« 川戦:安城合戦編Ⅱ 第6節の論点抽出:仮説は史実に矛盾していないだろうか? | トップページ | 川戦:安城合戦編Ⅱ 6-1 ②天文十二年以前:安城城陥落(内藤正成譜の上野城合戦記事) »

2017年8月26日 (土)

川戦:安城合戦編Ⅱ 6-1 ①天文十二年以前:安城城陥落(第一次小豆坂合戦)

 前節で天文九年安城陥落説について検討し、「天文九年」という時期は後代になって付け加えられたものである可能性を検証してみました。安城市史1 通史編 原始・古代・中世によると、天文九年の織田信秀の安城攻撃を受け、「これ以降の三河における織田方の攻勢展開からすると、天文十二年(一五四三)までには安城城を織田方が押さえていたことは確実である」と書いてあるのですが、寛永諸家系図伝の内藤正成譜には天文十一年末の段階で上野城は松平方として健在です。親松平の水野忠政もまだ生きている中、安城を確保することはできても長く持たせることはできないと思います。
 天文九年~十二年の織田信秀の攻勢について出典史料と共に出せば、以下のようになります。天文十二年に織田勢が三河へ攻勢に出たという話はありません。

12

 上記を見れば、天文九年十二月二十八日付妙源寺宛都筑竹松等連署売券に記された天文九年の「安城乱中」を除けば、いずれも一次史料を欠いていると言えるでしょう。「安城乱中」にしても織田勢が攻めてきたとか、安城城が陥落したとは書いていないことは前節で示した通りです。
 論文の方も天文九年六月六日に陥落したという系図史料その他の説明を全面的に信用しているわけではないにもかかわらず、「天文十二年以前 織田、安城を攻落する」という書き方をしています。少し考えてみて、この書き方には少し首をかしげます。というのは巷間言われている第一次小豆坂合戦が天文十一年八月十日に起こったと言われているからです。

〇新人物往来社刊信長公記 太田牛一著桑田忠親校注より引用(拙稿にて下線部付記)
あづき坂合戦の事
 八月上旬、駿河衆三川の国正田原へ取り出だし、七段に人数を備え候。その折節、三川の内あん城といふ城、織田備後守かゝへられ候ひき、駿河の由原先懸けにて、あづき坂へ人数を出出し候、則ち備後守あん城より矢はぎへ懸け出だし(後略)

〇国会図書館デジタルコレクション 信長記 巻1(東京大学附属図書館所蔵本と同版の第一種本)より引用(拙稿にて下線部付記)
三川國小豆坂合戦事
去程ニ駿河國今川ノ義元ハ尾張國ヲ打随へントテ隣國ノ兵ヲ駈催ノ其勢四萬餘騎、天文十一年八月十日三河國生田原へ打出勢ノ着到を付テ由原ノ某ト云者ヲ足軽大将トノ三州小豆坂ヘ推寄ル處ニ、織田備後守殿僅四千騎ノ勢ヲ卒シ同国安城へ出向ヒ舎弟孫三郎ヲ武者大将トノ敵ノ陣ヘ推向シカハ
(後略)

 牛一信長公記は年次は示さず八月上旬とのみしておりますが、甫庵信長記は天文十一年八月十一日と年次を明らかにしております。そして双方とも合戦があった時点で安城城が織田信秀の勢力下にあり、ここから織田勢が戦場に押し出したことが記されております。
 ただし、論文が「天文十二年以前の安城城陥落」の根拠としている安城市史にはこの二つの記述は紹介していても、「同時代史料にこの年のこの合戦の存在を示すものはない」という言い方もしているのですね。それは単純に天文十七年三月の小豆坂合戦については今川義元などの感状が残っていることに対比させて客観的な事実関係だけを述べているのかもしれませんが、論文が「天文十二年以前の安城城陥落」と書いている以上、天文十一年八月上旬(十日)の小豆坂合戦の存在をも否定しているというべきでしょう。論文が天文十一年八月上旬(十日)の小豆坂合戦を受け入れているなら、「天文十一年八月以前の安城城陥落」という書き方になるはずだからです。

 天文十一年八月上旬までに織田信秀が安城城を手に入れられていないとすれば、甫庵信長記の安城合戦記事は破綻します。
 まず第一に、織田の軍はどうやって小豆坂に軍勢を送ることができたのでしょうか。この時刈谷の水野忠政と岡崎の松平広忠は岳父と婿の間柄であり、孫の竹千代まで生まれておりました。織田信秀が尾張から小豆坂へ兵を送るとすれば、緒川・刈谷を避け、安城を確保したうえで内藤正成が守備している上野城を牽制しつつ岡崎を避け、それでも広忠の一門衆・譜代家臣が蟠踞している矢作川西岸地域を突破しなければなりません。この頃は合歓木松平蔵人信孝も広忠や譜代家臣団とは衝突しておりませんし、織田信秀の姉婿の桜井松平信定を追い落とした家臣衆に協力したのも彼です。矢作川を渡ってもそこには家老の阿部大蔵や大久保一族の領地のある六名・和田郷で、そこを突破してようやく小豆坂にたどり着けるのです。せめて安城城くらいは拠点として持っていないと行軍すらはなはだしい支障をきたすのではないかと思います。

