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2017年10月21日 (土)

川戦:安城合戦編Ⅱ 小豆坂合戦天文十六年説の源流

 さて、ここまで述べてきた小豆坂合戦天文十六年説ですが、これは私のオリジナルでもなんでもなく、江戸期編纂史料に小豆坂合戦が天文十六年八月に起こったという記載が朝野旧聞ほう藁にあるという指摘が「岡崎市史(新編ではない方)別巻-1 徳川家康と其周囲」に掲載されております。

〇岡崎市史別巻-1 徳川家康と其周囲 上巻より引用(拙稿により下線部付記)

 さてこの小豆坂合戦は、天文十一年、同十七年の二回説と天文十七年の一回説とある。朝野旧聞ほう稿に「此事、諸説異同あり。信長記、増補信長記、寛永松平傳十郎譜等には、十一年八月、岡野済安聞書、官本三河記、三河記大全、大永慶長年間略譜等には十六年八月とし、松平記、岡崎古記、三州龍海院年譜、家忠日記増補等には、十七年の事とし、武徳大成記、成功記は、十一年、十七年の両年に係く。ただに年月の異なるのみにあらず、記事の旨亦同じからず、今古證文に収る義元が文書に此戦を十七年三月十九日とし、松平記に符合するを以て今之に従ふ」として十七年説を取っている。(後略)

 というわけで、小豆坂合戦天文十六年説をとっている史料がどのような内容なのかを確認するために朝野旧聞ほう藁に記載されている十六年説諸書の内、官本三河記の内容を以下に引用させていただきます。

〇朝野旧聞ほう藁より引用(原文は漢文及び和漢混交文、以下拙稿による読み下し。下線、丸数字は同じく追記)

 官本三河記 十六年條に曰く 
 弾正忠従いて岡崎に謂ひて曰く、竹千代之に在り(按ずるに上文に東照宮、戸田康光に奪われ給ひて尾張に渡らせ給ふ事〇記す)向後今川と義絶を為す可しと云々、
 廣忠曰く、両雄久しく國を争う、今更人質を奪われての和睦は成し難し、人質は我が心に出でず、存分に任される可く云々、

(中略)
 天文十六年八月二日、(説齋和尚)勢を出し、今切・本坂の二手に分け、同八日、山中・藤川に陣す、矢作下瀬を渉り、上和田に陣し、小豆坂に上る、
 八月十日説齋和尚、三ヶ國の軍勢を率いて出張る、
 ②尾張方大将織田孫三郎(自注弾正弟也)、八月四日、③清須を出、笠寺・鳴海に陣す、翌日安城に着き、上和田之砦に移る、十日、馬頭原に押出し備を立つ、
 駿州勢藤川を出、両陣の間一里餘を為すと雖も山路互いに先途を見分けず押しけるが、小豆坂に駿兵押し上れば、尾州先陣之と行き逢う、
 織田造酒丞下知し、左右敵多勢を見透され、悪坂上れと突き駈ければ、駿兵かさを取りて進み下り、鯨波を挙げる、
 孫三郎ハ返せ々々と下知すれ共、多勢まくり立てらるる、
 弾正忠旗本は盗木まで本陣を引き退き、騒がず爰に取りて返す、

(後略)

 興味深いことに朝野旧聞ほう藁が引用している官本三河記には松平記・三河物語・甫庵信長記の記述が混じっております。

矢作下瀬を渉り、上和田に陣し、小豆坂に上る、

〇松平記(新編安城市史5 資料編 古代・中世より引用)
 両朝比奈、矢はきの下瀬を越て、上和田に陣を取、小豆坂へ上る

 ①の部分の主語は、松平記が両朝比奈と書いているのと同じで、今川勢となっています。安城市史5 資料編 古代・中世でも指摘されているとおり、上記の部分は松平記の誤りで、こちらは今川方ではなく、織田方の動きなのですが、その誤りが官本三河記にも踏襲されておりました。その他小豆坂の七本槍がこの後段にでてくるのですが、同様の記述があるのは三書の内甫庵信長記のみです。

