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2017年10月 1日 (日)

川戦:安城合戦編Ⅱ 6-8 天文十六年九月:渡河原合戦の前後

 論文における天文十八年九月二十八日に起こったとされる渡河原合戦についてのコメントを以下に引用します。

〇論文より引用
同時代史料はなく確かなことはわからないが、事実そのようなことがあったとして、これを
先述の脈絡で解すれば、いったん岡崎城を奪われた広忠が隙をついて城に復帰したので
信孝が牽制したという事になる。然し当然ながら、広忠は織田に降参していないという前提で
解することもできる。

 論文における本節の主旨は「天文十六年九月の織田信秀による岡崎城攻落」が既存の歴史記述のセンテンスに矛盾を生じせしめないかを検証するためだったと私は理解しておりましたが、この部分の記述については残念ながら判断基準が甘くなっているようです。
「いったん岡崎城を奪われた広忠が隙をついて城に復帰したので信孝が牽制した」という推論と「広忠は織田に降参していない」という通説を同列に並べることは無理があります。前者の推論には何の根拠も具体的な事実も提示されていないからです。

 それに天文十六年九月以前の設問設定と以降の設問設定では、問いの本質が異なります。以前の事件のタイミングでは、それぞれの事件が「岡崎城攻落」が起こるための要件と矛盾しないことを確認だけすればよいのですが、以降であれば、「岡崎城攻落」が起こした影響にそれぞれの事件が矛盾を生じないことが必要になります。

 その意味で渡河原合戦は松平広忠が岡崎城主であることが前提で伝えらえている事象であり、同じ九月に攻落があったとする仮説には真っ向対立するものです。仮説を立てて発表する時は、既存の通説と矛盾していることはないか、矛盾があるとすればどこがなぜ違っているのかを検証するべきでしょう。

 その記述がないため、残念ながら当該論文が提示した「岡崎城攻落説」はまさに論文の中で否定されていると評価せざるをえません。

〇天文十六年 十 月二十 日   松平広忠、松平忠倫暗殺の功により筧重忠に感状を発給。
 広忠の心が反織田の態度を肯定する立場を示すものとして、論文では挙げられております。過去の拙稿でも何度か引用しているので繰り返しませんが、「岡崎城攻落説」を報じた読売新聞記事を読んでまっさきに頭に浮かんだのが渡河原合戦と忠倫暗殺の件での広忠感状でした。これをどのように覆すのか、未発見の新しい資料にそれが書かれているのかなどと期待をしていたのですが、そのような論旨の展開がなかったことは残念です。

〇天文十六年 十二月  五年   松平広忠、松平清康の十三回忌供養に大樹寺へ寄進。
 この時点で松平広忠が岡崎に健在であったことは間違いないとの論文の言及について、土地の寄進は領主の権限の委譲ですから、権限を持たない者が土地の寄進を行うことは考えにくい。寄進した土地は「御寺近所」と書かれておりますので、大樹寺の近くにある岡崎城で健在であることと考えるのは妥当でしょう。

 上記二件についての論文のコメントは渡河原合戦における松平広忠の岡崎領主としての立場と資格を補強するものです。よって、私としては渡河原合戦・忠倫暗殺感状・大樹寺への寄進状の記述をもって「岡崎城攻落説」は否定されていると判断せざるをえません。

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