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2017年9月24日 (日)

川戦:安城合戦編Ⅱ 6-6 天文十六年九月:田原戸田康光の謀反

 九月五日に今川勢は田原攻めに転じます。愛知県史や戦国遺文今川氏編の史料を見る限りなのですが、ここで今川義元や太原崇孚は感状をだしています。しかし、いずれも最前線で槍働きをした者たちへの感状であって、城を落としたという内容の書状は出ていません。なので田原城攻めはそれ以後も一定期間に及んだとする論文の見解には同意いたします。
 ただ、私はその後に記された今川勢が田原攻撃に集中したため、手薄になった岡崎城が織田勢の攻勢にあって落城したという論理展開には異議があります。以前の稿でも指摘した通り、菩提心院日覚書状の「岡崎ハ弾江かう参之分にて、からゝゝの命にて候」は『岡崎城主松平広忠は、織田信秀への降参者として処遇され、辛うじて命ばかりは許された。』ではなく、『岡崎城主松平広忠は、織田信秀への降参者たちによって命からがらの目にあわされている』と解するべき書状であろうと私は解釈いたします。北条氏康書状での「殊岡崎之城自其国就相押候」も、『岡崎城を確保した(岡崎城を攻落した)』ではなく、『今川方である岡崎城の勢いを防ぎ止めた』くらいにした方がよいでしょう。論文においては、根拠を示さず『岡崎城を確保した』という言葉を『岡崎城を攻落した』と言い換えているように読めるので、あまりうまい書き方になっていないと感じます。

 それはともかく、医王山砦完成の知らせに今川義元は近日出馬の意向を明らかにしたのですから、論文が書いている通り最初から田原が攻撃目標であったわけではないのは明らかでしょう。田原城主の戸田康光がこの段階で今川家に対して主体的に反旗を翻したのは間違いないと思われます。しかし、彼は結果的にあっという間に押さえ込まれています。九月五日の戦闘で田原城が陥落しなかったとしても、数日中には戸田康光、堯光親子は自害に追い込まれたことは間違いありません。ではなぜ、そんな勝ち目のない戦いに戸田康光は踏み込んでいったのかがここで考えるべきことでしょう。通説では戸田康光は松平広忠が嫡男竹千代が今川義元の元に人質として送られる道中にこれを拉致して織田信秀に売り渡したという話になっていますが、これまた今川家に喧嘩を売る所業でしかないのです。織田信秀の岡崎攻落を支援するためだとすれば、人が良すぎると言わざるを得ません。

 以前に「川戦:崩壊編⑤幼君擁立再び」という記事にて、戸田康光は自らの娘を広忠の後妻に送り込んで松平家乗っ取りのプランを画策はしたが、今川の今橋攻略でそれは凍結せざるを得なくなった。実際に竹千代を拉致したのは康光以外の別の人間であるという考えを示しました。しかし、もし天文十六年八月上旬に小豆坂合戦があってそれが織田方の勝利に終わっていたとすれば、別の可能性も見えてきます。すなわち、戸田康光は自爆するつもりでも、自分の策を誰か別の者によって進められたのでもなく、織田の勝利に今橋奪回のチャンスを見出したのではないでしょうか。すなわち、戸田康光は本当に今川軍に勝つつもりで挙兵したという可能性です。

 八月上旬の小豆坂合戦とよく似た展開の合戦を私たちは知っています。それは桶狭間合戦です。今川方に寝返った鳴海城に対して織田信長は丸根・鷲津の砦を付け城とし、後詰めに現れた今川義元の本体を見事討ち取った合戦です。今川方の部将であった松平元康(後の徳川家康)はその結果、織田信長と同盟を結び、三河征服に乗り出すことになります。また、これの逆パターンとして長篠合戦というものもあります。こちらは武田軍に包囲された長篠城の救援に訪れた織田・徳川軍と武田勝頼が後詰め決戦を挑んだ戦いでした。織田信秀はそれらと同じように岡崎城を囲んで今川軍主力をつり出そうとしたのではないでしょうか。そして正田原につり出された今川隊を織田軍主力で一気に叩き潰しました。当然今川軍主力を叩き潰すだけが織田信秀の目的ではなく、周辺の国人衆にその勝利を喧伝することによって、三河国全域に反今川の潮流を作ることがその目的だったと考えられます。
 真っ先にその誘いに乗ったのが、今川義元から三河国山中に新知行を与えられた藤河久兵衛こと奥平貞友でした。彼は今川義元から山中知行の安堵の確約を得ていたにもかかわらず、今川に対して謀反を企てました。彼は医王山砦北東部にある額田郡の日近城が根拠地であり、恐らくは山中砦を彼の手で確保して鎌倉街道を東下する織田軍を通過させるのが目的だったと思われます。もし山中砦が織田軍に突破されると今橋までは一本道です。

 そして、織田軍が長駆東三河にまで到達できるなら、田原の戸田康光にとって今川に奪われた今橋を回復するための願ってもないチャンスとなります。恐らく、この時点で正田原の今川陣は織田により打ち払われ、山中では藤河久兵衛(奥平貞友)が織田方について三河山地内の鎌倉街道を押さえにかかり、田原の戸田氏が今橋を脅かしたことでしょう。三河西郡の鵜殿氏にとっては、西隣の吉良氏を除いてすべて織田側に塗り替えられたように感ぜられたに違いありません。まさに三河一国が織田信秀によって平均された状況であったと言えます。鵜殿氏の支配領域は南を三河湾に面し、領地の周囲を山で区切られた鎌倉のような地勢です。とは言え大兵を抱えておけるような規模もなく、北から攻められればひとたまりもありません。日覚が心許なく思うのもむべなるところです。

 ところがこの戦略は思いがけないところで破たんします。すなわち、今川軍の主力は医王山砦と今橋に健在だったのです。天文十六年八月の小豆坂合戦で織田信秀が打倒した今川勢は、あくまで先遣隊であって主力ではなかったようです。藤河久兵衛は今川軍に反旗を翻したものの、天野景泰や松井宗信らが田原攻めの援軍として田原攻撃に動員されるのを止めることは出来ませんでした。それどころか山中に知行を持っていながら織田軍を医王山に手引きすることもかなわなかったのです。かくて田原は孤立し、逆に今橋の今川軍主力に攻められるにいたります。
 作戦の失敗を悟った藤河久兵衛は、後始末を兄に任せて潜伏します。藤河久兵衛の兄である奥平定勝は吉田(今橋)に急行して息子の仙千代を人質にすることで赦免と山中新知行の安堵を勝ち取りました。

 目論見通りの勝利こそ手に出来なかった織田信秀ですが、西三河における状況は何も変わっておりません。変わらず松平広忠は岡崎に押し込められ救援を求めている状況です。むしろ今橋を取ることで従えていた東三河国人衆への今川家の統制にヒビを入れることが出来たとも言えるのです。このまま岡崎城を締め上げていけば、いずれ今川軍は再び西三河に後詰めの兵を送らざるを得なくなります。なので、岡崎城を降参させることは織田信秀の本意ではなく、逆にデメリットであるとも言えるのです。

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