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2017年10月15日 (日)

川戦:安城合戦編Ⅱ 最終節の考察:いかにして竹千代は人質になったか?

 本稿は論文最終節:「おわりに ―人質竹千代の真相を推理しつつ―」について考察するものです。

 論文の最終節の内容を要約すると以下のような感じになります。
 竹千代拉致を行ったとされる田原戸田氏については、それを行ったこと自体が自爆であり実際の動機は不明で謎が多い。そうした通説と比して、天文十六年九月、織田信秀が松平広忠を「からゝゝの命」に追い込み、竹千代を広忠から差し出させたと見るのは、確証はないにしても、状況としてはるかに合理的で無理のない想定と言える。

 論文で提起された天文十六年九月上旬の織田信秀による岡崎攻撃説は視点がやや織田信秀に寄りすぎているような気がします。論文説を前提に述べますが、竹千代拉致が戸田康光の自爆と言うなら、織田信秀との示し合わせがあったとしても、田原で蜂起することもまた自爆と言えるでしょう。今橋(吉田)に拠点を持つ今川軍にとって、岡崎と田原どちらを先に攻めるか考えれば、向後の憂いを無くすためにまず田原を攻めることは必定でしょう。論文の想定では今川軍に対する戸田康光の対抗策がないのに今川に反旗を翻したことになります。太原崇孚は医王山砦を守っていた天野景泰と松井宗信を呼び戻して易々と田原を攻め滅ぼしております。これが織田信秀の岡崎攻撃を援護するために戸田康光は田原戸田家を滅亡させたと言うなら、戦国領主としてはお人よしすぎると言わざるを得ません。この想定には無理があると私は思います。

 以下は私の見立てです。
 戸田康光が今川に反旗を翻した理由を考えるに、それはやはりそこに勝機を見いだしたと考えるのが妥当でしょう。織田信秀との連携は当然ありえたと考えた場合、彼の心が動かされる言葉を織田側から聞いたと考えるのが妥当と思います。それこそが菩提心院日覚書状で述べられている「駿河衆敗軍」であったはずです。私はその言葉は織田信秀が三河中の国人衆に向け発せられ、京と往還している在地の陣門法華僧侶がその情報を鵜殿氏から聞いたものと解釈していますが、論文では京に上った織田氏の誰かから陣門法華の僧侶が聞いた話としています。いずれにせよ、越中の日覚の耳に入るほど喧伝されていたことは間違いなく、その言葉を戸田康光が聞いていたことはありうる想定でしょう。
 では駿河衆敗軍の中身が岡崎の松平広忠の降参であるかと言えば、恐らく違うと思います。松平広忠は戸田康光の娘婿ですが、彼のことを駿河衆とは呼ばないはずです。せいぜい「駿河方」になるくらいでしょう。論文は松平広忠は織田信秀に降参したと解釈しておりますが、それが事実だとすれば、それもまた織田方によって喧伝されていることになります。それはすなわち今川軍が松平広忠を救援するという大義名分を失っていることになります。しかし、それにもかかわらず翌年三月に小豆坂合戦は起こっているのですから、「松平広忠は織田信秀に降参した」という解釈もまた疑うべきです。
 ではいかに解釈すべきか。それは「松平広忠は織田方への降参者によって命からがらの目にあわされている」という通説によりそった解釈です。岡崎がこの状態であったため今川軍は医王山に砦をたてて救援に向かおうとしたわけです。その結果が「駿河衆敗軍」という解釈は十二分にありえるものだと私は考えます。

 「駿河衆敗軍」とは何を指すのかについて、私は牛一信長公記に記されている某年八月上旬の小豆坂合戦がそれにあたるものと考えています。これは決して根拠なく言っているわけではなく、同時期である八月二十五日付の今川義元が山中砦を警護する奥平仙千代と藤河久兵衛(奥平貞友)に出した判物に「当国東西鉾楯雖有時宜変化之儀」と書いていて、書状が書かれた直前に東西両勢力の鉾楯、つまり戦闘があったことが示唆されています。この判物は戦争があって状況が変わっても、先に宛がった知行は保証するから忠節を尽くせ、という内容だったのですが、翌年一月の判物で藤河久兵衛(奥平貞友)が結局今川に対して謀反を起こしたことが記されています。

