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2017年10月22日 (日)

川戦:安城合戦編Ⅱ 索引

 おまけとして各稿の要旨を数行にまとめ、索引として一稿設けました。これで本編の全体像を俯瞰できるようにするつもりだったのですが、思いの外長文になってしまい把握どころではなくなってしまっていて恐縮です。御参考としていただけましたら幸いです。

0   まえがき及び参考文献
 本編の目的が2015年3月15日発行の『中京大学文学会論叢』第一号(2015~)に掲載された村岡幹生教授の論文「織田信秀岡崎攻落考証」についての再検討にあることを明記し、それに使用した参考文献を列記。
 

1      第1節の考察:日覚書状はいつ書かれたか?
 日覚書状作成は天文十六年という論文の年代比定は延暦寺と洛中法華との和睦があった当時の情勢にも合致。但し、書状の言及範囲は九月に限定されず、八月時点も及びうるので、信長公記が言う某年八月にあったとする小豆坂合戦もまた可能性として視野に入る。
 

2      第2節の論点抽出:日覚の弾正忠三河侵攻情報はあてになるか?
 論文第2節「織田信秀の三河侵攻情報の信憑性」の論点抽出

〇菩提心院日覚書状(抜粋)の最新拙訳案
一、三河は駿河衆の負け戦のようです。
  弾正忠はとにもかくにも(尾張)一国を管領していて、その威勢は前代未聞の様だと噂されています。
一、この十日ばかり以前に京都から楞厳坊が罷り下っております。厳隆坊も同行しています。
  心城坊は昨年の冬より今まで当国(越中国)に滞在しています。
  ある成り行きで、美濃から越中への上使の養雲軒という人の縁者が、最近檀越との間の使いをして
  くれていて、この人でなくては成り立たなくなっています。
一、彼の楞厳坊が申し来ることには、鵜殿の様子はよくないように話をしております。
  その理由は鵜殿は尾張守護・守護代と駿河守護の情勢を見比べて、色々上手くやっておられていた所に、
  今回、思いの外東国が負け戦になったことについて、
 (鵜殿は)弾正忠の事を一段の曲なし(交渉相手としての旨味のない人物)とお思いなっています。
  おそらく弾正忠は鵜殿の地をも今頃は攻め入ろうとしているのではないかと楞厳坊は話しています。
  あまりに心許ないので近日心城坊を鵜殿の元に差しやるつもりでおります。
  岡崎(松平広忠)は弾正忠へ降参した者達(広忠の旧臣達)により、命からがらの目にあわされております。
  (駿河衆の敗軍により)弾正忠が三州平均をしたその翌日に(鵜殿にいた弟子達が)上京しました。
  その情報を持って楞厳坊が私に話を聞かせてくれたのです。
  万一の事があれば、我が門流の力は落ちて内実ともに悔しい思いをすることでしょう。

 

2-1 日覚は弾正忠がどの一国を管領すると言っているのか?
 論文はこの「一国」を三河国とするが、別解として織田信秀の故国である尾張国を指す可能性もある。
 尾張出身の日覚にとって小勢力だった信秀がいつの間にか、駿河太守の今川家と対等に伍したその威勢を「(尾張)一国管領」「前代未聞」と表現したとしてもおかしくない。

 

2-2 誰が誰の事を「愛想なし」と思ったか?
 敬語表現から一段の曲なしとお思いになったのは織田信秀ではなく、鵜殿氏である。日覚は信秀に対しては敬語を使っておらず、鵜殿には使っているので、鵜殿による信秀への評価である可能性がある。



2-3 日覚は本当の事(岡崎降参、弾正忠上洛)を書いているのか?
  日覚書状に書かれた弾正忠上洛について、主従ではない尾張勢力のとりまとめ役が合戦直後に戦場を離れて上洛すること。当時の畿内は諸勢力入り乱れて混とんとしていて不安定な状況であり、上洛すること自体の意義について疑問を提起。

 

