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2017年9月30日 (土)

川戦:安城合戦編Ⅱ 6-7 天文十六年:織田信長の初陣、吉良大浜を焼き討ち

 以下は信長公記の織田信長の初陣について記された記事です。

〇信長公記 (新訂信長公記 桑田忠親校注 新人物往来社刊より引用)
吉法師殿御元服の事

吉法師殿十三の御年、林佐渡守・平手中務・青山与三右衛門・内藤勝介伴申し、古渡の御城にて御元服、織田三郎信長と進められ、御酒宴御祝儀斜めならず。
 翌年、織田三郎信長、御武者始めとして、平手中務丞、其の時の仕立、くれなゐ筋のづきん、はをり、馬よろひ出立ちにて、駿河より人数を入れ置き候三州の内吉良大浜へ御手遣ひ、所々放火候て、其の日は、野陣を懸けさせられ、次の日、那古野に至って御帰陣。

 論文においては、上記記事について織田信長の初陣がこの年にあり、吉良大浜を攻めた一件を「天文十六年九月の織田信秀による岡崎攻め」の一環であると結論付けています。テキストとして使った桑田忠親校注の信長公記の注釈にも「今川氏の属城吉良の大浜」などと書かれてしまっていますが、論文が「吉良大浜は吉良の所領の大浜である」している解釈も妥当であろうと思います。但し、この地は松平家や本願寺が重層的に支配していて決して吉良家が独占して支配しているわけではなかったし、おそらくは吉良家が今川方についていたからというわけでもなかったと私は考えます。
 本稿ではその辺を考察してみたいと思いますが、信長の初陣があった頃の「吉良大浜」の様子を描写した史料があります。天文十三年、つまり信長初陣の三年前の閏十一月頃に連歌師谷宗牧がこの地を訪れたのでした。旅の目的は師宗長に倣っての東国への連歌興行だったのですが、そのついでにと松平広忠に女房奉書を手渡す勅使として役目を負わされた旅でした。この直前には織田信秀にも同様に女房奉書を手渡しております。

〇東国紀行(安城市史5 資料編古代・中世より引用)
(前略)
暮れ果てゝ参河大浜までをしつけたり、称名寺の住持浜までわたらせたまひをり侍る、数年乱後、ことに敵城ほどなくて、毎日足軽など不慮に打ちよせる比なれば、たゝみさへなき不弁さなり、一会の事あまり聊爾にやなどあれど、心ざしのほども見えければ、
  かきつくしうつみ火つくすむかし哉
そのかみ当国にやすらふ事ありけむ、当寺時宗相阿・覚阿などいひて、連歌執心せし人々の物語しつゝ、爐辺懐旧なるべし

(後略)

 宗牧が逗留した大浜の称名寺はかなりひどいありさまでした。毎日敵方の足軽が押し寄せて略奪を図るために畳すらない状況だったらしい。ここでいう近い場所にある敵城とは対岸の知多半島の成岩砦や境川上流の緒川・刈谷の水野氏のことでしょう。ここで開かれた連歌会は聊爾(りょうじ:いいかげん・無作法)なものであったわけですが、住持の相阿が平和な時代には連歌に熱心な人々がいたことを物語して宗牧の心を和ませた旨もかかれています。その連歌に熱心な人の一人が松平広忠であり、そのことは記録にも残っております。恐らくは、それを宗牧に披露したのでしょう。

〇一四七三 連歌懐紙 称名寺文書(愛知県史 資料編10より引用)
天文十二年二月廿六日夜、於称名寺披

神々のなかきうき世を守かな
めくりハひろき園のちよ竹  (松平)広忠
玉をしく見切の月ハ長閑にて  相阿
かすミのひまにはふく友鶴  (酒井)政家
雪はまた残るうら輪の明離れ  弘光
作る田中の道あらハなり    易屋
五月雨に晴ましらるゝ里つたひ 相阿

 発句をついだ脇句は松平広忠が詠みました。この句には「ちよ竹」と前年に生まれた嫡男竹千代の名前が組みこまれております。じつはこの時の会合で称名寺の住持相阿が広忠の嫡男を竹千代と命名したのですね。というか、系図史料に書かれている内容を信じるなら松平家の嫡男は竹千代と名乗るのが慣例になっていて、それに従ったまでとも言えそうなのですが。この称名寺は松平宗家とゆかり深く広忠の祖父にあたる信忠はここで興行された踊念仏のスポンサーになったり、一族家臣に隠居を強要された後にはここを隠居所にしています。なので松平家にはゆかり深い寺院といえます。そうであるがゆえに足軽どもが毎日打ちよせることになったのかもしれません。
 そして水野氏や織田氏にとっては絶対安全であることが判り切っていたが故に、織田信長の初陣の場所として選ばれたとして見てまずは間違いないでしょう。織田信長は自らの手で放火を行い、その日は野営して翌日帰ったというまさしくピクニックのごとき初陣でした。
 但し、平時の大浜は決して宗牧が描いたような寒村ではありません。

〇信長公記 (新訂信長公記 桑田忠親校注 新人物往来社刊より引用)
巻十四 高天神干殺し歴々討死の事
 (前略)
 家康公、未だ壮年に及ばざる以前に、三河国端に土呂、佐座喜、大浜、鷲塚とて、海手へついて然るべき要害、富貴にして人多き港なり。大坂より代坊主入れ置き、門徒繁盛候て、すでに国中過半、門家になるなり。
(後略)

 大浜の地は土呂、佐座喜(佐々木)、鷲塚と並ぶ「海手へついて然るべき要害」、「富貴にして人多き港」であり本願寺教団の門徒衆が支える豊かな町だったことを申し添えておきます。

 本稿の最後に天文十九年十一月十九日付今川義元判物についての論文解釈に異議を申し添えて締めたいと思います。

〇論文より引用
大浜上宮熊野神社を拠点として長田喜八郎に充てた天文十九年十一月十九日付今川義元判物
(愛知県史『中世3』一七六六号)に、「先年尾州・岡崎取合之刻」、長田が広忠に対し、
無沙汰せしめたので所領神田を召し放った云々の文言がある。「先年尾州・岡崎取合之刻」
とはまさしく天文十六年九月にあった織田信秀の岡崎攻めの折をさしていると考えられ、
岡崎攻めの一環として大浜作戦があったことが判明する(以上、村岡「天文年間三河における
吉良一族の動向」『安城市史研究』9 二〇〇八年参照)。

 2008年の「安城市史研究」は読んでおりませんが、論文著者が織田信秀岡崎攻落説を出したのが2015年のことですので、2008年の論文に神田召し放ちについての言及あってもそれが織田信秀の岡崎攻め意図したものではないのでしょう。普通に考えて「先年尾州・岡崎取合之刻」という文言は尾張と岡崎の抗争の事を示していて、決して尾州が岡崎を一方的に攻めた事を意味していません。しかもその岡崎と尾州の抗争は天文九年から天文十八年の長期にわたっております。また、書状を一応確認してみましたが、神田召し放ちになったのがいつの事なのか、時期も明示されていません。よって天文十六年九月の前後に織田信秀」が三河において軍事行動をとったことは同意いたしますが、その意味合いを「岡崎攻めの折を指していると考えられ」と限定していることについては、疑問に感じざるを得ないところです。

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