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2017年9月30日 (土)

川戦:安城合戦編Ⅱ 6-7 天文十六年:織田信長の初陣、吉良大浜を焼き討ち

 以下は信長公記の織田信長の初陣について記された記事です。

〇信長公記 (新訂信長公記 桑田忠親校注 新人物往来社刊より引用)
吉法師殿御元服の事

吉法師殿十三の御年、林佐渡守・平手中務・青山与三右衛門・内藤勝介伴申し、古渡の御城にて御元服、織田三郎信長と進められ、御酒宴御祝儀斜めならず。
 翌年、織田三郎信長、御武者始めとして、平手中務丞、其の時の仕立、くれなゐ筋のづきん、はをり、馬よろひ出立ちにて、駿河より人数を入れ置き候三州の内吉良大浜へ御手遣ひ、所々放火候て、其の日は、野陣を懸けさせられ、次の日、那古野に至って御帰陣。

 論文においては、上記記事について織田信長の初陣がこの年にあり、吉良大浜を攻めた一件を「天文十六年九月の織田信秀による岡崎攻め」の一環であると結論付けています。テキストとして使った桑田忠親校注の信長公記の注釈にも「今川氏の属城吉良の大浜」などと書かれてしまっていますが、論文が「吉良大浜は吉良の所領の大浜である」している解釈も妥当であろうと思います。但し、この地は松平家や本願寺が重層的に支配していて決して吉良家が独占して支配しているわけではなかったし、おそらくは吉良家が今川方についていたからというわけでもなかったと私は考えます。
 本稿ではその辺を考察してみたいと思いますが、信長の初陣があった頃の「吉良大浜」の様子を描写した史料があります。天文十三年、つまり信長初陣の三年前の閏十一月頃に連歌師谷宗牧がこの地を訪れたのでした。旅の目的は師宗長に倣っての東国への連歌興行だったのですが、そのついでにと松平広忠に女房奉書を手渡す勅使として役目を負わされた旅でした。この直前には織田信秀にも同様に女房奉書を手渡しております。

〇東国紀行(安城市史5 資料編古代・中世より引用)
(前略)
暮れ果てゝ参河大浜までをしつけたり、称名寺の住持浜までわたらせたまひをり侍る、数年乱後、ことに敵城ほどなくて、毎日足軽など不慮に打ちよせる比なれば、たゝみさへなき不弁さなり、一会の事あまり聊爾にやなどあれど、心ざしのほども見えければ、
  かきつくしうつみ火つくすむかし哉
そのかみ当国にやすらふ事ありけむ、当寺時宗相阿・覚阿などいひて、連歌執心せし人々の物語しつゝ、爐辺懐旧なるべし

(後略)

 宗牧が逗留した大浜の称名寺はかなりひどいありさまでした。毎日敵方の足軽が押し寄せて略奪を図るために畳すらない状況だったらしい。ここでいう近い場所にある敵城とは対岸の知多半島の成岩砦や境川上流の緒川・刈谷の水野氏のことでしょう。ここで開かれた連歌会は聊爾(りょうじ:いいかげん・無作法)なものであったわけですが、住持の相阿が平和な時代には連歌に熱心な人々がいたことを物語して宗牧の心を和ませた旨もかかれています。その連歌に熱心な人の一人が松平広忠であり、そのことは記録にも残っております。恐らくは、それを宗牧に披露したのでしょう。

〇一四七三 連歌懐紙 称名寺文書(愛知県史 資料編10より引用)
天文十二年二月廿六日夜、於称名寺披

神々のなかきうき世を守かな
めくりハひろき園のちよ竹  (松平)広忠
玉をしく見切の月ハ長閑にて  相阿
かすミのひまにはふく友鶴  (酒井)政家
雪はまた残るうら輪の明離れ  弘光
作る田中の道あらハなり    易屋
五月雨に晴ましらるゝ里つたひ 相阿

 発句をついだ脇句は松平広忠が詠みました。この句には「ちよ竹」と前年に生まれた嫡男竹千代の名前が組みこまれております。じつはこの時の会合で称名寺の住持相阿が広忠の嫡男を竹千代と命名したのですね。というか、系図史料に書かれている内容を信じるなら松平家の嫡男は竹千代と名乗るのが慣例になっていて、それに従ったまでとも言えそうなのですが。この称名寺は松平宗家とゆかり深く広忠の祖父にあたる信忠はここで興行された踊念仏のスポンサーになったり、一族家臣に隠居を強要された後にはここを隠居所にしています。なので松平家にはゆかり深い寺院といえます。そうであるがゆえに足軽どもが毎日打ちよせることになったのかもしれません。
 そして水野氏や織田氏にとっては絶対安全であることが判り切っていたが故に、織田信長の初陣の場所として選ばれたとして見てまずは間違いないでしょう。織田信長は自らの手で放火を行い、その日は野営して翌日帰ったというまさしくピクニックのごとき初陣でした。
 但し、平時の大浜は決して宗牧が描いたような寒村ではありません。

〇信長公記 (新訂信長公記 桑田忠親校注 新人物往来社刊より引用)
巻十四 高天神干殺し歴々討死の事
 (前略)
 家康公、未だ壮年に及ばざる以前に、三河国端に土呂、佐座喜、大浜、鷲塚とて、海手へついて然るべき要害、富貴にして人多き港なり。大坂より代坊主入れ置き、門徒繁盛候て、すでに国中過半、門家になるなり。
(後略)

 大浜の地は土呂、佐座喜(佐々木)、鷲塚と並ぶ「海手へついて然るべき要害」、「富貴にして人多き港」であり本願寺教団の門徒衆が支える豊かな町だったことを申し添えておきます。

 本稿の最後に天文十九年十一月十九日付今川義元判物についての論文解釈に異議を申し添えて締めたいと思います。

〇論文より引用
大浜上宮熊野神社を拠点として長田喜八郎に充てた天文十九年十一月十九日付今川義元判物
(愛知県史『中世3』一七六六号)に、「先年尾州・岡崎取合之刻」、長田が広忠に対し、
無沙汰せしめたので所領神田を召し放った云々の文言がある。「先年尾州・岡崎取合之刻」
とはまさしく天文十六年九月にあった織田信秀の岡崎攻めの折をさしていると考えられ、
岡崎攻めの一環として大浜作戦があったことが判明する(以上、村岡「天文年間三河における
吉良一族の動向」『安城市史研究』9 二〇〇八年参照)。

 2008年の「安城市史研究」は読んでおりませんが、論文著者が織田信秀岡崎攻落説を出したのが2015年のことですので、2008年の論文に神田召し放ちについての言及あってもそれが織田信秀の岡崎攻め意図したものではないのでしょう。普通に考えて「先年尾州・岡崎取合之刻」という文言は尾張と岡崎の抗争の事を示していて、決して尾州が岡崎を一方的に攻めた事を意味していません。しかもその岡崎と尾州の抗争は天文九年から天文十八年の長期にわたっております。また、書状を一応確認してみましたが、神田召し放ちになったのがいつの事なのか、時期も明示されていません。よって天文十六年九月の前後に織田信秀」が三河において軍事行動をとったことは同意いたしますが、その意味合いを「岡崎攻めの折を指していると考えられ」と限定していることについては、疑問に感じざるを得ないところです。

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2017年9月24日 (日)