2-4 日覚が聞いた話の出所と経緯はどうなっているのか?
 弾は(「弾が」の誤記?)三州平均せしその翌日に(日覚の弟子達が)京に上り候
 織田信秀は尾張国守でもないので、戦勝後即上洛は困難だとすれば、上記のように解せざるを得ない。織田信秀が上洛していないのであれば、上洛したのは陣門流の坊主衆と考えるのが自然である。


2-5  論文が日覚書状から読み取ったこと。読み取っていないこと
 日覚書状が書かれた天文十六年の九月又は八月頃に織田信秀率いる尾張と駿河の両勢力が雌雄を決す合戦に及び、その勝敗が定まった(駿河衆敗軍)とすれば、それは日覚が三河に国主が定まったと判断するにふさわしい状況。すなわち、牛一信長公記が年未詳八月上旬にあったとしている、第一次小豆坂合戦ではなかったかと考える


3   第3節の論点抽出:北条氏康書状のプロファイル(その1)
 論文第3節「織田信秀の岡崎攻落を伝える別文書」の論点抽出

〇北条氏康書状(写)の最新拙訳案
お手紙にある通り、近年は遠路の為遠路の為行き来もなかった所に、
懇切丁寧な事に使者を遣わしていただいたのは祝着な事です。
三州についてですが、去年駿州へ相談無く彼の国(三河)が起こした軍に向かい
安城の要害を即時に破られたとのこと。毎度の御戦功は素晴らしいものです。
殊にあなたは岡崎の城を其の国(駿河)より押さえ込み、
駿州も今橋を思い通りするようになって、
それ以後万事其の国(駿河)と仲違いが生じたようですね(相違之刷候哉)、
そのせいで、あなたが彼の国(三河)に詰めることとなった旨承りました。
やむを得ない事情です。
なかんずく、駿河と我々の関係についてお尋ねいただきましたこと。
近年我々は彼の国(駿河)と一和を遂げたとはいえ、彼の国(駿河)よりの
疑心はやまずに迷惑をしております。
拠って清州よりのお使い並びにあなたからの手紙をいただきかたじけなく思い、
御礼をこれより申し入れます。委細は使者よりお伝えいたします。
恐々謹言

十七年
 三月十一日        氏康 在判

 織田弾正忠殿
       御返報


3-1  北条氏康書状作成の背景について
 天文十七年三月十一日付織田の弾正忠宛北条氏康書状が書かれた時代背景並びに、典拠史料である「古証文」の現存状況についてのあらましについて記述する。


3-2 織田信秀は出兵を今川義元に相談したのか?
 論文の言う古証文の原本は正体不明。「〇相談」の部分を「相談せられ」と読むのか「相談なく」と読むのかは、少なくとも現存する三つの古証文写本の来歴を可能な限り調べた上で判断すべきと考える。


3-3  ①『古証文』の底本は何か?
 古証文の字体判断は、論文内に来歴の情報がない『古証文原本』ではなく、書写時期の不明な旧蔵所不明本より、朝野旧聞ほう藁の編纂前に確実に存在したことが判っている大久保酉山旧蔵本を基準とし、現存古写本三種の内、「〇相談」の部分の〇の字が最も「被」に近い旧蔵所不明本を論文の言う『古証文原本』であると仮定して考察する。
 旧蔵所不明本の字に他写本になく、朝野旧聞ほう藁と共通する筆遣いが存在するので、旧蔵所不明本は朝野旧聞ほう藁が編纂された後にその解釈を参考にしつつ元本からトレースされた写本である可能性が高い。
 朝野旧聞ほう藁の編纂以前に存在していた大久保酉山旧蔵本は、その時点で乱丁が直されていたため、朝野旧聞ほう藁の底本であることはあり得ない。
 以上の点を鑑み消去法にて朝野旧聞ほう藁所載の北条氏康書状(巨海越中守宛伊勢宗瑞書状の体裁で掲載)の底本は和学講談所旧蔵本である可能性が他の二写本よりも高く存在する。
 和学講談所旧蔵本、大久保酉山旧蔵本の文字は「被相談」よりも「無相談」に近いので、書状には織田信秀は出兵を今川義元に相談と書かれているわけではない。

