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2017年10月 7日 (土)

川戦:安城合戦編Ⅱ 6-9 史料解釈と史実とのかい離をどう埋めるか?

 本稿では第六節で展開された、史実とその解釈についての結論について見てゆきます。
 まず、この論文は結論に至るまでの論理展開が追いにくい構成になっています。なので、素材としては大変興味深いのですが、結論部分に明快さを欠いていると素直に思います。

 菩提心院日覚書状と北条氏康書状が本論文の骨子であり、日覚書状の作成日を天文十六年としたことには素直に納得できました。ただ、氏康書状を再評価するにあたって、本論である「岡崎攻落」とは直接関係ない過去解説の記述についての言及は本来であれば補注で補うか、氏康書状の再評価を目的とした補論として別論文でやった方がよかったのではないかと思います。氏康書状については、安城市史の解説記事を読むことで色々刺激を受けて、ブログに記事を書いたこともありましたから、それなりのこだわりをもって読ませていただきましたが、それが災いしたのか、紹介された書状の記述から立論される段に、菩提心院日覚書状の内容についての印象が薄らいでしまい、それを前提とした論理展開が追い辛かったです。

 また、意図されているのかどうかわかりませんが、状況を説明する言い回しが途中で変わることで検証が終わっていないと思っていたことが、いつの間にか論文中の確定事実となっている部分も散見されました。具体的には氏康書状には岡崎城を押さえた(と読める)部分から、「岡崎城を確保した」と最初に要約したものの、日覚書状には岡崎が降参した(と読める)部分をふまえてか、論文内の要約はいつの間にか「岡崎城を攻落した」に変わっておりました。一段落増やせば事足りるのですが、それがないため論旨の理解に手間取りました。

 論文の第六節は、その仮説が通説として伝えられている史実に対して矛盾はないかという点を検証していますが、矛盾がありそうな記述にぶつかった時にどうも仮説の方を修正しているように見えます。私自身研究者の論文を読み慣れていないので、そのような書き方も実際にはあるのかもしれませんが、理解するのが大変でした。あらましとらえた仮説の修正過程は以下の通りです。

①天文十六年九月上旬に岡崎城が織田の攻撃にさらされたのは確実
②しかし岡崎攻落までは断定できない。
③広忠降参があったとしても、すぐに復帰した。
④復帰は反織田をやめると表明したからというケースもありうる
⑤広忠城主復帰と外交姿勢は一致するとは限らない。
⑥よって広忠は反織田の姿勢を対外的に示していたかは疑問

 広忠方は論文の言う「降伏」後に織田方についた同族の松平忠倫と信孝を討ち取っているので反織田の姿勢を対外的に示してはいないという論文の指摘には大いに違和感があります。
 ①は日覚と氏康書状の読み方次第でひっくり返りうるのですが、ロジックとしてはありです。②は渡河原合戦をはじめとする反証史料があるので、そう判断するのは妥当です。③と④は根拠となる史料の提示はなく、憶測に憶測を重ねています。③と④の想定に入る前に潰しておかねばならない別の可能性を考えると気が遠くなります。⑤と⑥は③と④の想定を受け入れて初めて成立するものですから、この部分のロジックについては脆弱であると指摘せざるを得ません。

 この論文は結論に至る論理構成に難があります。新たに起こした史料の解釈が史実とは不整合なものであったなら、不整合な史実を組み込んで論理展開をするか、そもそもの解釈を疑ってみる必要があるのではないかと思います。

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