川戦:安城合戦編Ⅱ 6-6 天文十六年九月:田原戸田康光の謀反

 九月五日に今川勢は田原攻めに転じます。愛知県史や戦国遺文今川氏編の史料を見る限りなのですが、ここで今川義元や太原崇孚は感状をだしています。しかし、いずれも最前線で槍働きをした者たちへの感状であって、城を落としたという内容の書状は出ていません。なので田原城攻めはそれ以後も一定期間に及んだとする論文の見解には同意いたします。
 ただ、私はその後に記された今川勢が田原攻撃に集中したため、手薄になった岡崎城が織田勢の攻勢にあって落城したという論理展開には異議があります。以前の稿でも指摘した通り、菩提心院日覚書状の「岡崎ハ弾江かう参之分にて、からゝゝの命にて候」は『岡崎城主松平広忠は、織田信秀への降参者として処遇され、辛うじて命ばかりは許された。』ではなく、『岡崎城主松平広忠は、織田信秀への降参者たちによって命からがらの目にあわされている』と解するべき書状であろうと私は解釈いたします。北条氏康書状での「殊岡崎之城自其国就相押候」も、『岡崎城を確保した(岡崎城を攻落した)』ではなく、『今川方である岡崎城の勢いを防ぎ止めた』くらいにした方がよいでしょう。論文においては、根拠を示さず『岡崎城を確保した』という言葉を『岡崎城を攻落した』と言い換えているように読めるので、あまりうまい書き方になっていないと感じます。

 それはともかく、医王山砦完成の知らせに今川義元は近日出馬の意向を明らかにしたのですから、論文が書いている通り最初から田原が攻撃目標であったわけではないのは明らかでしょう。田原城主の戸田康光がこの段階で今川家に対して主体的に反旗を翻したのは間違いないと思われます。しかし、彼は結果的にあっという間に押さえ込まれています。九月五日の戦闘で田原城が陥落しなかったとしても、数日中には戸田康光、堯光親子は自害に追い込まれたことは間違いありません。ではなぜ、そんな勝ち目のない戦いに戸田康光は踏み込んでいったのかがここで考えるべきことでしょう。通説では戸田康光は松平広忠が嫡男竹千代が今川義元の元に人質として送られる道中にこれを拉致して織田信秀に売り渡したという話になっていますが、これまた今川家に喧嘩を売る所業でしかないのです。織田信秀の岡崎攻落を支援するためだとすれば、人が良すぎると言わざるを得ません。

 以前に「川戦:崩壊編⑤幼君擁立再び」という記事にて、戸田康光は自らの娘を広忠の後妻に送り込んで松平家乗っ取りのプランを画策はしたが、今川の今橋攻略でそれは凍結せざるを得なくなった。実際に竹千代を拉致したのは康光以外の別の人間であるという考えを示しました。しかし、もし天文十六年八月上旬に小豆坂合戦があってそれが織田方の勝利に終わっていたとすれば、別の可能性も見えてきます。すなわち、戸田康光は自爆するつもりでも、自分の策を誰か別の者によって進められたのでもなく、織田の勝利に今橋奪回のチャンスを見出したのではないでしょうか。すなわち、戸田康光は本当に今川軍に勝つつもりで挙兵したという可能性です。

 八月上旬の小豆坂合戦とよく似た展開の合戦を私たちは知っています。それは桶狭間合戦です。今川方に寝返った鳴海城に対して織田信長は丸根・鷲津の砦を付け城とし、後詰めに現れた今川義元の本体を見事討ち取った合戦です。今川方の部将であった松平元康(後の徳川家康)はその結果、織田信長と同盟を結び、三河征服に乗り出すことになります。また、これの逆パターンとして長篠合戦というものもあります。こちらは武田軍に包囲された長篠城の救援に訪れた織田・徳川軍と武田勝頼が後詰め決戦を挑んだ戦いでした。織田信秀はそれらと同じように岡崎城を囲んで今川軍主力をつり出そうとしたのではないでしょうか。そして正田原につり出された今川隊を織田軍主力で一気に叩き潰しました。当然今川軍主力を叩き潰すだけが織田信秀の目的ではなく、周辺の国人衆にその勝利を喧伝することによって、三河国全域に反今川の潮流を作ることがその目的だったと考えられます。
 真っ先にその誘いに乗ったのが、今川義元から三河国山中に新知行を与えられた藤河久兵衛こと奥平貞友でした。彼は今川義元から山中知行の安堵の確約を得ていたにもかかわらず、今川に対して謀反を企てました。彼は医王山砦北東部にある額田郡の日近城が根拠地であり、恐らくは山中砦を彼の手で確保して鎌倉街道を東下する織田軍を通過させるのが目的だったと思われます。もし山中砦が織田軍に突破されると今橋までは一本道です。

 そして、織田軍が長駆東三河にまで到達できるなら、田原の戸田康光にとって今川に奪われた今橋を回復するための願ってもないチャンスとなります。恐らく、この時点で正田原の今川陣は織田により打ち払われ、山中では藤河久兵衛(奥平貞友)が織田方について三河山地内の鎌倉街道を押さえにかかり、田原の戸田氏が今橋を脅かしたことでしょう。三河西郡の鵜殿氏にとっては、西隣の吉良氏を除いてすべて織田側に塗り替えられたように感ぜられたに違いありません。まさに三河一国が織田信秀によって平均された状況であったと言えます。鵜殿氏の支配領域は南を三河湾に面し、領地の周囲を山で区切られた鎌倉のような地勢です。とは言え大兵を抱えておけるような規模もなく、北から攻められればひとたまりもありません。日覚が心許なく思うのもむべなるところです。

 ところがこの戦略は思いがけないところで破たんします。すなわち、今川軍の主力は医王山砦と今橋に健在だったのです。天文十六年八月の小豆坂合戦で織田信秀が打倒した今川勢は、あくまで先遣隊であって主力ではなかったようです。藤河久兵衛は今川軍に反旗を翻したものの、天野景泰や松井宗信らが田原攻めの援軍として田原攻撃に動員されるのを止めることは出来ませんでした。それどころか山中に知行を持っていながら織田軍を医王山に手引きすることもかなわなかったのです。かくて田原は孤立し、逆に今橋の今川軍主力に攻められるにいたります。
 作戦の失敗を悟った藤河久兵衛は、後始末を兄に任せて潜伏します。藤河久兵衛の兄である奥平定勝は吉田(今橋)に急行して息子の仙千代を人質にすることで赦免と山中新知行の安堵を勝ち取りました。

 目論見通りの勝利こそ手に出来なかった織田信秀ですが、西三河における状況は何も変わっておりません。変わらず松平広忠は岡崎に押し込められ救援を求めている状況です。むしろ今橋を取ることで従えていた東三河国人衆への今川家の統制にヒビを入れることが出来たとも言えるのです。このまま岡崎城を締め上げていけば、いずれ今川軍は再び西三河に後詰めの兵を送らざるを得なくなります。なので、岡崎城を降参させることは織田信秀の本意ではなく、逆にデメリットであるとも言えるのです。

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2017年9月23日 (土)

