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2017年10月 8日 (日)

川戦:安城合戦編Ⅱ 第7節の考察:小豆坂の戦いの時、松平広忠は何をしていたか

 本稿は論文第7節:「小豆坂の戦いにおける松平広忠の動向」について考察する物です。

 「三河物語」、「松平記」の記述より天文十七年三月の小豆坂合戦において、松平広忠は今川方として全く機能しておらず、この戦いで広忠が今川方に属したとする通説には大いなる疑いがある、と論文は指摘しています。結論に至るまでの論理展開は以下の通りです。

①「岡崎衆」は遅くとも織田信秀の上和田砦着陣以前の段階で岡崎を離れ、藤川の今川軍に合流していなくては、朝比奈信置配下に入ることが出来ない。
②「岡崎衆」といいながら、いずれの書にも松平広忠は登場していない。朝比奈信置配下に「岡崎衆」がいたとしても、それは広忠に率いられた本体では決してあり得ない。
③広忠は、織田信秀の小豆坂→上和田→安城への退却を傍観していたことになる。事実傍観していたとなれば、それ自体今川への背信にほかならず、事前の織田への内通があったことを意味する。
④①~③までで松平広忠は今川方として全く機能していない。
⑤天文十七年三月に再度安城に来た織田信秀によって、岡崎衆は織田軍の戦闘配置のうちに組み込まれたとすれば前述の諸矛盾はすべて消える。
⑥小豆坂合戦のとき、今川軍として働いた「岡崎衆」がいたとして、それは岡崎離反浪人衆であろう。

 前節のような論旨のブレはないのですが、いくつか気になることはあります。それは松平広忠には天文十六年九月二十八日にあったとされる渡河原合戦以降、戦場に出たという記録がないのですね。小豆坂合戦のみならず、天文十七年四月十五日の耳取縄手合戦においても明大寺の守備兵が放った矢に合歓木松平信孝が当たったまでで、松平広忠本人が前線に出て戦った訳ではありません。にも拘らず、筧重蔵への感状や大樹寺への寄進など岡崎城主としての業務はこなしていることを考えると、この時松平広忠は戦場に出られる体調ではなかったと考えるのが合理的ではないでしょうか。松平広忠は天文十八年三月六日に没しています。その原因が片目八弥(岩松八弥)による刺殺か、病死かは明らかではありません。刺殺でなかったとしてもそれを原因として病床に臥せった後に亡くなったという説もあります。

 原因は確定できませんが、天文十七年三月の時点で松平広忠の死期は迫っていたと考えると①、②については特に問題ないと思います。③についてですが、それはあり得たかもしれません。しかし、小豆坂合戦は松平記・三河物語で語られている通りの遭遇戦であり、その日、その場で行われると予定されている合戦ではありませんでした。織田信秀の撤退もその日のうちに行われています。またその撤退は岡崎勢単独で何とか出来る規模の軍勢ではなかったはすです。今川の援軍と連携を取れずに動くことは各個撃破の餌食になることと同義ですから、さしたる根拠なくそれを背任とか、事前内通とかいうのは言い過ぎではないかと思います。

 それにこの局面で勝利を欲していたのは今川軍よりも、織田軍の方だったのだと思うのですね。以下の史料に見える勝利に執着する織田軍の様子が見て取れると私は思っております。

〇永禄三年十二月二日付松井八郎宛今川氏真判物写 戦国遺文 今川氏編第二巻より引用(拙稿にて下線部付記)
父左衛門佐宗信及度々抽軍忠之事
(中略)
一松平蔵人・織田備後令同意、大平・作岡・和田彼三城就取立之、醫王山堅固爾相拘、其以後小豆坂、駿遠三人数及一戦相退之故、敵慕之処、宗信数度相返条、比類無双之事
(後略)

 これは先にも引用した松井宗恒宛の今川氏真軍忠状で宗恒の父である宗信の軍功が書き連ねてあるのですが、小豆坂合戦で両軍が退く間に織田軍が追いすがってきたのを松井宗信が殿軍を引き受けて追い払いました。三河物語では双方押し合いになって、織田方の名のあるものが多く討ち取られたから今川方の勝ち判定をしていて、どちらかの軍が崩れた形になっているわけではないのですね。『天文十六年八月上旬の小豆坂合戦』において、織田信秀は『駿河衆敗軍』を宣伝して藤河久兵衛と戸田康光を味方につけることに成功しました。しかし勝利したとはいっても、実際は今川軍の主力までをおびき寄せることは出来なかったようです。『天文十七年三月十九日の小豆坂合戦』においては、今川義元の側近中の側近、太原崇孚の出馬を得ることは出来たのですが、前回の合戦に匹敵する勝利が得られませんでした。これでは織田信秀に同調する勢力も現れそうにないのです。撤退戦においても勝利を狙う兵が出てきてもおかしくはないでしょう。
 それに小豆坂合戦後に松平広忠は何もしていないわけではありません。明大寺に進出し、残存する織田方砦の一つ、大平砦に対して正田原の今川勢と一緒に圧力をかけていました。これを救うために合歓木松平信孝が出陣して生じたのが耳取縄手合戦です。

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