3-3  ②『古証文』の底本は何か?
「向彼国被起軍」は写本の字体から「向彼国之起軍」と読むのが妥当。意味は「彼の国に向かい軍を起こし」ではなく、「彼の国の起軍に向かい」と解釈。信秀が今川との協定を無視してではなく、松平広忠が宗主国の駿河に相談無しに蜂起した軍を織田信秀が破ったと解釈すれば、論文が指摘している文脈の不自然さは解消される。


3-3  ③とある幕臣の蔵書目録
 大久保酉山旧蔵本の蔵主である大久保酉山のプロフィールを同時代人の大田南畝の略歴と搦めて紹介。


3-4 「安城は要害だから」か、「安城の要害を」か?
 「安城者要害」の字句を刊本は「者」と解釈しつつ注釈に「之か?」と疑問符を付している。肉筆写本は微妙な形状。本稿での判定は保留。敵の拠点としての「要害」の語は使用例があり「不自然さ」はない。論文の指摘は「安城は織田の要害」と解釈しうる可能性を示したのみで、字句で判断するなら「安城は松平の要害」という解釈も同等以上に妥当。


4      第4節の論点抽出:北条氏康書状のプロファイル(その2)
 論文第4節「北条氏康書状の史料批判」の論点抽出


4-1  同一差出人の文意重複同一日付文書発給はあり得ないか?
 使者は当初信秀の使者として北条氏康に同盟をもちかけ、短文版の拒絶の書状を得た所で、自らは「清須御使」であり、信秀は清須の取次として自分を相模に遣わした、そして自らの義務として書状を尾張太守斯波義統に披露しなければならないと言い出した可能性も考え得る。


4-2&3  書状は発給者控えか?/書状は発給されたか?
 現代人の感覚ならこの署名箇所に「在判」なる字句がある故に、実際に発給されたものであるように考えられる。


5     第5節の論点抽出:北条氏康書状は何を述べているか?
 論文第5節「北条氏康書状が述べる三河情勢の検討」の論点抽出

 
5-1 ①検証:安城城天文九年攻落説(安城市史提示説の検討)
 安城市史が言う天文十二年までの安城落城の根拠として示されているのは、同時代史料、地元寺院の過去帳、安城近辺の古墓の伝承、江戸期編纂の系図資料だが、実際に落城を前提として記述している史料は寛永諸家系図伝の松平郷松平伝十郎・内藤正成記事と岡崎領主古記・参州本間氏覚書に絞られる。


5-1  ②検証:安城城天文九年攻落説(反証史料の提示)
 山田世譜(長慶寺文書)、与二郎ひろ定請文、東国紀行を使用して天文十二年以前の安城城落城説の否定を試みる。


5-1  ③検証:安城城天文九年攻落説(安城撤退記事の解釈)
 論文指摘の織田勢安城ルートを検証し、天文九年の安城乱中に、織田信秀が安城城を占領・維持する考えは最初からなかったと考察。


5-1  ④検証:安城城天文九年攻落説(系図資料の変遷)
 五井松平忠次が天文九年六月六日に安城合戦をした譜諜余録記事は寛永諸家系図伝所載藤井松平利長譜からのコピペである可能性大。故に忠次記事が天文九年六月六日かは不明。忠次も利長も安城防衛には成功しているので家譜上では同日に安城は陥落していない。また、安城城主と援軍の主将が一緒に城外に討って出て戦死する筋立てには違和感あり。


5-1  ⑤検証:安城城天文九年攻落説(寺院過去帳の検証)
 寺院過去帳や系図史料で天文九年安城合戦で戦死したとされる藤井忠満(藤助)は、松平記において天文十七年の第二次小豆坂合戦で戦死した記事あり。彼を含め天文九年安城合戦の戦死者の家系は絶家して直系子孫はいない。よって、寺院過去帳は没年が判らない一門衆をまとめて過去にあった合戦の戦死者に無理やりはめ込んだ可能性がある。