川戦:安城合戦編Ⅱ 6-5 ③某年八月上旬:第一次小豆坂合戦

 ここで某年八月上旬の『第一次小豆坂合戦』がどのような経緯ですすんだのかみてみます。

〇信長公記 あづき坂合戦の事 新人物往来社 新訂信長公記より引用(拙稿にて下線部付記)
 八月上旬、駿河衆、三川の国正田原へ取り出だし、七段に人数を備へ候。
其の折節、三川の内、あん城と云ふ城、織田傭後守かゝへられ侯ひき。
駿河の由原先懸けにて、あづき坂へ人数を出だし侯。則ち備後守あん城より
矢はぎへ懸け出で、あづき坂にて傭後殿御舎弟衆与二郎殿・孫三郎殿・
四郎次郎殿を初めとして、既に一戦に取り結び相戦ふ。其の時よき働きせし衆、
織田備後守・織田与二郎殿・織田孫三郎殿・織田四郎次郎殿、織田造酒丞殿、
是れは鎗きず被られ、内藤勝介、是れは、よき武者討ちとり高名。
那古野弥五郎、清洲衆にて侯、討死侯なり。下方左近・佐々隼人正・佐々孫介・
中野又兵衛・赤川彦右衛門・神戸市左衛門・永田次郎右衛門・山口左馬助、
三度四度かゝり合ひゝゝ、折しきて、各手柄と云ふ事限りなし。
前後きびしき様体是れなり。爰にて那古野弥五郎が頸は由原討ち取るなり。
是れより駿河衆人数打ち納れ侯なり。

 信長公記では今川軍はいきなり正田原(生田原)まで進出してきたことになっています。中世の東三河から西三河へ向かうルートは三河山地の山中の手前で分岐があってそこを北に行くと乙川にでて、そこを渡ると織田方の松平信孝が建てた大平砦があり、そこから乙川北岸沿いにまっすぐ進めば岡崎にたどり着くことが出来ます。もう一つが山中から藤川に向かって進むルートです。ここにも同じく織田方の作岡砦があり、そこを超えると正田原(生田原)に達します。そこから乙川南岸沿いのルートと小豆坂へのルートに分岐するわけですね。今川方が医王山(山中)砦を作る前に織田方が建てた作岡砦は、東方から西進してくる今川勢の侵入を阻む位置にあります。

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 今川軍は正田原(生田原)に「取り出だし」とあるので、ここに砦を築いてしまっているようです。仮説に従い天文十六年の出来事とみるとこれは理にかなった行動だと思います。まず、行軍を楽に進めるには整備された街道沿いがベターであることは言うまでもありません。今川軍は鎌倉街道沿いに進軍したとみて差し支えないでしょう。その途上にある作岡砦は以降も言及がないので突破されたものと思われます。さらに進んで正田原に砦を築くわけですが、そこから乙川沿いに明大寺へ向かおうとした場合、丘陵と川に挟まれた切所が途中に数か所あり、大軍の移動に向きません。逆に正田原の砦に少数の兵を置いて街道の出口をふさいでしまえば、北方から押し出してくる敵勢への備えとしては十分です。正田原砦から小豆坂の丘陵地を超えれば、上和田まで平野が開けていますので、そちらに進もうとした所を咎めたのが安城にいた織田勢ということでしょう。

 天文十一年説ではその織田勢は上和田の大久保や六名の阿部などの領地を突破しないと小豆坂へ到達できません。しかし、天文十三年に阿部大蔵は自らの手勢を率いて尾張表に出陣したのですから、阿部大蔵は織田勢に対する戦力を温存できたということになります。この説ではこの間における三河国人衆の動向に対する手当は出来ていません。
 天文十六年に設定すると和田郷は佐々木松平忠倫が押さえており、大久保一族は妻子を針崎の勝曼寺に避難させていました。なので織田軍が小豆坂に達するための障害はありません。信長公記では正田原(生田原)まで進出してきた今川勢を安城の織田信秀勢が迎え撃ち小豆坂で合戦。経過というほどのものはなく、織田方の部将の功名が一方的に述べられています。今川方の戦果として二箇所、那古野弥五郎の戦死を伝えていますが、これは収集した複数の資料を校合せずに切り張りした結果と思われます。信長公記の書きぶりから、先に高地を押さえた織田信秀勢がその地の利を生かし、攻め下る勢いで今川軍を圧倒したという所でしょうか。
 だとすれば信長公記の小豆坂合戦は天野景泰が医王山砦を建てた天文十六年七月八日以降にあったという推論も成り立つでしょう。具体的には天文十六年八月上旬であると言って差し支えないと思います。

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 ここで着目すべきは「前後きびしき様体是れなり」という文言です。これは単純に八月上旬の戦闘が激戦であったという解釈でよいとも思えません。なぜなら、この段で述べられている織田方の被害は織田造酒丞の槍傷と那古野弥五郎の討死のみです。にもかかわらず、結果は「是れより駿河衆人数打ち納れ侯なり」と今川方の戦果が示されていて単純に八月上旬の戦闘の結果のみが記されているわけではありません。八月上旬の戦闘の後に起こった織田方にとっての厳しい情勢の変化があったため、今川軍の三河常駐という事態が生じたとは解せないでしょうか。すなわち、信長公記内の「あづき坂合戦の事」の記事は単純に八月上旬のことを言っているのではなく、八月上旬の戦闘から今川勢三河常駐までの事態の推移を「前後きびしき様体」と言っているのですね。

 天文十六年八月上旬の小豆坂における戦闘で織田軍が勝利したとすれば、八月二十五日付で今川義元が山中(医王山)に新たな知行を与えて医王山砦の守備を担わせた作手仙千代、藤河久兵衛に二度目の所領安堵状を出し、翌九月二十二日に京を経由して越中国の菩提心院で「駿河衆敗軍」を知った陣門法華宗の長老日覚が陣門法華宗徒である鵜殿氏の身を案じて弟子を三河に送ることをした流れもすっきり理解することが出来ます。そしておそらく二度目の安堵状の甲斐なく藤河久兵衛は織田方に寝返り、さらに大物の蜂起を促す結果につながりました。
 次稿以降からは、論文に並行して、本稿で立てた仮説に基づく検証も進めてゆきたいと思います。
 

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2017年9月17日 (日)

川戦:安城合戦編Ⅱ 6-5 ②某年八月上旬:第一次小豆坂合戦

 本稿は私が立てた仮説を述べます。

 本稿で言及する「第一次小豆坂合戦」については論文での言及はありません。それももっともなことで、第一次小豆坂合戦は通説においては天文十一年に起こった事と言われているからです。

ここに一つの史料があります。1560年(永禄三年)十二月二日に松井宗恒宛に今川氏真が発給した宗恒の父である宗信に対する軍忠状です。松井宗信は桶狭間合戦で戦死しているのですが、それまでの戦功がこの書状には書き連ねられています。そしてその中に小豆坂合戦についての言及があります。

〇今川氏真判物写(戦国遺文 今川氏編第二巻より引用)(拙稿にて下線部付記)
父左衛門佐宗信及度々抽軍忠之事

一東取合之刻、於当国興国寺口今澤、自身砕手、親類・与力・被官数多討死、無比類動之事
一参州入国以来、於田原城際、味方雖令敗軍相支、敵城内江押籠、随分之者四人討捕之事
松平蔵人・織田備後令同意、大平・作岡・和田彼三城就取立之、醫王山堅固爾相拘、其以後小豆坂、駿遠三人数及一戦相退之故、敵慕之処、宗信数度相返条、比類無双之事

(中略)

弥守此旨、可専戦功之状如件
   永禄三庚申年
    十二月二日    (今川)氏真(花押影)
       松井 八郎(宗恒)殿

 我流ですが、下線部分を読み下すと以下のような感じになります。

(読み下し)
一、松平蔵人、織田備後のいいつけに同意し、大平・作岡・和田、彼の三城これを砦たてるにつき、医王山堅固にあいかかわり、それ以後小豆坂にて駿・遠・三の人数一戦に及び相退く故、敵この処に慕い、宗信数度あい返すの条、比類無双の事

