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2017年9月10日 (日)

川戦:安城合戦編Ⅱ 6-4 天文十五年:今川軍の今橋攻め(十一月~翌六月の間)

 今川軍の今橋城攻めについて論文は、今橋攻めが松平広忠に与えた影響に焦点を当てて考察しております。論文によると、天文十五年十一月以降の時期は松平広忠にとって今川という援軍が三河国にやって来た、反撃のチャンスだったとのこと。しかし、この時期広忠が安城を破ったという記録はない。それがすなわち、「安城は要害、即時二破らる(安城の要害に拠った織田軍が攻め寄せる松平軍を破った)」状況だったと言います。

 私自身としては安城陥落は天文十二年以前ではなく、天文十四年の安城合戦で起きたのだという説があるならそれに惹かれます。それを前提とすれば論文が言う天文十五年以降における松平家による反撃の可能性も同意しうるものです。
 天文十四年の時点で水野氏は織田信秀方についていました。前年には恐らく「尾張表」に進出してきた阿部大蔵率いる軍と対峙していたのは水野氏だったと思われ、その報復を考えざるを得ないでしょう。織田信秀もその年の美濃での合戦で敗北しており、頼み勢による動員体制を維持する為には目に見えた戦果が必要になります。もしこの時までに安城城が松平方で維持されていたなら、池鯉鮒より鎌倉街道をまっすぐ東南に向かえば突き当たる安城城は格好の目標になります。織田信秀も水野領の通過に遠慮をする必要もなくなりますので兵站は極めて楽になり、退路を断たれる心配をする必要もなくなったはずです。
 しかし、残念ながら天文十四年安城落城説を示す史料は私自身見つけられていませんし、論文の北条氏康書状内の「安城は要害、即時二破らる」についての論文解釈(安城の要害に拠った織田軍が攻め寄せる松平軍を破った)には異議がありますので、天文十四年落城説という形であっても私自身はそちらの説にも踏み出しにくいです。

 論文は天文十五年の松平広忠の攻勢を示唆していますが、それを示す史料は通説も含めて見当たりません。今川の援軍に勢いを得た松平勢の反攻となると通説では天文十六年の渡河原合戦がそれにあたるわけですが、日覚書状が書かれた時点で岡崎は弾に降伏していたという解釈を論文はとっています。渡河原合戦は一次史料での確認が取れないという部分もあるのですが、これを反攻の事例とするのは論文の趣旨との整合性が取れません。逆に日覚書状は岡崎降伏を示していないという解釈をとるならば、論文が言う岡崎の攻勢を渡河原合戦に比定してもよいということになります。いずれにせよ天文十五年の岡崎攻勢は根拠不足でしょう。

 以下は余談になります。
 今川軍の今橋城攻めについては新編岡崎市史での新行紀一氏、三河松平一族で平野明夫氏が今川軍の今橋攻めにおける松平広忠の参陣の可能性について触れていて、興味深い指摘をしております。松平広忠参陣したとの根拠は岡崎領主古記に以下記述があると新編岡崎市史で新行紀一氏が述べております。

〇松平記 新編岡崎市史2 中世より引用(拙稿にて下線部付記)
一、天文十五丙午年、今橋に戸田金七郎在城ス
一、同年十月駿河勢ト岡崎勢ト今橋へ押寄合戦ス、此時石川式部、酒井将監、阿部大蔵吉田ニ働キ落城ス
但し其次ニ小原肥前守(鎮実)居之

 当該記事では、岡崎松平家家臣の石川式部、酒井将監、阿部大蔵が参陣して吉田(今橋)城を攻落させています。十月中に落城させているように読めますが、論文上では完全制圧には翌年までかかっているとのことらしい。当該記事は同時代史料ではありませんし、江戸期に成立した史料なので、この記載のみで妥当かどうかどうかを判断するのは厳しいです。但し、この時安城城が織田勢の手に落ちていようといまいと、松平勢が岡崎を離れ、軍を率いて今橋に参陣することはかなり難しいことだったに違いないと想像いたします。
 というのは、今川義元が天文十五年に今橋城攻めをする直前、東三河の長澤松平氏が今川家の敵に回っていることを牧野康成が言及している書状が残っているからです。この書状は「家康研究の最前線 ここまでわかった「東照神君」の実像」という本の平野明夫氏の記事で紹介されていました。

〇牧野康成条目写 愛知県史 資料編10より引用

 牧野氏と戸田氏は戦国期を通じて今橋(吉田)の領有をめぐって相争っておりました。戸田氏は最初は二連木に拠点を設けていたのですが、より海岸線に近い今橋に牧野氏が進出してきたのです。天文年中に戸田氏の領有する所になったのですが、その今橋を今度は今川義元が攻めることになった時に牧野康成は今川方につくことになりました。その為の条件を出してきたのが上記書状です。
 この書状で言及されている両所とは十一月二十五日付で署名している遠江朝比奈氏の朝比奈泰能、駿河朝比奈氏の朝比奈親徳、太原崇孚の三名の内の二人を指すと思われます。
 牧野康成は天文十五年九月以前に同じような内容の書状を今川義元に出してすでに確約を得ております。その折に牧野康成から今川義元への取次を行ったのが合歓木松平信孝と安心軒の二名です。安心軒はこの時代この地方の書状に時々顔を出している人物で、これ以前に斎藤道三の依頼で水野氏と松平氏との連携を実現し織田家に対抗させる為の使者の役目を負ったり、織田信秀から遠江の飯尾豊後守連達宛の書状を密かに鵜殿長持に見せたりしていて、必ずしも織田信秀に意向に沿った行動をするとは限らない人物です。合歓木松平信孝は天文十二年に岡崎松平家臣団から放逐されて以降、織田信秀の命令で岡(山崎)に砦を作るまでの行動が不明な人物です。岡(山崎)砦築城の前提となる安城攻落が天文十六年であれば、今川義元とのコネクションを活かして牧野氏の書状を取り次いだとしてもおかしくはありません。松平信孝にとって牧野氏が敵対する戸田氏は自分が追放された後に岡崎松平家へ嫁に出した家ですから、信孝が牧野氏に肩入れしたことは十分あり得ます。
 その牧野康成の言い分として長澤松平氏が今川氏に敵対して下条、和田、千両、大崎、佐脇、六角の各郷村が長澤松平氏に味方したとしているのです。これは単純に牧野康成が長澤松平氏だけではなく、周辺諸郷に攻め入る口実を得たいだけだったかもしれません。両朝比奈並びに太原崇孚は牧野康成の追加要望ははねつけましたが、少なくとも長澤松平氏については、牧野康成が敵対することを今川義元の同意のもとで追認しております。長澤松平氏の所領は岡崎から今橋に至る鎌倉街道の三河山地の出口部分の狭隘地にあります。長澤が紛争地域であったとすれば、岡崎から今橋へ兵を通すのは至難であったと言えるでしょう。

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 当該資料を「家康研究の最前線 ここまでわかった「東照神君」の実像」にて紹介した平野明夫氏の見解は上記とは異なっていて松平信孝を通して今川家と織田家の連携が図られており、今川は戸田を、織田は松平を攻める合意があった前提でこの史料を読み解いております。その解釈はあり得ないわけではありませんが、その場合今川氏が予測していなかった田原戸田氏の離反の動機が今一つ見えてきません。
 論文の見解を含め、失敗すれば今川軍に滅ぼされるとわかっているにもかかわらず、なぜ田原戸田康光は今川勢に攻め入ったのか。論文並びに平野新説においてはその部分の説明が不十分であるように思えます。

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