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2017年10月14日 (土)

川戦:安城合戦編Ⅱ 第8節の考察:松平広忠は何故死んだのか?

 本稿は論文第8節:「松平広忠の病死」について考察するものです。

 本節の論文主旨を私なりに要約すると以下の通りとなります。
 これまでの研究では、織田の陰謀として片目八弥による広忠殺害を説くものが多いが、それはむしろ後代の付会説に引きずられた論というべき。広忠病没説に疑問を差し挟む理由はないとする。

 論文の最初に合歓木松平信孝が戦死した耳取縄手合戦についての言及があるのですが、ここで一つ気になることがあります。
 それは耳取縄手合戦を記した諸書がこれを松平信孝が岡崎を攻略しようとした中で起こった合戦としてますが、それは果たして本当なのだろうかということと、岡崎を攻略するつもりなら、岡城の松平信孝はなぜ下之瀬(渡河原)から明大寺に向かったかということです。明大寺へのルートは松平記・三河物語にはないのですが、岡崎領主古記には羽根経由で明大寺に向かったという記述があるらしい(安城市史5資料編 古代・中世参照)。前年に起こった渡河原合戦では松平広忠は渡河原まで進出しています。ということは、その時点では松平広忠は明大寺から六名までの鎌倉街道を押さえていたことがわかります。

  六名の南方に上和田砦がありますが、その時までに守将佐々木松平忠倫を暗殺して一時的に砦の機能を無効化していたと思われます。上和田砦はその後の第二次小豆坂合戦で織田信秀が使っていますので、この時は陥落まではさせていなかったとみてよいでしょう。仮に松平信孝が六名から明大寺に向かったとしても、しかも最初の戦場となったとするかぶと山(円入防山、絵女房山、吉祥院あたりで明大寺の東方に位置)は西方から入って岡崎に向かう渡河ポイントとしては東にずれています。なので六名から川沿いに明大寺に向かった訳ではないと言えます。とはいえ、その明大寺から岡崎城へ向かうには乙川を超える必要があります。明大寺に松平広忠の守備拠点があったとすれば、そこを完全に押さえてからではないと渡河はおぼつかないでしょう。逆に退路を断たれる危険もあります。よって、かなり無理のある進軍ルートだと思います。

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 そんなことをしなくとも、岡城から岡崎城を目指すにはもう一つ矢作川の渡河ポイントがあります。それは、矢作を経由することです。矢作川西岸は織田方の勢力圏なので後背を気にする必要はありませんし、ここも古代から渡河を前提とした街づくりがされており、そこから渡れば岡崎城は目の前です。少なくとも両岸が敵地である明大寺あたりとは渡河のしやすさは違ったはずです。
 だとすれば、松平信孝はなぜ明大寺に向かい、さらにそこから円入防山(絵女房山)へ向かったのか。信孝の目的が岡崎攻略ではないという前提で考えれば、明確になります。すなわち、鎌倉街道を明大寺、円入防山(絵女房山)を経由した先にある織田方の大平砦の救援です。そのあたりは、松平記・三河物語等この戦いを記した書物にも言及があって、松平記は以下のようないい方をしています。

〇松平記 安城市史5 資料編 古代・中世より引用
 蔵人殿ハ明大寺を出て、かふと山に御出之自分、七十人余人一同におめいて懸り、
一矢射て明大寺の町へ入、菅生の河原へ切り抜けまた取って返す、蔵人殿追懸給ふか、
町に火をかけ引き取り候ハ、苦しかるましきに、

 松平記はこの段の頭の部分で岡崎奪取が目的と言いつつ、明大寺の町を焼いて撤退しておけばよかったのだと言っています。これは、明大寺を焼く、つまり乙川対岸の松平広忠の拠点を潰すことを意味します。
 安城市史5 資料編 古代・中世が岡崎領主古記及び岡崎古記の内容としている解説ではもっと明確で、羽根山から北上する信孝軍を広忠軍はこうべ塚(異名は麝香塚、現在の岡崎市立三島小学校東隣)で襲撃を受け、そこから明大寺に誘い込まれ、そこを放火している最中に矢で撃たれて死んだということらしいです。
 ここでは、正田原(生田原)と岡崎城を結ぶ切所が最初の戦場となっており、松平軍は明らかに今川方についていて、織田方として鎌倉街道を封鎖しようと動いております。南側には正田原(生田原)に今川方がいて、大平砦を建てた松平信孝としてはこれを分断する必要があったと考えられます。

 耳取縄手合戦は江戸期成立の史書の中にしか書かれていません。しかし、松平広忠の旗幟はその史書の中に語られている松平信孝がとった行動によって明確に示されていると私は考えます。そもそも松平信孝は安城守備に必要不可欠な岡砦を任されている織田方の部将です。そんな要地を任されている部将が一門内で主導権争いをしているのを安城の織田信広は指をくわえてみていたのでしょうか。松平広忠が織田の軍門に降ったなら主導権争いで合戦になる前に信広か信秀のもとに仲裁の訴えが入ったはずですが、そんな形跡はありません。

 論文においてはこの後松平広忠の暗殺説が否定される方向で論証が進んでゆきます。小豆坂合戦という三河支配の雌雄を決する大事な戦いがある折に、渡河原合戦以降松平広忠の出陣記録はないので、私自身も病死説で問題はないだろうと思います。その原因が何らかの死病に罹ったのか、松平記にある片目八弥による襲撃の折に負った傷が原因なのかはわかりません。論文は織田方が松平広忠を暗殺する理由が見つからないと述べていますが、岡と上和田という織田信秀の三河進出にとって重要拠点である岡と上和田の城将を殺害して安城城の安全を脅かしているのですから、理由がないとまで言うのは言い過ぎだと思います。
 と言うか、織田方には広忠を暗殺して信孝を後見に竹千代を岡崎城に入れる選択肢があったはずです。それは阿部大蔵を後見に仙千代(広忠)を岡崎に入れて西三河を今川方にした手口と同じものですから、実際にその手をとるかどうかにかかわらず、竹千代を手元に置く意味はありました。広忠死後に太原崇孚は岡崎城に入城しましたが、そこに正当性は担保されていません。故に安城を攻撃し織田信広を捕虜にして人質交換の形で竹千代を手に入れる必要が生じたのです。
 対する織田側は安城城を確保できていれば、矢作川東岸への再進出のチャンスが生まれます。安城確保が長期に及べば、竹千代を城主にした上での調略工作もありえたのではないでしょうか。織田家は安城を失って松平家に干渉する足掛かりを無くすことで初めて竹千代を人質にとることの戦術的意味が失われた訳で、これを後世の付会というのもまた、言い過ぎだと思います。似たような感じで吉良家からとった人質をそのまま織田家の家臣にしてしまった西尾吉次のような例もありますので、織田信広が捕虜になりさえしなければ、松平竹千代はそのまま尾張で織田信長に仕えていた可能性は高かったと思います。
 結論として、松平広忠暗殺について、織田方に動機がなかったとするのは言い過ぎです。しかし、暗殺が行われたのが広忠の命日である天文十八年三月六日とするのは根拠がない、とするのが妥当でありましょう。

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