 意味合いですが、松平蔵人(合歓木松平信孝)が大平・作岡・和田に砦を作ったことに対し、松井宗信は医王山の今川方の砦を堅固に守っていた。その後小豆坂合戦で駿河・遠江・三河三国の軍勢が一戦に及んで退却した折に、宗信は何度もこれを追い返したのは比類なき並ぶこと無き事である、というところでしょうか。
 ここで言われている小豆坂合戦は天文十七年三月十九日の第二次小豆坂合戦です。実は松井宗信の第二次小豆坂合戦における活躍は今川義元と朝比奈泰能の感状が残っていて、先陣に参加したことと殿軍で活躍したことが証されております。この永禄三年の軍忠状によって、医王山砦が松平蔵人信孝の手で大平・作岡・和田に砦を築かれてしまった対策であることが判ります。

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 ところで、三河物語が語るこの合戦の経過には一つ違和感ある記述が存在するのですね。

〇三河物語 第一上 (安城市史5資料編より引用)(拙稿にて下線部付記)
 然間、弾正之中ハ駿河衆之出ルヲ聞て、清須之城ヲ立て、翌日は笠寺・成見(鳴海)に陳(陣)取給ひて、明レバ笠寺ヲ打立給ひて、案祥(安城)に付せ給ひて、其寄八萩(矢作)河之下之瀬ヲ超テ、上和田取出にウツラせ給ひて、明ケレバ馬頭之原え押出シて、合陳之ヲ取ントテ、上和田ヲ見明(未明)に押出ス、駿河衆モ上和田之取出え之ハタラキトテ、是モ藤河ヲ見明(未明)に押出ス、藤河ト上和田之間、一理有、然処に、山道の事ナレバ、互ニ見不出シテ押ケルガ、小豆坂え駿河衆アガリケレバ、小(織)田三郎五郎殿ハ先手にて、小豆坂へアガラントスル処にて、鼻合ヲシテ互に洞天(動転)シケリ、(後略)

〇三河物語 小豆坂の合戦(教育社 原本現代語訳 三河物語(上)より引用)(拙稿にて下線部付記)
(前略)しかしたがいに気をとりなおし、旗をたてて、すぐに合戦がはじまる。しばらく戦っていたが、三郎五郎殿が破れて盗木まで退却する。盗木には織田弾正之忠の本陣があり、盛り返して小豆坂の下まで攻めこんだが、そこからまた押しかえされた。この時の合戦は、五分五分だとはいっても、弾正之忠は二度追われ、人も多く殺されたので、駿河衆の勝ちといわれた。その後、駿河衆は藤河へ引きあげ、弾正之忠は上和田に引きあげ、それから安祥へ引きあげる。安祥に弟の三郎五郎殿を置き、弾正之忠は清須へ引きあげられた。三河で小豆坂の合戦と呼び伝えられているのはこのことだ。

 前半部分は安城市史からの引用ですが、三河物語の原本は漢字遣いが独特で意味をとるには一々注釈を加えなければならず、読みづらいので、後半部分は現代語訳本からの引用です。気になるのは天文十六年七月に立てられた医王山砦が鎌倉街道沿いにある和田・大平・作岡砦に対抗するための物であったということです。
 三河物語には上記の合戦が起こった年次は記されていないのですが、これを天文十七年三月十九日の合戦と比定するなら、今川軍は作岡砦からの妨害を受けることなく、医王山砦から易々と藤川経由で小豆坂に入ったことになります。松平信孝が作った砦の配置は藤川の先、鎌倉街道沿いの三河山地の出口に作岡砦、そこから岡崎に向かって乙川を超えた所に大平砦、乙川を超えずに生田原・小豆坂経由で西に進んで矢作川東岸にあるのが上和田砦でした。藤川から小豆坂に向かうためには作岡砦を通過しなければなりません。そして作岡砦に気づかれないまま上和田砦を目指し、小豆坂に至ってそこで同じように西進する織田軍と遭遇したことになります。
 三河物語のような展開にするためには天文十六年七月八日から天文十七年三月十九日の間に少なくとも作岡砦は無効化されている必要があるわけです。

〇一六二一 今川義元書状(愛知県史 資料編10より引用)
去比医王山取立候、普請早出来、各馳走之段注進、誠以
悦然候、近年者東西陣労打続候、勲功之至極、仍三州此
刻可達本意候、近日可出馬候間、其心得肝要候、謹言
 (天文十六年)        (今川)
  七月八日           義元(花押)
    天野安芸守殿

 七月八日の時点で天野景泰は今川義元の出馬が近いことを聞かされております。三河について『本意を達する』ため、天野景泰に求められた『肝要』なこととは、今川義元を三河山地の医王山砦に迎え入れることではありません。必要なことは山中砦の兵を西進させて平野部に展開することであったはずなのです。

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2017年9月16日 (土)

6-5 ①天文十六年七月:医王山砦落成

 今川軍が今橋を攻めた翌年、今川義元は天野景泰に命じて医王山砦を建てさせました。三河の国の中央部は北部の美濃・信濃国境から南部の臨海部までを三河山地と呼ばれる山岳地帯が占めています。そこを南東から北西にかけて鎌倉街道が貫いています。現在概ね国道一号線が通っているあたりです。そこに並行して東名高速道路も走っているわけですが、現代においても道の両側は山岳地帯が広がっていて整備された街道以外に軍勢を通す道は考えにくい地勢です。三河山地を貫く鎌倉街道の西三河側にやや寄ったあたりに作られたのが医王山砦でした。鎌倉街道は今橋と岡崎(厳密にいうと松平広忠の父清康が岡崎の城を乙川北岸に移したため、街道に直接繋がっているわけではありません)をダイレクトに結んでおります。その中継点の難所である山岳地帯の要所に天野景泰は砦を築いたのでした。
 田中芳樹氏の小説「銀河英雄伝説」になぞらえるなら、イゼルローン回廊の中に作られたイゼルローン要塞のようなものです。

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 そのイゼルローン要塞ならぬ医王山砦の落成を聞いた今川義元は大変喜んで天野景泰宛に自ら三河に出陣する旨を伝えております。しかし、今川義元の出陣は実現しませんでした。不測の事態が生じたのです。論文の論考においては、その不測の事態を九月の織田信秀による岡崎攻撃としていますが、それよりも一か月早い八月に何かが起こっております。
 それを指し示す史料を以下に提示します。

〇一六二七 今川義元判物写 松平奥平家古文書写(愛知県史資料編10より引用)(拙稿にて下線部付記)
参河国山中新知行之事
右、医王山取出割(刻カ)、就可抽忠節、
以先判充行之上、当国東西鉾楯雖有時宜変化之儀、
彼地之事、永不可有相違也、
弥可専勲功状如件、

 天文十六             
  八月廿五日            今川義元也 治部大輔 判
    作手仙千代殿(奥平定能)
    藤河久兵衛殿(奥平貞友)

 これは作手(亀山)の奥平氏の当主の息子仙千代(後の奥平定能)と仙千代の叔父にあたる藤河久兵衛(奥平貞友)が今川義元から山中、つまり医王山砦のある場所を知行地として充てがわれたことが書かれた書状です。いつもながらの素人解釈で恐縮ですが、以下に読み下しを記します。

(読み下し)
参河国山中新知行の事
右、医王山砦の時、忠節抜きんでるべきに就き、
先の判を以ってこれを充てがう上に、
当国は東西鉾盾、時宜の変化の儀有りと雖も、
彼の地の事、永く相違あるべからざるなり。
いよいよ勲功専らとすべき状、件の如し