5-1  ⑥検証:安城城天文九年攻落説(時系列でみた考察および結論)
 天文九年の尾張勢による安城攻めは妙源寺宛売券等から事実とするが、早々に撤収したと考える。それが落城説に至ったのは甫庵信長記の記述や短期間での系図集編纂に協力させられた大樹寺の対応であり、矛盾した記述をそのまま載せた寛永諸家系図伝を読んだ者がその矛盾を是正するためにその後作られたのが天文九年の安城落城説だと考える。


5-2  天文十六年に織田信秀は岡崎城を確保したか
  岡崎城攻落とする論文説の別解として、「岡崎(松平広忠)は弾(織田信秀)へ降参した旧臣達により命の危険に晒されている」という読み方を提示。日覚書状並びに北条氏康書状が述べる岡崎城の状況は付け城包囲による確保(今川方である岡崎城の勢いを防ぎ止める)状態として一致していると読みうる。


5-3  安城合戦と岡崎攻落は織田と今川の相談の上でなされたか?
三河国人衆が無用な紛争を治められるよう両家が相互に外交チャンネルを持っていたこともあり得るが、論文が言うような共謀して三河の拠点を占拠するような事を氏康書状が示しているわけではない。


5-4 織田の岡崎攻落をもって鵜殿氏の立場が危ういものに急変したのか?
「織田の岡崎攻落をもって鵜殿氏の立場が危ういものに急変した」とする論文記述は日覚書状の文脈を無視した解釈であり、そこから導き出される「織田にとっての相違のあしらい」の根拠にはならない。


5-5  今橋を「本意」にしたのは、去年(天文十六年)の事か?
双方にとり言わずもがなな事は省略又はぼかした表現で記されていた可能性あり。表現こそ「其国相違之刷」=今川軍の田原侵攻であり、織田信秀が三河に詰めなければならない理由であった。


6  第6節の論点抽出:仮説は史実に矛盾していないだろうか?
 論文第6節「松平広忠降参情報の信憑性」の論点抽出


6-1  ①天文十二年以前:安城城陥落(第一次小豆坂合戦)
 天文十一年八月の小豆坂合戦については、論文すら同時代史料の不存在に言及し、天文十二年以降の織田勢の攻勢は天文十四年の清縄手合戦まで動きはなく、安城城攻落の年限を天文十二年以前に限定する根拠は見当たらない。


6-1  ②天文十二年以前:安城城陥落(内藤正成譜の上野城合戦記事)
 寛永諸家系図伝内藤正成譜における天文十一年上野城合戦記事は複数の史料を併記して構成され、三つの話をまとめて初めてこの年以前の安城城落城あったように読めるが、史料相互の整合性が取れていない為、安城落城を想定しない異なる原因で起きた複数の合戦があったという解釈も可能。


6-2  天文十三年:井ノ口合戦と阿部大蔵の尾張表進出
水野氏宛斎藤道三書状等から天文十三年時点で安城城は織田家の手に落ちておらず、松平広忠の属城として健在であり、阿部大蔵は鎌倉街道沿いに進軍して水野氏に属する知立周辺を脅かしたのが尾張表進出の実態と解釈。


6-3  ①天文十四年:安城清縄手の戦い(寛永諸家系図伝~貞享書上・武徳大成記)※改稿アリ
  本多忠豊の殿戦は貞享書上(現存せず)を参考としたとされる武徳大成記から。但し、戦死の記述もなし。以前の史書の記述とは整合性の取れない箇所も散見される。


6-3  ②天文十四年:安城清縄手の戦い(常山紀談~譜牒余録)※改稿アリ
 寛永諸家系図伝や武徳大成記にもない身代り・馬印を広忠から借り受けた話の出所は戦国大名エピソード集である常山紀談以降。十八世紀後半に入ってから。整合性は取れているが、貞享年間に呈譜された本多忠豊譜の内容が不明な状況では後世に残る「詳細な伝承」については、疑義を呈さざるを得ない。


6-4  天文十五年:今川軍の今橋攻め(十一月~翌六月の間)
 論文は天文十五年の松平広忠の攻勢を示唆しているが、「安城は要害」、「岡崎降伏」の解釈には異議があり、そもそもそれを示す史料は通説も含めて見当たらない。


