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2017年9月 3日 (日)

川戦:安城合戦編Ⅱ 6-3 ①天文十四年:安城清縄手の戦い(寛永諸家系図伝~貞享書上)

 論文において天文十四年四月に起こった安城清縄手の戦いについて、以下のようなコメントをされております。
〇論文より引用
 安城清縄手の戦いは、のちに岡崎藩主となった本多家などに十七世紀に伝えられたものである。同時代史料によって確認できないが、本多忠豊が戦死した戦いとして合戦場所等詳しく伝承されている。前後の状況からすれば、特に疑う理由もなかろう。

 清縄手合戦の通説的内容については、Wikipediaの安城合戦記事の中の第二次安城合戦という項の中に書かれていますが、かいつまんで述べると天文九年に奪われた安城城を取り戻すべく松平広忠が安城城に向け進発したものの逆に包囲されかけたので本多忠豊を殿軍にして撤退した合戦でした。本多忠豊は本多忠勝の祖父で清縄手という場所で戦死しております。私としてはここまで前後の状況について疑義を呈してきましたので、論文のコメントのみでは納得できませんので、考察を加えたいと思います。とりあえず私が調べた範囲では、論文が言う所の「詳しく伝承されている」内容は十八世紀以前に遡れないものでした。

〇松平記(1596-1615年(慶長年間)成立 安城市史5 資料編 古代・中世より引用)(拙稿にて下線部付記)
一蔵人殿御討死有しかハ、三河衆大かた御手に入ける、明年天文十八年、駿河今川殿仰るハ、何こそ安定の城を攻落し、三河一国平均に治めらるへしとて、雪斎和尚大将にて安定を攻らるゝ、岡の城をは早々に明渡し、安定には織田三郎五郎殿籠りしに、先手は岡崎衆大久保新八・阿部大蔵・本多平八郎を初として三百にて出す。
(中略)
二丸、三丸を岡崎衆破る、爰にて榊原藤兵衛・本多平八郎討死しける。

 本稿では本多忠豊だけではなく、その子息である忠高の死の描写も見てまいります。まず最初に慶長年間に成立した松平記ですが、ここには本多忠豊の死亡記事はなく、本多忠高の討死についてが書かれています。本多忠高は天文十八年の安城合戦(Wikipedia記事が言う所の第三次安城合戦)で戦死するわけですが、ここには後の史料には必ずでてくる扇の指物の話は含まれません。二の丸・三の丸を破る過程で本多忠高は死んだ旨が簡単に記されているだけです。

〇寛永諸家系図伝 (1643年(寛永二十年)成立 安城市史5資料編 古代・中世より引用)(拙稿にて下線部付記)
藤原氏兼道流本多忠豊譜
忠豊
 平八郎 吉左衛門
清康君につかふまつる。清康君扇の指物を忠豊にたまわりて屡軍功をはげます。
天文十四年、参州安祥縄手にをひて先登したゝかひ死す。

〇寛永諸家系図伝 (1643年(寛永二十年)成立 国立公文書館デジタルアーカイブより引用)(拙稿にて下線部付記)
藤原氏兼道流本多忠高譜
忠高
平八郎 扇のさし物を相伝す
廣忠卿につかふまつる
三州安祥縄手にて討死す

〇寛永諸家系図伝 (1643年(寛永二十年)成立 国立公文書館デジタルアーカイブより引用)
藤原氏兼道流本多忠勝譜
忠勝
 平八郎 中務大輔

(文禄二年の項:最終段落)
大権現ののたまわく扇乃さしものハ
当家の吉例なりこれを献じ
奉りたるわすなわち長井与次郎
をもつてこれをたてまつる

 十七世紀に伝えられる本多忠豊の事績記録で一番古いものが寛永諸家系図伝でした。ここでは安祥縄手であり、清縄手とは呼ばれておりません。また、この合戦が攻城戦であるのか、守城戦であるかも書かれていません。「先登」という言葉に敵城に真っ先に乗り込むことという意味もありますので、攻城戦と言えなくもないのですが、乗り込む先は城とは限らず敵陣に突っ込む場合も「先登」の言葉が使われますので、いずれとも判じ難いです。忠高は天文十八年の安城合戦ではなくいつ亡くなったのか記述が無くなり、ただ安城縄手にて討死すとだけ書かれています。