 WikiPediaの奥平定能の項には以下のような説明が付されています

〇奥平定能の項 Wikipediaより引用
定能の史料上の初見は天文16年(1547年)8月25日付今川義元判物写で、
幼名仙千代を称していた定能は叔父・藤河久兵衛尉とともに医王山砦を
攻略した恩賞として、山中に知行を与えられている。

 おそらく上記書状は天文十六年七月八日付天野景泰宛今川義元書状と対で解釈すべきものでしょう。七月時点で今川方の砦として建設されていますので、これを攻略する必然性はありません。もっとも、天野景泰らが医王山砦を奥平氏とともに敵方から奪い、その時の恩賞である可能性はないわけではありません。いずれにせよ、医王山砦の守備兵力として奥平仙千代と貞友が動員されているのは事実であり、この書状はその役務の対価として山中に新知行が宛がわれたとみるべき書状です。しかし、この史料は以下の確認すべきポイントがあります。

>先の判を以ってこれを充てがう
>時宜の変化の儀有りと雖も、彼の地の事、永く相違あるべからざるなり。

 この二つの文言は天文十六年八月二十七日付書状以前に山中の新知行は作手仙千代と藤河久兵衛に宛がわれていて、当該書状で何があっても今川義元は二人のこの土地の知行権を保証する旨記しているわけです。いわばこの書状は一度発給された安堵状の内容をさらに保証するものなのですね。

 この書状は先に出した恩賞の再確認ということになります。ではなぜ、そんなものが必要なのでしょうか。答えは『東西鉾盾』、『時宜変化之儀』が現実に出来したからでした。

 その結果何が起きているかは次の書状がしめしています。

〇 一六五四 今川義元判物写(愛知県史資料編10より引用)(拙稿にて下線部付記)
去年息子千々代・同盟親族等依忠節、新地山中郷充行分
(但此内百五十貫文、竹尾平左衛門割分除之)、本知行
幷遠江国高部給分、弟日近久兵衛尉知行分、同去年配当
形之原文等の事
右、依今度久兵衛尉謀反現形、最前ニ馳来于吉田、子細
申分、則実子千々代為人質出置、
抽忠節上、抛先非如
前々処充行之也、弥可専忠信之状、仍如件
  天文十七戊申年正月二十六日
               (今川義元)
          (定勝)    治部大輔 判
         奥平監物丞殿

 今川義元の新知行宛行と安堵にもかかわらず藤河久兵衛(奥平貞友)が今川に謀反を働いた結果、作手仙千代(奥平定能)は人質として吉田に送られることになりました。仙千代の父、奥平監物(定勝)が吉田(今橋)に赴いて詫びを入れた結果、息子の命と新知行は安堵されたということです。では、天文十六年八月二十七日以前に起こった『東西鉾盾』、『時宜変化之儀』とは何なのかについて、次稿で考察を進めてまいります。

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2017年9月10日 (日)

川戦:安城合戦編Ⅱ 6-4 天文十五年:今川軍の今橋攻め(十一月~翌六月の間)

 今川軍の今橋城攻めについて論文は、今橋攻めが松平広忠に与えた影響に焦点を当てて考察しております。論文によると、天文十五年十一月以降の時期は松平広忠にとって今川という援軍が三河国にやって来た、反撃のチャンスだったとのこと。しかし、この時期広忠が安城を破ったという記録はない。それがすなわち、「安城は要害、即時二破らる(安城の要害に拠った織田軍が攻め寄せる松平軍を破った)」状況だったと言います。

 私自身としては安城陥落は天文十二年以前ではなく、天文十四年の安城合戦で起きたのだという説があるならそれに惹かれます。それを前提とすれば論文が言う天文十五年以降における松平家による反撃の可能性も同意しうるものです。
 天文十四年の時点で水野氏は織田信秀方についていました。前年には恐らく「尾張表」に進出してきた阿部大蔵率いる軍と対峙していたのは水野氏だったと思われ、その報復を考えざるを得ないでしょう。織田信秀もその年の美濃での合戦で敗北しており、頼み勢による動員体制を維持する為には目に見えた戦果が必要になります。もしこの時までに安城城が松平方で維持されていたなら、池鯉鮒より鎌倉街道をまっすぐ東南に向かえば突き当たる安城城は格好の目標になります。織田信秀も水野領の通過に遠慮をする必要もなくなりますので兵站は極めて楽になり、退路を断たれる心配をする必要もなくなったはずです。
 しかし、残念ながら天文十四年安城落城説を示す史料は私自身見つけられていませんし、論文の北条氏康書状内の「安城は要害、即時二破らる」についての論文解釈(安城の要害に拠った織田軍が攻め寄せる松平軍を破った)には異議がありますので、天文十四年落城説という形であっても私自身はそちらの説にも踏み出しにくいです。

 論文は天文十五年の松平広忠の攻勢を示唆していますが、それを示す史料は通説も含めて見当たりません。今川の援軍に勢いを得た松平勢の反攻となると通説では天文十六年の渡河原合戦がそれにあたるわけですが、日覚書状が書かれた時点で岡崎は弾に降伏していたという解釈を論文はとっています。渡河原合戦は一次史料での確認が取れないという部分もあるのですが、これを反攻の事例とするのは論文の趣旨との整合性が取れません。逆に日覚書状は岡崎降伏を示していないという解釈をとるならば、論文が言う岡崎の攻勢を渡河原合戦に比定してもよいということになります。いずれにせよ天文十五年の岡崎攻勢は根拠不足でしょう。

 以下は余談になります。
 今川軍の今橋城攻めについては新編岡崎市史での新行紀一氏、三河松平一族で平野明夫氏が今川軍の今橋攻めにおける松平広忠の参陣の可能性について触れていて、興味深い指摘をしております。松平広忠参陣したとの根拠は岡崎領主古記に以下記述があると新編岡崎市史で新行紀一氏が述べております。

〇松平記 新編岡崎市史2 中世より引用(拙稿にて下線部付記)
一、天文十五丙午年、今橋に戸田金七郎在城ス
一、同年十月駿河勢ト岡崎勢ト今橋へ押寄合戦ス、此時石川式部、酒井将監、阿部大蔵吉田ニ働キ落城ス
但し其次ニ小原肥前守(鎮実)居之

 当該記事では、岡崎松平家家臣の石川式部、酒井将監、阿部大蔵が参陣して吉田(今橋)城を攻落させています。十月中に落城させているように読めますが、論文上では完全制圧には翌年までかかっているとのことらしい。当該記事は同時代史料ではありませんし、江戸期に成立した史料なので、この記載のみで妥当かどうかどうかを判断するのは厳しいです。但し、この時安城城が織田勢の手に落ちていようといまいと、松平勢が岡崎を離れ、軍を率いて今橋に参陣することはかなり難しいことだったに違いないと想像いたします。
 というのは、今川義元が天文十五年に今橋城攻めをする直前、東三河の長澤松平氏が今川家の敵に回っていることを牧野康成が言及している書状が残っているからです。この書状は「家康研究の最前線 ここまでわかった「東照神君」の実像」という本の平野明夫氏の記事で紹介されていました。