6-5 ①天文十六年七月:医王山砦落成
医王山砦落成の翌月、藤河久兵衛(奥平貞友)は今川義元の新知行宛行と安堵にもかかわらず今川に謀反を働いた結果、作手仙千代(奥平定能)が人質として吉田に送られたことから、田原戸田氏の反乱以前に山中砦で謀反が生じていたことを指摘。


6-5  ②某年八月上旬:第一次小豆坂合戦
三河物語には小豆坂合戦が起こった年次は記されていないが、これを天文十七年三月十九日の合戦と比定するなら、今川軍は織田方の松平信孝が築いた作岡砦からの妨害を受けることなく、医王山砦から易々と藤川経由で小豆坂に入ったことになる。医王山砦建設から第二次小豆坂合戦の間に作岡は今川軍に破られた。


6-5  ③某年八月上旬:第一次小豆坂合戦
 牛一信長公記に書かれた小豆坂で織田軍が勝利したのが天文十六年八月上旬とすれば、八月二十五日付作手仙千代、藤河久兵衛宛今川義元書状、翌九月二十二日付日覚書状で「駿河衆敗軍」日覚が陣門法華宗徒である鵜殿氏の身を案じて弟子を三河に送ることをした流れもすっきり理解することが可能である。


6-6 天文十六年九月:田原戸田康光の謀反
 天文十六年八月上旬に小豆坂合戦があり、それが織田方の勝利に終わっていたと想定すれば、戸田康光は自爆するつもりでも、自分の策を誰か別の者によって進められたのでもなく、織田の勝利に今橋奪回のチャンスを見出したという可能性が生じる。


6-7 天文十六年:織田信長の初陣、吉良大浜を焼き討ち
 織田信長の初陣があった頃の大浜の状況を東国紀行・信長公記の記事より解説。但し、天文十九年十一月十九日付今川義元判物の「先年尾州・岡崎取合之刻」を天文十六年九月の事と限定する論文解釈には疑問。


6-8  天文十六年九月:渡河原合戦の前後
 渡河原合戦・佐々木松平忠倫暗殺実行者への感状・大樹寺への寄進状の記述について、論文は自説に基づく解釈は挙げていても、解釈を証明する史料は提示されていない。故に論文論旨をもって「岡崎城攻落説」は否定されているように思える。


6-9 史料解釈と史実とのかい離をどう埋めるか?
 広忠方は論文の言う「降伏」後に織田方についた同族の松平忠倫と信孝を討ち取っているので反織田の姿勢を対外的に示してはいないという論文の指摘には大いに違和感あり。


7    第7節の考察:小豆坂の戦いの時、松平広忠は何をしていたか
 天文十七年三月の小豆坂合戦において、松平広忠は今川方として全く機能していない点について、広忠は天文十六年九月の渡河原合戦以降自身が戦場に出ていない。よってこの時も松平広忠は戦場に出られる体調ではなかったと考えるのが合理的。


8    第8節の考察:松平広忠は何故死んだのか?
 松平広忠暗殺について、織田方に動機がなかったとするのは言い過ぎです。しかし、暗殺が行われたのが広忠の命日である天文十八年三月六日とするのは根拠がない、とするのが妥当。


9    最終節の考察:いかにして竹千代は人質になったか?
 自説の全体像の要約と、それにもとづき竹千代は通説通り今川の人質として差し出された所を「天文十六年八月の第一次小豆坂合戦」の駿河衆敗軍により、対今川戦に勝機を見出していた戸田康光の手で拉致されたとする。


10    小豆坂合戦天文十六年説の源流
 岡崎市史が紹介する小豆坂合戦天文十六年説を採用した江戸期成立史料の概要と、当該史料が甫庵信長記・松平記・三河物語等の記事の切り貼りで作られていたため、同書において十六年説は「十一年」の誤記とされた事情を解説。及び十六年説として見直しうる可能性に言及。


11    あとがき
 本編のエッセンスと筆者の歴史考察スタンス及び本編作成の動機について

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