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2017年9月23日 (土)

川戦:安城合戦編Ⅱ 6-5 ③某年八月上旬:第一次小豆坂合戦

 ここで某年八月上旬の『第一次小豆坂合戦』がどのような経緯ですすんだのかみてみます。

〇信長公記 あづき坂合戦の事 新人物往来社 新訂信長公記より引用(拙稿にて下線部付記)
 八月上旬、駿河衆、三川の国正田原へ取り出だし、七段に人数を備へ候。
其の折節、三川の内、あん城と云ふ城、織田傭後守かゝへられ侯ひき。
駿河の由原先懸けにて、あづき坂へ人数を出だし侯。則ち備後守あん城より
矢はぎへ懸け出で、あづき坂にて傭後殿御舎弟衆与二郎殿・孫三郎殿・
四郎次郎殿を初めとして、既に一戦に取り結び相戦ふ。其の時よき働きせし衆、
織田備後守・織田与二郎殿・織田孫三郎殿・織田四郎次郎殿、織田造酒丞殿、
是れは鎗きず被られ、内藤勝介、是れは、よき武者討ちとり高名。
那古野弥五郎、清洲衆にて侯、討死侯なり。下方左近・佐々隼人正・佐々孫介・
中野又兵衛・赤川彦右衛門・神戸市左衛門・永田次郎右衛門・山口左馬助、
三度四度かゝり合ひゝゝ、折しきて、各手柄と云ふ事限りなし。
前後きびしき様体是れなり。爰にて那古野弥五郎が頸は由原討ち取るなり。
是れより駿河衆人数打ち納れ侯なり。

 信長公記では今川軍はいきなり正田原(生田原)まで進出してきたことになっています。中世の東三河から西三河へ向かうルートは三河山地の山中の手前で分岐があってそこを北に行くと乙川にでて、そこを渡ると織田方の松平信孝が建てた大平砦があり、そこから乙川北岸沿いにまっすぐ進めば岡崎にたどり着くことが出来ます。もう一つが山中から藤川に向かって進むルートです。ここにも同じく織田方の作岡砦があり、そこを超えると正田原(生田原)に達します。そこから乙川南岸沿いのルートと小豆坂へのルートに分岐するわけですね。今川方が医王山(山中)砦を作る前に織田方が建てた作岡砦は、東方から西進してくる今川勢の侵入を阻む位置にあります。

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 今川軍は正田原(生田原)に「取り出だし」とあるので、ここに砦を築いてしまっているようです。仮説に従い天文十六年の出来事とみるとこれは理にかなった行動だと思います。まず、行軍を楽に進めるには整備された街道沿いがベターであることは言うまでもありません。今川軍は鎌倉街道沿いに進軍したとみて差し支えないでしょう。その途上にある作岡砦は以降も言及がないので突破されたものと思われます。さらに進んで正田原に砦を築くわけですが、そこから乙川沿いに明大寺へ向かおうとした場合、丘陵と川に挟まれた切所が途中に数か所あり、大軍の移動に向きません。逆に正田原の砦に少数の兵を置いて街道の出口をふさいでしまえば、北方から押し出してくる敵勢への備えとしては十分です。正田原砦から小豆坂の丘陵地を超えれば、上和田まで平野が開けていますので、そちらに進もうとした所を咎めたのが安城にいた織田勢ということでしょう。

 天文十一年説ではその織田勢は上和田の大久保や六名の阿部などの領地を突破しないと小豆坂へ到達できません。しかし、天文十三年に阿部大蔵は自らの手勢を率いて尾張表に出陣したのですから、阿部大蔵は織田勢に対する戦力を温存できたということになります。この説ではこの間における三河国人衆の動向に対する手当は出来ていません。
 天文十六年に設定すると和田郷は佐々木松平忠倫が押さえており、大久保一族は妻子を針崎の勝曼寺に避難させていました。なので織田軍が小豆坂に達するための障害はありません。信長公記では正田原(生田原)まで進出してきた今川勢を安城の織田信秀勢が迎え撃ち小豆坂で合戦。経過というほどのものはなく、織田方の部将の功名が一方的に述べられています。今川方の戦果として二箇所、那古野弥五郎の戦死を伝えていますが、これは収集した複数の資料を校合せずに切り張りした結果と思われます。信長公記の書きぶりから、先に高地を押さえた織田信秀勢がその地の利を生かし、攻め下る勢いで今川軍を圧倒したという所でしょうか。
 だとすれば信長公記の小豆坂合戦は天野景泰が医王山砦を建てた天文十六年七月八日以降にあったという推論も成り立つでしょう。具体的には天文十六年八月上旬であると言って差し支えないと思います。

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 ここで着目すべきは「前後きびしき様体是れなり」という文言です。これは単純に八月上旬の戦闘が激戦であったという解釈でよいとも思えません。なぜなら、この段で述べられている織田方の被害は織田造酒丞の槍傷と那古野弥五郎の討死のみです。にもかかわらず、結果は「是れより駿河衆人数打ち納れ侯なり」と今川方の戦果が示されていて単純に八月上旬の戦闘の結果のみが記されているわけではありません。八月上旬の戦闘の後に起こった織田方にとっての厳しい情勢の変化があったため、今川軍の三河常駐という事態が生じたとは解せないでしょうか。すなわち、信長公記内の「あづき坂合戦の事」の記事は単純に八月上旬のことを言っているのではなく、八月上旬の戦闘から今川勢三河常駐までの事態の推移を「前後きびしき様体」と言っているのですね。

 天文十六年八月上旬の小豆坂における戦闘で織田軍が勝利したとすれば、八月二十五日付で今川義元が山中(医王山)に新たな知行を与えて医王山砦の守備を担わせた作手仙千代、藤河久兵衛に二度目の所領安堵状を出し、翌九月二十二日に京を経由して越中国の菩提心院で「駿河衆敗軍」を知った陣門法華宗の長老日覚が陣門法華宗徒である鵜殿氏の身を案じて弟子を三河に送ることをした流れもすっきり理解することが出来ます。そしておそらく二度目の安堵状の甲斐なく藤河久兵衛は織田方に寝返り、さらに大物の蜂起を促す結果につながりました。
 次稿以降からは、論文に並行して、本稿で立てた仮説に基づく検証も進めてゆきたいと思います。
 

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