尾張方大将織田孫三郎(自注弾正弟也)

〇甫庵信長記(国会図書館デジタルコレクションより引用)
 舎弟孫三郎殿ヲ武者大将トシ敵ノ陣ヘ推向ケシカハ

 ②の部分の織田孫三郎については松平記・三河物語には言及がなく、牛一信長公記にも、「よき働きせし衆」として紹介されている五名の中の一人であり、大将として言及されているわけでもありません。その代わり織田三郎五郎(信広)を松平記は大将分、三河物語は先手として紹介しています。

清須を出、笠寺・鳴海に陣す、翌日安城に着き、上和田之砦に移る、十日、馬頭原に押出し備を立つ、

〇三河物語 第一上 (安城市史5資料編より引用、拙稿にて下線付記)

 清須之城ヲ立て、翌日は笠寺・成見(鳴海)に陳(陣)取給ひて、明レバ笠寺ヲ打立給ひて、案祥(安城)に付せ給ひて、其寄八萩(矢作)河之下之瀬ヲ超テ、上和田取出にウツラせ給ひて、明ケレバ馬頭之原え押出シて、合陳之ヲ取ントテ、上和田ヲ見明(未明)に押出ス、

 清須から小豆坂にかけての織田勢の進路については、三河物語にのみ書かれていて信長記・松平記には言及がありません。このように、官本三河記は甫庵信長記・松平記・三河物語の記述を繋いで構成しつつ、三書いずれの記載もない独自の記載を加えています。

〇朝野旧聞ほう藁より引用(原文漢文及び和漢混交文、拙稿による読み下し)
 官本三河記 十六年條に曰く 

 天文十六年八月二日、(説齋和尚)勢を出し、今切・本坂の二手に分け、同八日、山中・藤川に陣す

 今切・本坂はそれぞれ浜名湖の南岸・北岸を通る遠江国の道の名前で、曳馬(引馬、現在の浜松)付近から道が分かれて国境を越えて吉田(今橋)または御油(五井)にて合流して山中・藤川へ至る道です。今切は明応大地震による津波で浜名湖と遠州灘がつながったことで出来上がった渡し場で、本坂は遠江・三河国境の峠の名前です。いずれも行軍に当たっては難所に当たる場所ですね。これらについては、どのような情報を根拠にこの記述が加えられたのかは確認はとれておりません。

 取り合えず上記で紹介した官本三河記の記述の特徴をまとめると、以下のようになります。
① 今川軍進路に矢作下瀬・上和田が加わる誤りを犯していること(松平記)
② 織田方の大将として織田孫三郎(信光)が紹介されていること(甫庵信長記)
③ 織田軍の進路(清須から上和田、馬頭原方面へ)の詳細な記載(三河物語)
④ 今川軍の進路(今切・本坂の分岐)の詳細な記載(オリジナル)
⑤ 小豆坂七本槍の紹介(甫庵信長記)

 上記の特徴を岡崎市史別巻が小豆坂合戦天文十六年説をとるとしている諸書が備えているかどうかを確認しますと、以下の通りとなりました。

岡野済安聞書
① 今川軍進路の誤り(松平記):なし
② 織田方大将織田孫三郎(甫庵信長記):なし
③ 織田軍の進路の詳細記載(三河物語):なし
④ 今川軍の進路の詳細記載(オリジナル):なし
⑤ 小豆坂七本槍の紹介(甫庵信長記):なし

三河記大全
① 今川軍進路の誤り(松平記):あり
② 織田方大将織田孫三郎(甫庵信長記):あり
③ 織田軍の進路の詳細記載(三河物語):あり
④ 今川軍の進路の詳細記載(オリジナル):あり
⑤ 小豆坂七本槍の紹介(甫庵信長記):あり

大永慶長年間略譜
① 今川軍進路の誤り(松平記):なし
② 織田方大将織田孫三郎(甫庵信長記):あり
③ 織田軍の進路の詳細記載(三河物語):あり
④ 今川軍の進路の詳細記載(オリジナル):なし
⑤ 小豆坂七本槍の紹介(甫庵信長記):あり