〇難波戦記巻第二十六(1672年(寛文十二年成立 国立公文書館デジタルアーカイブより引用)(拙稿にて下線部付記)
 御旗本合戦付扇子御指物之事
(中略)
庄田左衛門、朝倉藤十郎御旗奉行タリ大馬印ハ金ノ扇子七本骨
(中略)
抑此扇子ノ馬印ハ御当家御代々ノ御指物タリシカ、天文年中に御祖父清康公ノ御時、本多吉左衛門忠豊其比ハ未ダ平八郎ト云ケルカ清康公ヨリ件ノ扇子ノ指物ヲ玉ハリ度々ノ勇ヲ顕シケル天文十四年三州安祥縄手合戦ノ時、忠豊先登シテ討死シケレハ、其子平八郎忠高又扇子ノ指物ヲ相伝フ忠高ハ清康公ノ御子廣忠公ニ奉仕ス然ルニ天文十八年三月六日ニ廣忠公逝去アリ、
(中略)
三月十九日ニ義元ノ首将臨済寺ノ雪斎長老・朝比奈備中守泰能ヲ大将トシテ駿河・遠江・三河ノ軍等安祥攻ラルゝニ
(中略)
時ニ本多平八郎忠高先登ノ武威ヲ振、終ニ前嶋伝次ガ矢ニ中テ死ス、その子本多平八郎(中務大輔)忠勝其比ハ幼稚ニテ平八郎ト云ケルガ父ガ家督ヲ継、扇子ノ指物取伝ユ

(中略)
其後関ケ原一戦皆此指物シ武勇ヲ顕シケレバ、大御所件ノ指物ハ本是当家ノ相伝ニテ殊に忠勝勇ヲ顕シ人能ク見知リタレバ、上返スヘシト上意ニテ進覧シケルトゾ聞コエシ

 難波戦記は寛永諸家系図伝から二十九年後に万年頼方、二階堂行憲が著した大坂夏の陣、冬の陣を題材にした戦記物です。万年頼方は京都所司代板倉家の門客で、二階堂行憲は下野国壬生藩主阿部忠秋の家臣でいずれも大名に仕える身分であったようです。戦記物らしく色々脚色は加わっておりますが、忠豊の討死についての描写について、「先登」は「先登」のまま記述して大きな改変はしていません。忠高の方は松平記の表記を踏まえ、彼の死を天文十八年三月十九日の合戦とし、「先登ノ武威ヲ振」るって矢に当たって死ぬことになっています。矢に当たるということは城壁前に突出したところを射抜かれたという感じでしょうか。忠高の死地として設定した天文十八年の安城合戦は城攻めではあるのですが、松平記が「先手」の一人として大久保忠俊・阿部定吉らとともに出てきた忠高は「先登ノ武威ヲ振」るった者として難波戦記ではクローズアップされるという脚色が施されております。

〇貞享書上(1684年(貞享元年)成立 現存せず)

 万年頼方・二階堂行憲らが難波戦記を書き上げた十二年後に江戸幕府が国勢調査を行います。すなわち、大名・旗本をはじめ、浪人・御用達の諸家に命じてそれぞれの家譜を献上させたのでした。幕府はそれらを武徳大成記などの編纂に利用しました。元資料として集めた呈譜は江戸城内の紅葉山文庫に保管・管理されていたのですが、1873年(明治六年)の皇居火災にて消失したとのことです。なので、論文の安祥清縄手の戦いが「本多家などに十七世紀に伝えられたもの」であるとすれば、ここに書かれることが最後のチャンスのはずなのですが、現代の我々にそれを確認する手段はありません。

 十七世紀中の「安城清縄手の戦い」の表現だけでもかように揺れ動いております。そして、この時点においても、天文十四年の安城合戦が攻城戦か守城戦かは「先登」という単語の解釈にのみ依拠していますし、「清縄手の戦い」という名前すら出ておりません。これが「本多忠豊が戦死した戦いとして合戦場所等詳しく伝承されて」いくまでにいかなるプロセスを経てゆくのか次稿で引き続き見てまいります。

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