〇牧野康成条目写 愛知県史 資料編10より引用

 牧野氏と戸田氏は戦国期を通じて今橋(吉田)の領有をめぐって相争っておりました。戸田氏は最初は二連木に拠点を設けていたのですが、より海岸線に近い今橋に牧野氏が進出してきたのです。天文年中に戸田氏の領有する所になったのですが、その今橋を今度は今川義元が攻めることになった時に牧野康成は今川方につくことになりました。その為の条件を出してきたのが上記書状です。
 この書状で言及されている両所とは十一月二十五日付で署名している遠江朝比奈氏の朝比奈泰能、駿河朝比奈氏の朝比奈親徳、太原崇孚の三名の内の二人を指すと思われます。
 牧野康成は天文十五年九月以前に同じような内容の書状を今川義元に出してすでに確約を得ております。その折に牧野康成から今川義元への取次を行ったのが合歓木松平信孝と安心軒の二名です。安心軒はこの時代この地方の書状に時々顔を出している人物で、これ以前に斎藤道三の依頼で水野氏と松平氏との連携を実現し織田家に対抗させる為の使者の役目を負ったり、織田信秀から遠江の飯尾豊後守連達宛の書状を密かに鵜殿長持に見せたりしていて、必ずしも織田信秀に意向に沿った行動をするとは限らない人物です。合歓木松平信孝は天文十二年に岡崎松平家臣団から放逐されて以降、織田信秀の命令で岡(山崎)に砦を作るまでの行動が不明な人物です。岡(山崎)砦築城の前提となる安城攻落が天文十六年であれば、今川義元とのコネクションを活かして牧野氏の書状を取り次いだとしてもおかしくはありません。松平信孝にとって牧野氏が敵対する戸田氏は自分が追放された後に岡崎松平家へ嫁に出した家ですから、信孝が牧野氏に肩入れしたことは十分あり得ます。
 その牧野康成の言い分として長澤松平氏が今川氏に敵対して下条、和田、千両、大崎、佐脇、六角の各郷村が長澤松平氏に味方したとしているのです。これは単純に牧野康成が長澤松平氏だけではなく、周辺諸郷に攻め入る口実を得たいだけだったかもしれません。両朝比奈並びに太原崇孚は牧野康成の追加要望ははねつけましたが、少なくとも長澤松平氏については、牧野康成が敵対することを今川義元の同意のもとで追認しております。長澤松平氏の所領は岡崎から今橋に至る鎌倉街道の三河山地の出口部分の狭隘地にあります。長澤が紛争地域であったとすれば、岡崎から今橋へ兵を通すのは至難であったと言えるでしょう。

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 当該資料を「家康研究の最前線 ここまでわかった「東照神君」の実像」にて紹介した平野明夫氏の見解は上記とは異なっていて松平信孝を通して今川家と織田家の連携が図られており、今川は戸田を、織田は松平を攻める合意があった前提でこの史料を読み解いております。その解釈はあり得ないわけではありませんが、その場合今川氏が予測していなかった田原戸田氏の離反の動機が今一つ見えてきません。
 論文の見解を含め、失敗すれば今川軍に滅ぼされるとわかっているにもかかわらず、なぜ田原戸田康光は今川勢に攻め入ったのか。論文並びに平野新説においてはその部分の説明が不十分であるように思えます。

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2017年9月 9日 (土)

川戦:安城合戦編Ⅱ 6-3 ②天文十四年:安城清縄手の戦い(常山紀談~譜牒余録)

 本稿では前稿にひきつづき、安城清縄手の戦いの描写変遷を追いかけてゆきます。

〇柳営秘鑑(1743年(寛保三年)成立 WikiPedia 柳営秘鑑より引用)(拙稿にて下線部付記)
一、扇の御馬印ハ五本骨ニ而親骨の方を竿付尓して被為持。元来、本多平八郎忠高所持之持物尓て数度の戦功顕し。天文十八年(1549年)安祥城責の時、一番乗りして討死之後、其子中書忠勝相伝、用之処、文禄二年(1594年)大神君御所望有て、御当家随一の御馬印ニ被成置。

 幕府が貞享書上の為の呈譜をまとめてから五十九年後に幕臣の菊池弥門が柳営秘鑑という幕府の為の有職故実をまとめた書物を書き上げます。単に内規や格式だけを記すだけではなく、扇の馬印の由来など雑学的な内容もふくまれていて、そこに本多忠豊の子、忠高の事績が述べられています。そこには城に一番乗りして討死という表現になっていますが、難波戦記が「先登ノ武威ヲ振」という表現を「まっさきに城に攻め入ること」から「城に一番乗りすること」と解釈をふくらませ、後に続く前嶋伝次の矢で死んだセンテンスを省いています。

〇常山紀談(1770年(明和七年)成立 WikiPedia 柳営秘鑑より引用)(拙稿にて下線部付記)
金の七本骨の扇の御馬印の事/東照宮、金の七本骨の扇に日丸(ひのまる)附けたる馬印は、参河の設楽郡(注;宝飯郡の誤り)牛窪の牧野半右衛門が印なりしを、永禄六年(1563年)に乞ひ得させられて馬印となし給ふ。夫より前の御印は厭離穢土欣求浄土の八字を書きたるにて、大樹寺の登誉が筆なり。其印明暦丁酉の火災にかかれりと言へり。然れども扇の御印は其前よりの事にや。天文十四年(1545年),公矢矧川にて織田家と軍ありし時、利無くて危かりしに、本多吉右衛門忠豊、疾く岡崎に入らせ給へ。御馬印を賜はり討死すべし、と申せ共許されず。扇の御馬印を取て清田畷にて討死しける。其隙に危きを逓れ給へり。御印は忠豊が嫡子平八郎忠高が家に相伝へ、忠高も又戦死しける。其子忠勝が時に至りて、永禄二年(1559年)東照宮乞ひ返させ給ひたりと云へり。

 常山紀談の成立は十八世紀も後半に入った1770年(明和七年)のことで、柳営秘鑑の二十七年後になります。著者は岡山藩士の湯浅常山で、荻生徂徠に学んだ古文辞学者でした。その割には先人の家譜に大胆なアレンジメントが加えられているようにも思います。
 ここで忠豊の死にざまが大きく変化します。それまでは「先登」という言葉だけあって攻城戦なのか守城戦なのかもはっきりしなかったのですが、これがいずれでもなく退却戦の話に変わってしまいます。意外性ある変化です。しかも、ここではじめて「清田畷」なる地名が現れるのですね。その反面、難波戦記・柳営秘鑑から現れた天文十八年の安城合戦における本多忠高の活躍は無くなって、いつのことなのか、どこなのかわからない戦場で死んだことになりました。寛永諸家系図伝では少なくとも安祥縄手で死んだことは記されていたのですが、ずいぶんな後退です。

〇譜諜余禄 前編巻三十二・本多下野守(1799年(寛政十一年)成立 安城市史5資料編より引用)(拙稿にて下線部付記)
忠豊 平八郎、後改吉左衛門
清康君、広忠ニ奉仕、度々ノ軍功有、天文十四年広忠卿織田弾正忠カ兵籠ル処ノ三州安祥城ヲ囲攻玉フ、忠豊先陣トシ先登ニ進ミ奮撃ツ、于時弾正忠後詰トシ多勢ヲ発ス、城兵是ニ機ヲ得テ打出ル、広忠卿前後ノ敵ニアタリ既ニ危ク見へ給フニヨリ、忠豊申上ゲルハ、先此度ハ如何ニモシ御退キ有、重重テ御本意遂ラルヘシ、サレ共容易クハ退キ玉フ事難シ、御馬印ヲ賜ラハ、爰ニテ忠豊撃死仕ラン、其内ニ退セ玉へト申ケレハ、爰ニテ広忠卿、汝等ヲ棄退ン事思ヒヨラスト、仰ケル、忠豊頻ニ御諫申上、扇ノ馬験ヲ申受ケ、安祥縄手ニテ戦死シ、広忠卿恙ナク引取玉フ
扇ノ馬験ハ忠豊嫡子平八郎忠高ニ伝ヘテ、指物トス、忠高子中務大輔忠勝、是ヲ伝フ、文禄二年、大神君ノ仰ニ因テ忠勝扇指物ヲ献上シケリ