 岡野済安聞書の記述は簡略な記載ですが、他書にない記載はほとんど見受けられませんでした。甫庵信長記と松平記・三河物語の記述の共通部分を抜き出して天文十六年の出来事としたような印象です。
 三河記大全は官本三河記と概ね同じ特徴を備えております。
 大永慶長年間略譜は基本甫庵信長記の記述を採用し、三河物語の記述で補った感じとなります。
 天文十六年諸書の特徴としては複数の原著の記述を切り張りしたうえで一回の合戦にまとめ、それを根拠の見えない天文十六年としたことでした。そのため、岡崎市史別巻ー1 徳川家康と其周囲の編者の柴田顕正氏は以下のようなコメントを付けて誤記の可能性を指摘しております。

〇岡崎市史別巻-1 徳川家康と其周囲 上巻より引用(拙稿により下線部付記)

 想ふに、十六年説をとるものは、岡野済安聞書を除いては(これには月日を載せず)この戦を八月十日とし、ただ當代記が十六年としたれど、九月十日と定めたるのみである。而して上記諸書に載する両軍の道程は、三河物語に據ったのである。さればこの十六年は十一年、十七年のいずれかを誤ったものではなかろうか。而して當代記の九月は八月の誤かと思はるゝ。いづれにしても、この戦は十一年と十七年と二回戦はれたものとすべきであらう。

 当代記は国会図書館デジタルコレクションで史跡集覧に収められている刊本を読むことが出来るのですが、どうも編年体で記載されているわけではないようで、上記記事の言う九月十日の小豆坂合戦記事は見つけられませんでした。
 これら諸書の内容は甫庵信長記や松平記の記述を切り貼りした上に小豆坂合戦の発生年次のみを天文十六年にしているだけのようにも見えます。今川義元の感状に言及されている天文十七年三月十九日の小豆坂合戦についての言及もありませんので岡崎市史編者である柴田顕正氏がこれらの年次は誤記であるとした見解については岡崎市史編纂当時の認識としては妥当と思います。

  但し、これらの小豆坂合戦天文十六年説をあげる諸書が編纂された当時にはまだ天文十六年八月の山中新知行をめぐる奥平家文書の発掘が進んでおらず、2014年に至って日覚書状が天文十六年に書かれた書状であることが判りました。そこには「駿河衆敗軍」と謳われております。

 また、官本三河記は、他書にない今川軍の進軍ルートを日時付きで記しています。

〇信長公記 あづき坂合戦の事 新人物往来社 新訂信長公記より引用(拙稿にて下線部付記)
 八月上旬、駿河衆、三川の国正田原へ取り出だし、七段に人数を備へ候。

〇甫庵信長記(国会図書館デジタルコレクションより引用)
 去る程ニ駿河國今川ノ義元ハ尾張國ヲ打随ヘントテ隣國ノ兵駈催シ其勢四萬餘騎天文十一年八月十日三川國生田原ヘ打出

〇朝野旧聞ほう藁内 官本三河記より引用
 天文十六年八月二日、(説齋和尚)勢を出し、今切・本坂の二手に分け、同八日、山中・藤川に陣す

 その部分に該当する部分を牛一信長公記、甫庵信長記と比較してみると、甫庵信長記は牛一信長公記をベースにしつつも書き足しを行っていることが判ります。その中でも「天文十一年八月十日」としている部分については、それ以前の史料で遡って確認することが出来ません。
 それとは別系統の史料を含めて切り貼りして作られた官本三河記が今川軍進軍ルートという独自要素と一緒に年代設定を「天文十六年」としている点については、この記述にも元史料が存在したことが想定できるかと思います。岡崎市史では天文十六年を誤記と見做していますが、可能性の一つとして甫庵信長記がその元史料を誤写してしまった可能性もまた疑えるのではないでしょうか。

 これらの点を考慮に加えて検討すれば、第一次小豆坂合戦天文十六年説の可能性も出てくるのではないかと思料致します。

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