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2017年9月17日 (日)

川戦:安城合戦編Ⅱ 6-5 ②某年八月上旬:第一次小豆坂合戦

 本稿は私が立てた仮説を述べます。

 本稿で言及する「第一次小豆坂合戦」については論文での言及はありません。それももっともなことで、第一次小豆坂合戦は通説においては天文十一年に起こった事と言われているからです。

ここに一つの史料があります。1560年(永禄三年)十二月二日に松井宗恒宛に今川氏真が発給した宗恒の父である宗信に対する軍忠状です。松井宗信は桶狭間合戦で戦死しているのですが、それまでの戦功がこの書状には書き連ねられています。そしてその中に小豆坂合戦についての言及があります。

〇今川氏真判物写(戦国遺文 今川氏編第二巻より引用)(拙稿にて下線部付記)
父左衛門佐宗信及度々抽軍忠之事

一東取合之刻、於当国興国寺口今澤、自身砕手、親類・与力・被官数多討死、無比類動之事
一参州入国以来、於田原城際、味方雖令敗軍相支、敵城内江押籠、随分之者四人討捕之事
松平蔵人・織田備後令同意、大平・作岡・和田彼三城就取立之、醫王山堅固爾相拘、其以後小豆坂、駿遠三人数及一戦相退之故、敵慕之処、宗信数度相返条、比類無双之事

(中略)

弥守此旨、可専戦功之状如件
   永禄三庚申年
    十二月二日    (今川)氏真(花押影)
       松井 八郎(宗恒)殿

 我流ですが、下線部分を読み下すと以下のような感じになります。

(読み下し)
一、松平蔵人、織田備後のいいつけに同意し、大平・作岡・和田、彼の三城これを砦たてるにつき、医王山堅固にあいかかわり、それ以後小豆坂にて駿・遠・三の人数一戦に及び相退く故、敵この処に慕い、宗信数度あい返すの条、比類無双の事

 意味合いですが、松平蔵人(合歓木松平信孝)が大平・作岡・和田に砦を作ったことに対し、松井宗信は医王山の今川方の砦を堅固に守っていた。その後小豆坂合戦で駿河・遠江・三河三国の軍勢が一戦に及んで退却した折に、宗信は何度もこれを追い返したのは比類なき並ぶこと無き事である、というところでしょうか。
 ここで言われている小豆坂合戦は天文十七年三月十九日の第二次小豆坂合戦です。実は松井宗信の第二次小豆坂合戦における活躍は今川義元と朝比奈泰能の感状が残っていて、先陣に参加したことと殿軍で活躍したことが証されております。この永禄三年の軍忠状によって、医王山砦が松平蔵人信孝の手で大平・作岡・和田に砦を築かれてしまった対策であることが判ります。

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 ところで、三河物語が語るこの合戦の経過には一つ違和感ある記述が存在するのですね。

〇三河物語 第一上 (安城市史5資料編より引用)(拙稿にて下線部付記)
 然間、弾正之中ハ駿河衆之出ルヲ聞て、清須之城ヲ立て、翌日は笠寺・成見(鳴海)に陳(陣)取給ひて、明レバ笠寺ヲ打立給ひて、案祥(安城)に付せ給ひて、其寄八萩(矢作)河之下之瀬ヲ超テ、上和田取出にウツラせ給ひて、明ケレバ馬頭之原え押出シて、合陳之ヲ取ントテ、上和田ヲ見明(未明)に押出ス、駿河衆モ上和田之取出え之ハタラキトテ、是モ藤河ヲ見明(未明)に押出ス、藤河ト上和田之間、一理有、然処に、山道の事ナレバ、互ニ見不出シテ押ケルガ、小豆坂え駿河衆アガリケレバ、小(織)田三郎五郎殿ハ先手にて、小豆坂へアガラントスル処にて、鼻合ヲシテ互に洞天(動転)シケリ、(後略)

〇三河物語 小豆坂の合戦(教育社 原本現代語訳 三河物語(上)より引用)(拙稿にて下線部付記)
(前略)しかしたがいに気をとりなおし、旗をたてて、すぐに合戦がはじまる。しばらく戦っていたが、三郎五郎殿が破れて盗木まで退却する。盗木には織田弾正之忠の本陣があり、盛り返して小豆坂の下まで攻めこんだが、そこからまた押しかえされた。この時の合戦は、五分五分だとはいっても、弾正之忠は二度追われ、人も多く殺されたので、駿河衆の勝ちといわれた。その後、駿河衆は藤河へ引きあげ、弾正之忠は上和田に引きあげ、それから安祥へ引きあげる。安祥に弟の三郎五郎殿を置き、弾正之忠は清須へ引きあげられた。三河で小豆坂の合戦と呼び伝えられているのはこのことだ。

 前半部分は安城市史からの引用ですが、三河物語の原本は漢字遣いが独特で意味をとるには一々注釈を加えなければならず、読みづらいので、後半部分は現代語訳本からの引用です。気になるのは天文十六年七月に立てられた医王山砦が鎌倉街道沿いにある和田・大平・作岡砦に対抗するための物であったということです。
 三河物語には上記の合戦が起こった年次は記されていないのですが、これを天文十七年三月十九日の合戦と比定するなら、今川軍は作岡砦からの妨害を受けることなく、医王山砦から易々と藤川経由で小豆坂に入ったことになります。松平信孝が作った砦の配置は藤川の先、鎌倉街道沿いの三河山地の出口に作岡砦、そこから岡崎に向かって乙川を超えた所に大平砦、乙川を超えずに生田原・小豆坂経由で西に進んで矢作川東岸にあるのが上和田砦でした。藤川から小豆坂に向かうためには作岡砦を通過しなければなりません。そして作岡砦に気づかれないまま上和田砦を目指し、小豆坂に至ってそこで同じように西進する織田軍と遭遇したことになります。
 三河物語のような展開にするためには天文十六年七月八日から天文十七年三月十九日の間に少なくとも作岡砦は無効化されている必要があるわけです。

〇一六二一 今川義元書状(愛知県史 資料編10より引用)
去比医王山取立候、普請早出来、各馳走之段注進、誠以
悦然候、近年者東西陣労打続候、勲功之至極、仍三州此
刻可達本意候、近日可出馬候間、其心得肝要候、謹言
 (天文十六年)        (今川)
  七月八日           義元(花押)
    天野安芸守殿

 七月八日の時点で天野景泰は今川義元の出馬が近いことを聞かされております。三河について『本意を達する』ため、天野景泰に求められた『肝要』なこととは、今川義元を三河山地の医王山砦に迎え入れることではありません。必要なことは山中砦の兵を西進させて平野部に展開することであったはずなのです。

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