 譜諜余禄は1799年(寛政十一年)の成立で常山紀談の二十九年後のことになります。忠豊の最期については清縄手、清田畷等の表記はないものの、ストーリー立ては常山紀談のそれにならってより細に入った記述ぶりになっています。常山紀談からの記述ですが、扇の馬印を忠豊は寛永譜では清康から賜ったことになっていますが、ここでは広忠が戦場から脱出するための囮に使うために借りたものとして馬印が使われております。劇的であるには違いありませんが、寛永諸家系図伝の記述と比較すれば明らかに改変が加えられていると断ぜざるをえません。

以上の状況を顧みて、論文が言う所の「安城清縄手の戦いは、のちに岡崎藩主となった本多家などに十七世紀に伝えられたものである。同時代史料によって確認できないが、本多忠豊が戦死した戦いとして合戦場所等詳しく伝承されている。前後の状況からすれば、特に疑う理由もなかろう」という指摘に対しては、十八世紀後半に入ってから本多忠豊譜に施された史実改編の動機と根拠が不明な状況では後世に残る詳細な伝承については、残念ながら疑義を呈さざるをえません。

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2017年9月 3日 (日)

川戦:安城合戦編Ⅱ 6-3 ①天文十四年:安城清縄手の戦い(寛永諸家系図伝~貞享書上)

 論文において天文十四年四月に起こった安城清縄手の戦いについて、以下のようなコメントをされております。
〇論文より引用
 安城清縄手の戦いは、のちに岡崎藩主となった本多家などに十七世紀に伝えられたものである。同時代史料によって確認できないが、本多忠豊が戦死した戦いとして合戦場所等詳しく伝承されている。前後の状況からすれば、特に疑う理由もなかろう。

 清縄手合戦の通説的内容については、Wikipediaの安城合戦記事の中の第二次安城合戦という項の中に書かれていますが、かいつまんで述べると天文九年に奪われた安城城を取り戻すべく松平広忠が安城城に向け進発したものの逆に包囲されかけたので本多忠豊を殿軍にして撤退した合戦でした。本多忠豊は本多忠勝の祖父で清縄手という場所で戦死しております。私としてはここまで前後の状況について疑義を呈してきましたので、論文のコメントのみでは納得できませんので、考察を加えたいと思います。とりあえず私が調べた範囲では、論文が言う所の「詳しく伝承されている」内容は十八世紀以前に遡れないものでした。

〇松平記(1596-1615年(慶長年間)成立 安城市史5 資料編 古代・中世より引用)(拙稿にて下線部付記)
一蔵人殿御討死有しかハ、三河衆大かた御手に入ける、明年天文十八年、駿河今川殿仰るハ、何こそ安定の城を攻落し、三河一国平均に治めらるへしとて、雪斎和尚大将にて安定を攻らるゝ、岡の城をは早々に明渡し、安定には織田三郎五郎殿籠りしに、先手は岡崎衆大久保新八・阿部大蔵・本多平八郎を初として三百にて出す。
(中略)
二丸、三丸を岡崎衆破る、爰にて榊原藤兵衛・本多平八郎討死しける。

 本稿では本多忠豊だけではなく、その子息である忠高の死の描写も見てまいります。まず最初に慶長年間に成立した松平記ですが、ここには本多忠豊の死亡記事はなく、本多忠高の討死についてが書かれています。本多忠高は天文十八年の安城合戦(Wikipedia記事が言う所の第三次安城合戦)で戦死するわけですが、ここには後の史料には必ずでてくる扇の指物の話は含まれません。二の丸・三の丸を破る過程で本多忠高は死んだ旨が簡単に記されているだけです。

〇寛永諸家系図伝 (1643年(寛永二十年)成立 安城市史5資料編 古代・中世より引用)(拙稿にて下線部付記)
藤原氏兼道流本多忠豊譜
忠豊
 平八郎 吉左衛門
清康君につかふまつる。清康君扇の指物を忠豊にたまわりて屡軍功をはげます。
天文十四年、参州安祥縄手にをひて先登したゝかひ死す。

〇寛永諸家系図伝 (1643年(寛永二十年)成立 国立公文書館デジタルアーカイブより引用)(拙稿にて下線部付記)
藤原氏兼道流本多忠高譜
忠高
平八郎 扇のさし物を相伝す
廣忠卿につかふまつる
三州安祥縄手にて討死す

〇寛永諸家系図伝 (1643年(寛永二十年)成立 国立公文書館デジタルアーカイブより引用)
藤原氏兼道流本多忠勝譜
忠勝
 平八郎 中務大輔

(文禄二年の項:最終段落)
大権現ののたまわく扇乃さしものハ
当家の吉例なりこれを献じ
奉りたるわすなわち長井与次郎
をもつてこれをたてまつる

 十七世紀に伝えられる本多忠豊の事績記録で一番古いものが寛永諸家系図伝でした。ここでは安祥縄手であり、清縄手とは呼ばれておりません。また、この合戦が攻城戦であるのか、守城戦であるかも書かれていません。「先登」という言葉に敵城に真っ先に乗り込むことという意味もありますので、攻城戦と言えなくもないのですが、乗り込む先は城とは限らず敵陣に突っ込む場合も「先登」の言葉が使われますので、いずれとも判じ難いです。忠高は天文十八年の安城合戦ではなくいつ亡くなったのか記述が無くなり、ただ安城縄手にて討死すとだけ書かれています。

〇難波戦記巻第二十六(1672年(寛文十二年成立 国立公文書館デジタルアーカイブより引用)(拙稿にて下線部付記)
 御旗本合戦付扇子御指物之事
(中略)
庄田左衛門、朝倉藤十郎御旗奉行タリ大馬印ハ金ノ扇子七本骨
(中略)
抑此扇子ノ馬印ハ御当家御代々ノ御指物タリシカ、天文年中に御祖父清康公ノ御時、本多吉左衛門忠豊其比ハ未ダ平八郎ト云ケルカ清康公ヨリ件ノ扇子ノ指物ヲ玉ハリ度々ノ勇ヲ顕シケル天文十四年三州安祥縄手合戦ノ時、忠豊先登シテ討死シケレハ、其子平八郎忠高又扇子ノ指物ヲ相伝フ忠高ハ清康公ノ御子廣忠公ニ奉仕ス然ルニ天文十八年三月六日ニ廣忠公逝去アリ、
(中略)
三月十九日ニ義元ノ首将臨済寺ノ雪斎長老・朝比奈備中守泰能ヲ大将トシテ駿河・遠江・三河ノ軍等安祥攻ラルゝニ
(中略)
時ニ本多平八郎忠高先登ノ武威ヲ振、終ニ前嶋伝次ガ矢ニ中テ死ス、その子本多平八郎(中務大輔)忠勝其比ハ幼稚ニテ平八郎ト云ケルガ父ガ家督ヲ継、扇子ノ指物取伝ユ

(中略)
其後関ケ原一戦皆此指物シ武勇ヲ顕シケレバ、大御所件ノ指物ハ本是当家ノ相伝ニテ殊に忠勝勇ヲ顕シ人能ク見知リタレバ、上返スヘシト上意ニテ進覧シケルトゾ聞コエシ

