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2017年9月 9日 (土)

川戦:安城合戦編Ⅱ 6-3 ②天文十四年:安城清縄手の戦い(常山紀談~譜牒余録)

 本稿では前稿にひきつづき、安城清縄手の戦いの描写変遷を追いかけてゆきます。

〇柳営秘鑑(1743年(寛保三年)成立 WikiPedia 柳営秘鑑より引用)(拙稿にて下線部付記)
一、扇の御馬印ハ五本骨ニ而親骨の方を竿付尓して被為持。元来、本多平八郎忠高所持之持物尓て数度の戦功顕し。天文十八年(1549年)安祥城責の時、一番乗りして討死之後、其子中書忠勝相伝、用之処、文禄二年(1594年)大神君御所望有て、御当家随一の御馬印ニ被成置。

 幕府が貞享書上の為の呈譜をまとめてから五十九年後に幕臣の菊池弥門が柳営秘鑑という幕府の為の有職故実をまとめた書物を書き上げます。単に内規や格式だけを記すだけではなく、扇の馬印の由来など雑学的な内容もふくまれていて、そこに本多忠豊の子、忠高の事績が述べられています。そこには城に一番乗りして討死という表現になっていますが、難波戦記が「先登ノ武威ヲ振」という表現を「まっさきに城に攻め入ること」から「城に一番乗りすること」と解釈をふくらませ、後に続く前嶋伝次の矢で死んだセンテンスを省いています。

〇常山紀談(1770年(明和七年)成立 WikiPedia 柳営秘鑑より引用)(拙稿にて下線部付記)
金の七本骨の扇の御馬印の事/東照宮、金の七本骨の扇に日丸(ひのまる)附けたる馬印は、参河の設楽郡(注;宝飯郡の誤り)牛窪の牧野半右衛門が印なりしを、永禄六年(1563年)に乞ひ得させられて馬印となし給ふ。夫より前の御印は厭離穢土欣求浄土の八字を書きたるにて、大樹寺の登誉が筆なり。其印明暦丁酉の火災にかかれりと言へり。然れども扇の御印は其前よりの事にや。天文十四年(1545年),公矢矧川にて織田家と軍ありし時、利無くて危かりしに、本多吉右衛門忠豊、疾く岡崎に入らせ給へ。御馬印を賜はり討死すべし、と申せ共許されず。扇の御馬印を取て清田畷にて討死しける。其隙に危きを逓れ給へり。御印は忠豊が嫡子平八郎忠高が家に相伝へ、忠高も又戦死しける。其子忠勝が時に至りて、永禄二年(1559年)東照宮乞ひ返させ給ひたりと云へり。

 常山紀談の成立は十八世紀も後半に入った1770年(明和七年)のことで、柳営秘鑑の二十七年後になります。著者は岡山藩士の湯浅常山で、荻生徂徠に学んだ古文辞学者でした。その割には先人の家譜に大胆なアレンジメントが加えられているようにも思います。
 ここで忠豊の死にざまが大きく変化します。それまでは「先登」という言葉だけあって攻城戦なのか守城戦なのかもはっきりしなかったのですが、これがいずれでもなく退却戦の話に変わってしまいます。意外性ある変化です。しかも、ここではじめて「清田畷」なる地名が現れるのですね。その反面、難波戦記・柳営秘鑑から現れた天文十八年の安城合戦における本多忠高の活躍は無くなって、いつのことなのか、どこなのかわからない戦場で死んだことになりました。寛永諸家系図伝では少なくとも安祥縄手で死んだことは記されていたのですが、ずいぶんな後退です。

〇譜諜余禄 前編巻三十二・本多下野守(1799年(寛政十一年)成立 安城市史5資料編より引用)(拙稿にて下線部付記)
忠豊 平八郎、後改吉左衛門
清康君、広忠ニ奉仕、度々ノ軍功有、天文十四年広忠卿織田弾正忠カ兵籠ル処ノ三州安祥城ヲ囲攻玉フ、忠豊先陣トシ先登ニ進ミ奮撃ツ、于時弾正忠後詰トシ多勢ヲ発ス、城兵是ニ機ヲ得テ打出ル、広忠卿前後ノ敵ニアタリ既ニ危ク見へ給フニヨリ、忠豊申上ゲルハ、先此度ハ如何ニモシ御退キ有、重重テ御本意遂ラルヘシ、サレ共容易クハ退キ玉フ事難シ、御馬印ヲ賜ラハ、爰ニテ忠豊撃死仕ラン、其内ニ退セ玉へト申ケレハ、爰ニテ広忠卿、汝等ヲ棄退ン事思ヒヨラスト、仰ケル、忠豊頻ニ御諫申上、扇ノ馬験ヲ申受ケ、安祥縄手ニテ戦死シ、広忠卿恙ナク引取玉フ
扇ノ馬験ハ忠豊嫡子平八郎忠高ニ伝ヘテ、指物トス、忠高子中務大輔忠勝、是ヲ伝フ、文禄二年、大神君ノ仰ニ因テ忠勝扇指物ヲ献上シケリ

 譜諜余禄は1799年(寛政十一年)の成立で常山紀談の二十九年後のことになります。忠豊の最期については清縄手、清田畷等の表記はないものの、ストーリー立ては常山紀談のそれにならってより細に入った記述ぶりになっています。常山紀談からの記述ですが、扇の馬印を忠豊は寛永譜では清康から賜ったことになっていますが、ここでは広忠が戦場から脱出するための囮に使うために借りたものとして馬印が使われております。劇的であるには違いありませんが、寛永諸家系図伝の記述と比較すれば明らかに改変が加えられていると断ぜざるをえません。

以上の状況を顧みて、論文が言う所の「安城清縄手の戦いは、のちに岡崎藩主となった本多家などに十七世紀に伝えられたものである。同時代史料によって確認できないが、本多忠豊が戦死した戦いとして合戦場所等詳しく伝承されている。前後の状況からすれば、特に疑う理由もなかろう」という指摘に対しては、十八世紀後半に入ってから本多忠豊譜に施された史実改編の動機と根拠が不明な状況では後世に残る詳細な伝承については、残念ながら疑義を呈さざるをえません。

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