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2017年11月25日 (土)

中漠:晴天航路編①はじめに

 本編のタイトルは中国三国志の時代を描いた『蒼天航路』のパクリです。『蒼』が示すのは言うまでもなく中国の漢王朝ですが、蒼天航路は曹操を始めとする乱世の群雄達の生きざまを活写した名作です。そのひそみに倣い、本編の『晴』が示す室町十二代将軍足利義晴と木澤長政ら同時代を生きた群雄達の活躍について以前の稿とは視点を変えつつ描写を試みたいと思います。
 蒼天航路の蒼は漢王朝を指すにも拘らず、実は曹操の生涯を描いた物語であったように、本編「晴天航路編」の主人公は足利義晴ではありません。三好長慶の前半生を軸に入れ代わり立ち代わり登場しては消え去っていった一代英傑達の生きざまをちりばめつつ進めてまいります。とはいえ、本編の冒頭においては晴天に象徴される足利義晴の治世を俎上に上げて、この時代がどのような特徴を持っていたのかを素描いたします。

 足利義晴を始めとしてその時代を生きた群雄達に決定的に欠けていたもの。それは正統性でした。足利義晴が永正八年に生まれた場所は京ではなく、父義澄の亡命先である近江国水茎岡山城でした。義澄を近江に追いやったのは彼が将軍職につく前に将軍を務めていた足利義尹(義材・義稙)です。

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 つまり足利義澄はクーデターを起こした細川政元に祭り上げられた傀儡であって、足利義晴の父の時点で正統性は希薄なものでした。細川政元もまた香西元長・薬師寺長忠らのクーデターに巻き込まれて暗殺され、後ろ盾を無くした義澄は前将軍足利義尹(義材)の逆襲を受けて近江に亡命を余儀なくされていたのでした。足利義晴は亡命先で生まれた子供ですが、そこで生まれた子供は彼一人ではありませんでした。彼が生を受ける二年前、彼の母とは別の女性が足利義澄との間に産んだ子供がいました。長じて足利義維と名乗ります。系図史料では弟ということにされていますが、実際は異母兄だったようです。
 政権を奪回した足利義尹とその手先となった細川高国の方針は基本専守防衛であり、正面切って足利義澄を滅ぼそうとはしませんでした。その足利義澄のために阿波の細川澄元と三好之長らが京奪還のために戦いを仕掛けますが結果として義澄は将軍職に復することなく、近江国水茎岡山城で亡くなります。旗頭の足利義澄がいなくなると、南近江の六角高頼は京の足利義尹と和議を結んで義澄の二人の遺児を細川高国に引き渡しました。
 細川高国はこのうちの亀王丸(後の義晴)を播磨の赤松義村に預けました。この赤松義村はこの後浦上村宗に下克上を食らって殺害され、足利亀王丸は浦上村宗の預かりとなります。この時点で足利亀王丸こと後義晴は将軍職を継ぎようが無くなっていたはずなのですが、ここで運命の大逆転が起こります。

 まず足利義稙(義材→義尹)には実子がおりませんでした。そして彼の政権は常に阿波の細川澄元と三好之長の侵略を受け続けておりました。彼の家臣細川高国、大内義興、畠山尚順らは義稙を盛り立ててこの侵略に抗っていましたが、阿波勢は武力行使だけではなく不満分子に対する調略も隙あらば試みておりました。そしてその調略にひっかかったのが、あろうことか足利義稙本人だったのです。
 この時点で阿波勢は足利義澄という自らの旗印を失っております。細川澄元と三好之長らが細川高国を打ち破ったとして、将軍がいなければ政権の体をなしません。そして細川高国の政権も長期にわたって人々は惓んでおりました。周防の大内義興も平和にかかるコストに耐え切れずに本国に引きこもってしまった今、強力な政権に再編するためには、阿波勢と組むこともありではないかと足利義稙は考えてしまったのでした。

 1520年(永正十七年)に京に向かって攻めてきた阿波勢に細川高国はいったん京を明け渡すことを足利義稙に提案しますが、義稙はそれを拒絶して阿波勢を迎え入れます。しかし、阿波勢の総大将の細川澄元はこの時死病にかかっておりました。阿波軍が統制を欠いた間隙をついて細川高国は反撃に転じ三好之長を等持院で補足してこれを討ち捕ります。そして細川澄元も阿波に戻って間もなく亡くなり、阿波の脅威が無くなったのでした。この想定外の展開に足利義稙は細川高国に対する面目を失い、京を出奔します。
 足利義稙が阿波に落ち延びた際に足利義澄の遺児の一人を自らの後継者としました。彼が選んだ後継者は足利亀王、元服して義賢、後に義維と名乗ります。つまり、もう一人の遺児であった亀王丸こと足利義晴は選ばれなかったのでした。しかし皮肉なことに、ここで足利義稙に選ばれなかったことこそが、足利義晴を将軍職に就任させた決定的な理由となりました。

 すなわち、京に残された細川高国が足利義稙がいなくなった後、後継の将軍として播磨にいた足利亀王丸を選んだのでした。細川高国ももともと細川政元の三人いた養子の一人とはいえ本来は政元の後継者としての期待はされていなかったのですが、足利義尹(義稙)に選ばれたことで管領職につくことができた人物でした。政元自身が自らの後継者として選んでいたのはライバルとなった澄元の方でした。なので、彼もまた正統性を欠いていた人物の一人です。すなわち、本来管領になれるはずのない人物が将軍になれるはずのない人物を将軍に祭り上げたわけでした。だれもがドンびくほどの正統性のなさです。しかし、ここで足利亀王丸=義晴の正統性の保証を買って出る人物が現れます。禁裏にいる後柏原天皇です。彼は践祚の後、ずっと即位の礼を開くことができていませんでした。主にスポンサーである足利義稙が出費を惜しんだためです。なので後柏原天皇は皇位にありながら出費を切り詰め、本願寺などの大口スポンサーを得て即位の礼のための準備を少しずつ整えていたのでした。にもかかわらず、足利義稙の出奔によってその即位の礼の実施がさらに遅れそうになってしまいます。これにブチ切れた後柏原天皇は即位の礼挙行と引き換えに足利義晴の将軍就任を認めたのでした。

 足利義稙も阿波で亡くなり政情は一時安定したようにも見えます。ところが、細川澄元や三好之長が死んでも、調略の手が鈍らないのが阿波勢でした。今度は細川高国の一門衆細川尹賢と丹波国人衆との諍いに乗じて丹波国人衆を味方につけたのです。これにはたまらず、細川高国は足利義晴と共に近江国朽木に落ち延びました。そして再び阿波勢に対抗するために策をめぐらせることを強いられます。足利義晴は自らを将軍に選んだ細川高国と将軍であることを保証した後柏原天皇から引き離されて朽木に閑居することを強いられます。
 政局は一寸先は闇。何がどうなってもおかしくないほどの不安定さを露呈していたのでした。本編では足利義晴が都を追われて以降に入れ代わり立ち代わり現れ、儚い輝きを放って消えていった群雄達を描いてまいります。

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