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2017年9月 2日 (土)

川戦:安城合戦編Ⅱ 6-2 天文十三年:井ノ口合戦と阿部大蔵の尾張表進出

 論文は、「天文十三年九月の美濃における織田信秀大敗は西三河に影響し、岡崎城主松平広忠による織田への反転攻勢を生じた。」とだけ記しております。

 その内容については過去に当ブログ「川の戦国史」の記事で詳しくやりましたので、詳しくはブログ記事ご参照ください。

 川戦:風雲編⑩天文十三年Ⅱ

 上記論文の内容は以下の史料を追いかけることで大体のことが判ります。

天文十三年九月二十三日付安心軒、瓦礫軒宛斉藤左近大夫利政書状写
天文十三年九月二十五日付水野十郎左衛門宛長井秀元書状写
天文十三年閏十一月十一日付水野十郎左衛門尉宛織田信秀書状
東国紀行閏十一月記述

 斎藤道三が美濃井ノ口(稲葉山城)の合戦で織田信秀の軍を破りました。斎藤道三は濃尾国境の反対側、尾三国境の勢力を動かすことでより大きな戦利を得ようと水野十郎左衛門尉(ブログ記事では水野信元に比定)に同心を求めて手紙を送り、それを松平広忠にも見せて尾張攻めを促します。しかし、水野十郎左衛門尉はその書状を松平広忠には見せず、織田信秀に送ることで旗幟を鮮明にしました。ちなみに、この年は松平家と水野家が手切れをし、松平広忠に嫁していた於大の方が離縁されて刈谷に送り返された事件のあった「竹千代殿御三歳の時(松平記)」にあたります。
 それとほぼ同時期に連歌師の宗牧が関東下向の旅に出かけておりました。彼は勅使を兼ねており、織田信秀に女房奉書を渡したばかりでした。次の配達先は岡崎の松平広忠なのでそこに向かおうとしたところ、常滑の水野監物から尾三国境で合戦が起こっているとの噂を聞き、注意するよう促されます。宗牧一行が岡崎に着いてみると、家老の阿部大蔵は留守で、兵を仕立てて尾張表に出陣した旨を聞いたのでした。

 論文では天文十二年までに安城城は織田の手に渡っていたと述べていました。それを前提として、阿部大蔵はいかなる手段で尾張表まで進出したかについて考えてみます。

 本稿ではより判りやすく地図をつくってみました。

 
Photo_2

 攻撃目標ですが、まず第一に考えられるのが、尾三国境の鎌倉街道沿いにある沓掛です。桶狭間合戦の前日に今川義元がここに入りましたが、鎌倉街道沿いにそのまままっすぐ進めば熱田・那古野に通じます。もう一つが水野氏の本拠地である刈屋・緒川です。両方の町は尾三国境を形成する境川の対岸にあり、まさに三河から見た尾張への入り口と言ってよい土地です。また、松平氏と手切れをして織田方についた者への報復としてはふさわしいものでありましょう。

【西ルート】
 岡崎から安城を抜け、池鯉鮒を突破してから沓掛または刈屋・緒川に至るルートです。このルートを取るためにはまず、織田家の手に落ちた安城を抜ける必要があります。そこを抜けて鎌倉街道を進むと最初に見える拠点が、池鯉鮒です。そこは永見氏の根拠地ですが、この時までに水野氏の傘下に入っておりました。
そこを突破してはじめて沓掛あるいは刈屋に至ることが出来るわけなのですが、安城・池鯉鮒の両城を蹂躙しないと退路を断たれる恐れがありますので、現実的ではありません。別名脳筋ルートです。

【北ルート】
 岡崎から矢作川を北上し上野城経由で挙母近辺を迂回したうえで沓掛に迫るルートです。西ルートに比べれば比較的安心できそうな感じではありますが、途中にある上野城の城主は桜井松平家次です。彼の祖父は桜井松平信定で、広忠の帰還によって失脚した親織田一門衆の重鎮でした。桜井松平家次はこの後、広忠に反旗を翻して蟄居させられ、三州一向一揆で松平元康(徳川家康)を敵に回して追放される憂き目にあいます。なので彼は潜在的反岡崎松平勢力の一角です。
 挙母を拠点にしているのは中条氏で、もともと室町幕府の奉公衆を務めた名族だったのですが、戦国時代に没落。その勢力の大半を三河の山岳地帯にある足助を拠点とした鈴木氏に吸い取られている状況です。松平清康の勢力が強かった時代には中条・鈴木両氏にゆかりのある猿投神社が清康に焼かれるなど、岡崎松平氏は彼らに恨みを持たれておりました。なので、挙母領を通過して尾張に進むルートは後背をつかれるリスクを覚悟しなければなりませんので、このルートも危険です。別名面従腹背ルートです。

【南ルート】
 岡崎から南下して安城の防衛圏を避けつつ油ヶ淵北岸から海岸線に沿って北上し、刈屋・緒川に至るルートです。途中までは宗牧が岡崎に入ったルートと同じなので安全であるかもしれませんが、逆に途中兵站線も含めて宗牧一行とかち合わなかったのが不自然です。水野監物から合戦の危険を聞かされていたのですから、そちらのルートを通ったのであれば宗牧も何らかの形跡を察知してそれを記録に残したのではないでしょうか。

 以上の論拠を以って天文十三年に安城城が織田家の手に落ちていなかったと考えます。安城城は松平広忠の属城として健在であり、阿部大蔵は鎌倉街道沿いに進軍して水野氏に属する池鯉鮒を脅かしたのが尾張表進出の実態であったと思料致します。

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