言えると思います。

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