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2017年9月16日 (土)

6-5 ①天文十六年七月:医王山砦落成

 今川軍が今橋を攻めた翌年、今川義元は天野景泰に命じて医王山砦を建てさせました。三河の国の中央部は北部の美濃・信濃国境から南部の臨海部までを三河山地と呼ばれる山岳地帯が占めています。そこを南東から北西にかけて鎌倉街道が貫いています。現在概ね国道一号線が通っているあたりです。そこに並行して東名高速道路も走っているわけですが、現代においても道の両側は山岳地帯が広がっていて整備された街道以外に軍勢を通す道は考えにくい地勢です。三河山地を貫く鎌倉街道の西三河側にやや寄ったあたりに作られたのが医王山砦でした。鎌倉街道は今橋と岡崎(厳密にいうと松平広忠の父清康が岡崎の城を乙川北岸に移したため、街道に直接繋がっているわけではありません)をダイレクトに結んでおります。その中継点の難所である山岳地帯の要所に天野景泰は砦を築いたのでした。
 田中芳樹氏の小説「銀河英雄伝説」になぞらえるなら、イゼルローン回廊の中に作られたイゼルローン要塞のようなものです。

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 そのイゼルローン要塞ならぬ医王山砦の落成を聞いた今川義元は大変喜んで天野景泰宛に自ら三河に出陣する旨を伝えております。しかし、今川義元の出陣は実現しませんでした。不測の事態が生じたのです。論文の論考においては、その不測の事態を九月の織田信秀による岡崎攻撃としていますが、それよりも一か月早い八月に何かが起こっております。
 それを指し示す史料を以下に提示します。

〇一六二七 今川義元判物写 松平奥平家古文書写(愛知県史資料編10より引用)(拙稿にて下線部付記)
参河国山中新知行之事
右、医王山取出割(刻カ)、就可抽忠節、
以先判充行之上、当国東西鉾楯雖有時宜変化之儀、
彼地之事、永不可有相違也、
弥可専勲功状如件、

 天文十六             
  八月廿五日            今川義元也 治部大輔 判
    作手仙千代殿(奥平定能)
    藤河久兵衛殿(奥平貞友)

 これは作手(亀山)の奥平氏の当主の息子仙千代(後の奥平定能)と仙千代の叔父にあたる藤河久兵衛(奥平貞友)が今川義元から山中、つまり医王山砦のある場所を知行地として充てがわれたことが書かれた書状です。いつもながらの素人解釈で恐縮ですが、以下に読み下しを記します。

(読み下し)
参河国山中新知行の事
右、医王山砦の時、忠節抜きんでるべきに就き、
先の判を以ってこれを充てがう上に、
当国は東西鉾盾、時宜の変化の儀有りと雖も、
彼の地の事、永く相違あるべからざるなり。
いよいよ勲功専らとすべき状、件の如し

 WikiPediaの奥平定能の項には以下のような説明が付されています

〇奥平定能の項 Wikipediaより引用
定能の史料上の初見は天文16年(1547年)8月25日付今川義元判物写で、
幼名仙千代を称していた定能は叔父・藤河久兵衛尉とともに医王山砦を
攻略した恩賞として、山中に知行を与えられている。

 おそらく上記書状は天文十六年七月八日付天野景泰宛今川義元書状と対で解釈すべきものでしょう。七月時点で今川方の砦として建設されていますので、これを攻略する必然性はありません。もっとも、天野景泰らが医王山砦を奥平氏とともに敵方から奪い、その時の恩賞である可能性はないわけではありません。いずれにせよ、医王山砦の守備兵力として奥平仙千代と貞友が動員されているのは事実であり、この書状はその役務の対価として山中に新知行が宛がわれたとみるべき書状です。しかし、この史料は以下の確認すべきポイントがあります。

>先の判を以ってこれを充てがう
>時宜の変化の儀有りと雖も、彼の地の事、永く相違あるべからざるなり。

 この二つの文言は天文十六年八月二十七日付書状以前に山中の新知行は作手仙千代と藤河久兵衛に宛がわれていて、当該書状で何があっても今川義元は二人のこの土地の知行権を保証する旨記しているわけです。いわばこの書状は一度発給された安堵状の内容をさらに保証するものなのですね。

 この書状は先に出した恩賞の再確認ということになります。ではなぜ、そんなものが必要なのでしょうか。答えは『東西鉾盾』、『時宜変化之儀』が現実に出来したからでした。

 その結果何が起きているかは次の書状がしめしています。

〇 一六五四 今川義元判物写(愛知県史資料編10より引用)(拙稿にて下線部付記)
去年息子千々代・同盟親族等依忠節、新地山中郷充行分
(但此内百五十貫文、竹尾平左衛門割分除之)、本知行
幷遠江国高部給分、弟日近久兵衛尉知行分、同去年配当
形之原文等の事
右、依今度久兵衛尉謀反現形、最前ニ馳来于吉田、子細
申分、則実子千々代為人質出置、
抽忠節上、抛先非如
前々処充行之也、弥可専忠信之状、仍如件
  天文十七戊申年正月二十六日
               (今川義元)
          (定勝)    治部大輔 判
         奥平監物丞殿

 今川義元の新知行宛行と安堵にもかかわらず藤河久兵衛(奥平貞友)が今川に謀反を働いた結果、作手仙千代(奥平定能)は人質として吉田に送られることになりました。仙千代の父、奥平監物(定勝)が吉田(今橋)に赴いて詫びを入れた結果、息子の命と新知行は安堵されたということです。では、天文十六年八月二十七日以前に起こった『東西鉾盾』、『時宜変化之儀』とは何なのかについて、次稿で考察を進めてまいります。

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