 難波戦記は寛永諸家系図伝から二十九年後に万年頼方、二階堂行憲が著した大坂夏の陣、冬の陣を題材にした戦記物です。万年頼方は京都所司代板倉家の門客で、二階堂行憲は下野国壬生藩主阿部忠秋の家臣でいずれも大名に仕える身分であったようです。戦記物らしく色々脚色は加わっておりますが、忠豊の討死についての描写について、「先登」は「先登」のまま記述して大きな改変はしていません。忠高の方は松平記の表記を踏まえ、彼の死を天文十八年三月十九日の合戦とし、「先登ノ武威ヲ振」るって矢に当たって死ぬことになっています。矢に当たるということは城壁前に突出したところを射抜かれたという感じでしょうか。忠高の死地として設定した天文十八年の安城合戦は城攻めではあるのですが、松平記が「先手」の一人として大久保忠俊・阿部定吉らとともに出てきた忠高は「先登ノ武威ヲ振」るった者として難波戦記ではクローズアップされるという脚色が施されております。

〇貞享書上(1684年(貞享元年)成立 現存せず)

 万年頼方・二階堂行憲らが難波戦記を書き上げた十二年後に江戸幕府が国勢調査を行います。すなわち、大名・旗本をはじめ、浪人・御用達の諸家に命じてそれぞれの家譜を献上させたのでした。幕府はそれらを武徳大成記などの編纂に利用しました。元資料として集めた呈譜は江戸城内の紅葉山文庫に保管・管理されていたのですが、1873年(明治六年)の皇居火災にて消失したとのことです。なので、論文の安祥清縄手の戦いが「本多家などに十七世紀に伝えられたもの」であるとすれば、ここに書かれることが最後のチャンスのはずなのですが、現代の我々にそれを確認する手段はありません。

 十七世紀中の「安城清縄手の戦い」の表現だけでもかように揺れ動いております。そして、この時点においても、天文十四年の安城合戦が攻城戦か守城戦かは「先登」という単語の解釈にのみ依拠していますし、「清縄手の戦い」という名前すら出ておりません。これが「本多忠豊が戦死した戦いとして合戦場所等詳しく伝承されて」いくまでにいかなるプロセスを経てゆくのか次稿で引き続き見てまいります。

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2017年9月 2日 (土)

川戦:安城合戦編Ⅱ 6-2 天文十三年:井ノ口合戦と阿部大蔵の尾張表進出

 論文は、「天文十三年九月の美濃における織田信秀大敗は西三河に影響し、岡崎城主松平広忠による織田への反転攻勢を生じた。」とだけ記しております。

 その内容については過去に当ブログ「川の戦国史」の記事で詳しくやりましたので、詳しくはブログ記事ご参照ください。

 川戦:風雲編⑩天文十三年Ⅱ

 上記論文の内容は以下の史料を追いかけることで大体のことが判ります。

天文十三年九月二十三日付安心軒、瓦礫軒宛斉藤左近大夫利政書状写
天文十三年九月二十五日付水野十郎左衛門宛長井秀元書状写
天文十三年閏十一月十一日付水野十郎左衛門尉宛織田信秀書状
東国紀行閏十一月記述

 斎藤道三が美濃井ノ口(稲葉山城)の合戦で織田信秀の軍を破りました。斎藤道三は濃尾国境の反対側、尾三国境の勢力を動かすことでより大きな戦利を得ようと水野十郎左衛門尉(ブログ記事では水野信元に比定)に同心を求めて手紙を送り、それを松平広忠にも見せて尾張攻めを促します。しかし、水野十郎左衛門尉はその書状を松平広忠には見せず、織田信秀に送ることで旗幟を鮮明にしました。ちなみに、この年は松平家と水野家が手切れをし、松平広忠に嫁していた於大の方が離縁されて刈谷に送り返された事件のあった「竹千代殿御三歳の時(松平記)」にあたります。
 それとほぼ同時期に連歌師の宗牧が関東下向の旅に出かけておりました。彼は勅使を兼ねており、織田信秀に女房奉書を渡したばかりでした。次の配達先は岡崎の松平広忠なのでそこに向かおうとしたところ、常滑の水野監物から尾三国境で合戦が起こっているとの噂を聞き、注意するよう促されます。宗牧一行が岡崎に着いてみると、家老の阿部大蔵は留守で、兵を仕立てて尾張表に出陣した旨を聞いたのでした。

 論文では天文十二年までに安城城は織田の手に渡っていたと述べていました。それを前提として、阿部大蔵はいかなる手段で尾張表まで進出したかについて考えてみます。

 本稿ではより判りやすく地図をつくってみました。

 
Photo_2

 攻撃目標ですが、まず第一に考えられるのが、尾三国境の鎌倉街道沿いにある沓掛です。桶狭間合戦の前日に今川義元がここに入りましたが、鎌倉街道沿いにそのまままっすぐ進めば熱田・那古野に通じます。もう一つが水野氏の本拠地である刈屋・緒川です。両方の町は尾三国境を形成する境川の対岸にあり、まさに三河から見た尾張への入り口と言ってよい土地です。また、松平氏と手切れをして織田方についた者への報復としてはふさわしいものでありましょう。

【西ルート】
 岡崎から安城を抜け、池鯉鮒を突破してから沓掛または刈屋・緒川に至るルートです。このルートを取るためにはまず、織田家の手に落ちた安城を抜ける必要があります。そこを抜けて鎌倉街道を進むと最初に見える拠点が、池鯉鮒です。そこは永見氏の根拠地ですが、この時までに水野氏の傘下に入っておりました。
そこを突破してはじめて沓掛あるいは刈屋に至ることが出来るわけなのですが、安城・池鯉鮒の両城を蹂躙しないと退路を断たれる恐れがありますので、現実的ではありません。別名脳筋ルートです。

【北ルート】
 岡崎から矢作川を北上し上野城経由で挙母近辺を迂回したうえで沓掛に迫るルートです。西ルートに比べれば比較的安心できそうな感じではありますが、途中にある上野城の城主は桜井松平家次です。彼の祖父は桜井松平信定で、広忠の帰還によって失脚した親織田一門衆の重鎮でした。桜井松平家次はこの後、広忠に反旗を翻して蟄居させられ、三州一向一揆で松平元康(徳川家康)を敵に回して追放される憂き目にあいます。なので彼は潜在的反岡崎松平勢力の一角です。
 挙母を拠点にしているのは中条氏で、もともと室町幕府の奉公衆を務めた名族だったのですが、戦国時代に没落。その勢力の大半を三河の山岳地帯にある足助を拠点とした鈴木氏に吸い取られている状況です。松平清康の勢力が強かった時代には中条・鈴木両氏にゆかりのある猿投神社が清康に焼かれるなど、岡崎松平氏は彼らに恨みを持たれておりました。なので、挙母領を通過して尾張に進むルートは後背をつかれるリスクを覚悟しなければなりませんので、このルートも危険です。別名面従腹背ルートです。

【南ルート】
 岡崎から南下して安城の防衛圏を避けつつ油ヶ淵北岸から海岸線に沿って北上し、刈屋・緒川に至るルートです。途中までは宗牧が岡崎に入ったルートと同じなので安全であるかもしれませんが、逆に途中兵站線も含めて宗牧一行とかち合わなかったのが不自然です。水野監物から合戦の危険を聞かされていたのですから、そちらのルートを通ったのであれば宗牧も何らかの形跡を察知してそれを記録に残したのではないでしょうか。

 以上の論拠を以って天文十三年に安城城が織田家の手に落ちていなかったと考えます。安城城は松平広忠の属城として健在であり、阿部大蔵は鎌倉街道沿いに進軍して水野氏に属する池鯉鮒を脅かしたのが尾張表進出の実態であったと思料致します。

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