 書状には「東西鉾盾」とあります。医王山から見て東は今川とすれば、この時代西は織田と考えるのが妥当でしょう。山中に知行を持つ藤河久兵衛が今川に対して謀反を起こしたとすれば、織田信秀の東三河入りが視野に入ります。これに期を合わせれば田原で蜂起した戸田氏にも勝機は見いだせたのではないでしょうか。
 ただそのような想定は実現することなく、織田信秀は天文十六年八月上旬の小豆坂合戦には勝利したものの、実際には今川軍の主力を補足できておらず、藤河久兵衛の山中領での謀反も不発に終わり、戸田康光は単独で今川と戦うことを強いられてしまいました。そのような状態であっても西郡にいた鵜殿氏の立場からすれば、小豆坂での東西鉾盾で「駿河衆敗軍」した結果、西三河は織田に押さえられて、医王山砦で藤河久兵衛(奥平貞友)が反乱を起こし、東三河の田原で戸田康光が今川に反旗を翻したとなれば、織田による「三州平均」がなったように見えてもおかしくはなかったでしょう。

 私の想定では織田信秀は岡崎の松平広忠本人を降参させたわけではないので、広忠が竹千代を信秀に差し出すことはなかったと考えております。なので通説通り竹千代は今川方に差し出されたのでしょう。織田家と敵対することを決めて今川家に頼るということは三河国人衆の中でも織田方についている者の領地を通過するには危険が伴います。天文十五年には東三河の長澤(現在の愛知県豊川市)を根拠地とした長澤松平氏とその与同勢力が織田方についていたことが牧野康成条目写にて示されています。それは松平信孝ら織田方の使者を通して今川義元にも伝えられていたことでもあるので、公知の事実でした。当時三河国から遠江国への国越えルートは今橋(吉田)から本坂峠を超えて浜名湖北岸に至る姫街道を通るルートと海伝いに国境を越えて浜名湖南岸の今切を抜けるルートがありました。岡崎から姫街道ルートに至るには乙川沿い南東にある織田方の大平・作岡砦を過ぎて三河山地を経由してさらに織田方の長澤松平氏の領地を通らねばなりませんので危険があります。
 大浜に出てそこから船を使う手もありますが、中途の上和田にも砦を作られてしまっています。残るルートは岡崎城からまっすぐ丘陵地の尾根伝いに南下し、深溝経由で蒲郡に至り、そこから水路により渥美湾経由で海岸線ルートに入るのが最も安全と想定されたのは自然な流れだと思われます。途中鵜殿氏と戸田氏の領地を通過することになりますが、鵜殿氏は天文十六年になっても「尾と駿と間を見あはせ(日覚書状)」ている状況で織田方についている様子はありませんでしたし、戸田氏は松平広忠の岳父でした。竹千代人質事件は三河湾南東岸の大津(老津)から駿府に向かう所を、謀反を考えていた戸田康光によって横取りされたとする三河物語の記述の通りでしょう。それは自爆覚悟の自暴自棄に陥った蜂起などではなく、長澤・山中の織田与同勢力の存在と天文十六年小豆坂にて「駿河衆敗軍」があったとする織田信秀の宣伝に促されたものであったと考えるのが私にとって一番スッキリするシナリオです。

 私は小豆坂合戦を天文十六年八月上旬から天文十七年三月十九日までの幅を持った抗争であると想定いたします。織田信秀にとっては、岡崎をめぐる状況が変わったわけではないので、このまま岡崎に圧力を加えておけば再び今川軍をつり出すことが可能であると考えていたのでしょう。天文十七年三月に再び小豆坂で東西鉾盾がありましたが、この時に織田軍は「駿河衆敗軍」のような具体的戦果をあげることが出来ませんでした。牛一信長公記はこの状況を「前後きびしき様体」とのみ記しましたが、三河物語は信長公記が三月十九日の合戦をほぼ記載のないのを咎め、逆に八月上旬の合戦を省いて「三河で小豆坂の合戦と呼び伝えられているのはこのことだ」としたのでしょう。そのネタ元は「松平記」であったと思われますが、松平記には八月上旬の戦闘を松平一門が誰も参加していない故に省いたのでしょう。

 以上を以って論文についての考察を終了したいと思います。
 次稿と次々稿にて小豆坂合戦天文十六年説の補足とあとがきを記して本編の締めといたします。

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