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2017年10月22日 (日)

川戦:安城合戦編Ⅱ あとがき

 本編川の戦国史 安城合戦編Ⅱ全体を通して描写したかった自説のあらましは「最終節の考察:いかにして竹千代は人質になったか?に書いておきましたが、そのエッセンスを数行に圧縮すると以下のようになります。

 論文が菩提心院日覚書状の年次を天文十六年とした慧眼は評価するも、駿河衆敗軍=松平広忠の織田信秀への降参説は渡河原合戦や松平忠倫暗殺に対する筧重蔵への感状の存在から違和感がある。降参説の元となった日覚書状の部分は織田に降参した松平一門衆(信孝・忠倫)らが松平広忠を追い詰めたことしか言っておらず、駿河衆敗軍は松平広忠の降参ではない。とすれば、その敗軍が意味するところは八月二十五日付奥平仙千代・藤川久兵衛宛今川義元書状に書かれた「東西鉾盾」が該当し、それが意味するところは第一次小豆坂合戦である。

 本編の目的について弁明しておきますと、これは決して批判をする為のものではなく、あくまでも別解を得る為のものです。私自身歴史解釈は複数あっても構わないと考えており、「常山紀談」のような江戸期後期に現れる微に細に穿った戦国豪傑たちの出所の怪しいエピソードや、日本人が日本人である為に必要な国民の歴史である「国史」を含めて共存は可能であると楽観しております。
 ではなぜこのような長文を垂れ流したかと言うなら、まずは論文の記述内容に違和感を抱いたからです。違和感があるということ自体は、論文を読んだ直後に記した「今年発表された中京大教授の新説」という記事に書きましたが、長文の論文を評するには個別の論点を粗々に抽出するのが手いっぱいで、違和感を払拭するに至っておりませんでした。

 論文記述への違和感を俎上にあげてそれに対する自らの見解を示す形でブログ記事をあげてゆく試みは既にありました。何分もとの論文自体が長文であり、中途に論者自身が過去に示した説の修正が差しはさまれたり、論旨の流れに飛躍があったりして全体像を捉えづらいものでした。読んで感じた違和感を論点にしてそのまま反論を加えるスタイルでは、かえって評者の立ち位置が見えづらくなってしまうことが懸念されました。
 そこで論文の節ごとに論点を抽出し、どのような文脈でその論点が提示されているかを示しながら自らの見解を述べてゆくことにしました。すなわち、構成を元論文のそれに合わせて同じ順番で見解を述べてゆくことで自分自身の論文に対する理解を深めると同時に、自説が何を対象としたものであるかを明確にできるのではないかと考えました。同時に思いつきで反論しても見解の一貫性は担保できない、要するに論点Aでは右の立場から評して、論点Bでは左の立場で評するのでは散漫な印象になってしまいますので、予め立てた仮説に基づいた視点から論評することに致しました。
 その第一が平野明夫氏が「三河松平一族」という本で提示していた安城落城天文十六年説であり、第二が菩提心院日覚書状の文面から推測して導き出した第一次小豆坂合戦天文十六年説の仮説でした。正直に言うと思いつきレベルでは事前にもっとたくさん仮説を立てていましたが、史料と突き合わせて矛盾を感じて捨てた仮説も数多あり、最終的に残ったものが上記の二つです。
 安城落城天文十六年説について論文が提起した「安城者要害(安城は要害なので:北条氏康書状)」という読み方を平野氏が是としているかどうかは私は知りません。しかし、「岡崎ハ弾江かう参之分にて、からゝゝの命にて候(日覚書状)」に論文以外の別解があり得るのであればまだその命脈は保っていると私自身は判断しております。その判断の基準は違和感を抱かないかどうか、言い換えるなら自分がその説に納得できるかどうかでした。

 本当は論理的整合性と言い切ることができたならかっこいいのですが、歴史考察を突き詰めて考えるとそれはどう考えても不可能です。例えば古証文という史料について、私の考察はもとより論文も含めてその史料集の成立経緯については一切触れておりません。なのでそこにそれらしく納められている書状が本当に関東の戦国大名の意思を示したものであるかどうかまでは判りません。私は本編の中でその書状をもっともらしく現代語訳して論文解釈に難癖をつけているものの、それは素人が片手間で行っているものです。私が論文を読んで感じた違和感は、歴史の専門教育を正しく修め、数多くの古文書に実地に触れ、先行研究の論文を系統立てて学んでゆくことで解消してゆく類のものに過ぎないのかもしれない、ということは常に自戒しておくべきことと承知しております。

 しかしそれは結局のところないものねだりなので、今自分が持っているもの、図書館等に通って自分が手に入れられるものを所与として、妥当性ある落としどころを探った結果が本編です。そしてその作業は私にとって実に心地よいものでした。思わぬ発見や学びがたくさんあり、正直言って大変楽しかったです。本編で立てた別解については十全なものであると思っているわけではありませんが、ある程度納得できるものであると思っております。とは言え安城城陥落時期について一応の理屈はつけたものの、十二分な実証を施せたわけではないのが難しいところです。一応甫庵信長記が成立する以前に安城城落城が天文九年ないしは天文十二年以前としている史料は確認できていません。とはいえ、史料の成立が遅いというのは疑う理由にはなっても、それだけで否定する根拠にはなりえませんから、それが私に十分な納得感をもたらしていないのは事実です。

 いずれにせよ、天文十年代の東海地方の歴史においてはここ十数年の間に種々刺激的な新説が提起されております。今後も目からうろこが落ちるような革新的かつ強力な説得力を備えた新説に出会えることに期待して、本編の締めとさせていただきます。拙稿を読んでいただきましてありがとうございました。

 

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