 それ以前の話として天文十一年八月上旬に小豆坂合戦があると、もっとわけがわからなくなるのが駿河勢です。信長公記などを読む限りでは突然小豆坂近くの生田原に集結しているのですね。この時今川家の本拠である駿河の東半国は北条氏康に分捕られています。その分捕られた東半国との境目に接している土地が三河で足軽大将をやっている由原氏(庵原氏)のものだったりするので、対北条戦の最前線を離脱して何しに三河まで来ているの?というつっこみは必至です。一応、遠江国井伊谷の井伊直宗がこの年に田原攻めをして戦死しているなどという話が江戸後期に成立した寛政重修諸家譜に載っていますが、攻められたとされる田原側にはそのような話は残っておりません。
 天文十一年の小豆坂合戦に関わる話の内容の大半は同時代史料で裏打ちされているものではないのです。証拠があれば見直す必要がありますが、今の所決定打は見当たっておりません。
 尚、同年十二月に上野城で織田勢と城兵との戦いがあり、この根拠地として安城城が使われているように読める記事があるのですが、この記事については次稿にて検証いたします。

 では安城城陥落は天文十二年なのかとして、その年にあったとされることを調べてみました。先に述べました通り、その年における織田勢の三河攻勢は記録に残っていません。この年、織田信秀は禁裏修理のスポンサーをしていて、その関心はもっぱら西に向いておりました。

Photo

 まずその年の初めに合歓木松平信孝が正月に駿府に挨拶に行ってそのまま松平家臣団によって放逐されています。そして松平広忠の岳父水野忠政が死に、その嫡男の水野信元が家督相続します。
 平野明夫氏は著書「三河松平一族」において「天文十二年に水野忠政が死去すると、その子信元は政策を転換して、織田氏と結んだ。このため今川家と結ぶ松平氏は、同十二年にお大を離縁した」と書いています。しかし、そこに根拠は示されていません。於大の離縁時期を示す過去史料を探すと、松平記が「公の童名竹千代殿と申す、御母儀竹千代殿三歳のとき廣忠離別を成、刈屋へ歸し給ふ」と伝えているという記事を朝野旧聞ほう藁が書いています。竹千代こと徳川家康の生年は天文十一年十二月十二月二十六日ですから、竹千代三歳と言えば当時は数え年で年齢を数えますので、天文十三年ということになります。(WikiPediaは天文十四年のこととしていますが、これは恐らく竹千代三歳を満年齢で解釈したための誤りでしょう。)以上の点から天文十二年時点で水野氏は織田方についたとは必ずしも言えません。

 あと、安城市史5資料編 古代・中世は編年体で史料を並べているのですが、天文十二年の項に「秋以前、松平一族と家臣団に分裂が起こる。松平信孝は織田方に属し、三木・岡の両城に拠る」とあるのですが、ここで紹介されている「四九八 松平記巻一」、「四九九 岡崎領主古記」、「五〇〇 岡崎東泉記」にはいつ起こったことなのかは明示されていません。ただ、秋ごろに松平広忠の家臣たちが信孝の領地の三木を攻めたことから、安城市史はすぐに信孝は岡に移ったとしているわけです。しかし、天文十二年に松平信孝が岡の城に移ったとする史料はどこにもありません。
 松平記の記述では岡の城は上和田の松平三左衛門忠倫の砦とペアで語られており、この記述に従うと天文十二年の時点で上和田も織田の手に落ちていたことになるのですが、翌年閏十一月には阿部大蔵がこの状況で尾張表まで出陣し、宗牧は大浜から岡崎に無事通行できいます。その翌年(天文十四年)には松平勢と織田勢が矢作川を渡って清縄手で合戦をしていて、これらの記録に松平三左衛門の上和田砦は出てきておりません。機能していなかったというよりも、存在していなかったと解すべきでしょう。岡砦は安城城の目と鼻の先、本多忠豊の慰霊碑のある清縄手からもほど近いのですが、本多忠豊の死に纏わる伝承を調べても(別稿にて提示します)岡砦は出てきません。
 以上の根拠から天文十二年の秋の段階では、上和田砦も、岡砦も完成していなかったと見るべきであり、この時の合戦で三木城も陥落していますので松平信孝は牢人として駿河と尾張の間を流浪していたとみております。

 結論として、織田信秀による安城城攻落の年限を天文十二年以前とする根拠は存在しないと私は考えます。

|

« 川戦:安城合戦編Ⅱ 第6節の論点抽出:仮説は史実に矛盾していないだろうか? | トップページ | 川戦:安城合戦編Ⅱ 6-1 ②天文十二年以前:安城城陥落(内藤正成譜の上野城合戦記事) »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/164985/65654707

この記事へのトラックバック一覧です: 川戦:安城合戦編Ⅱ 6-1 ①天文十二年以前:安城城陥落(第一次小豆坂合戦):

« 川戦:安城合戦編Ⅱ 第6節の論点抽出:仮説は史実に矛盾していないだろうか? | トップページ | 川戦:安城合戦編Ⅱ 6-1 ②天文十二年以前:安城城陥落(内藤正成譜の上野城合戦記事) »