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2017年12月30日 (土)

中漠:晴天航路編⑥誘い受けの講和条件

  細川晴国の挙兵によって石山御坊の証如たちが得たものは、体制固めのための時間でした。それまでの石山御坊は山科本願寺の陥落でその傍にいたのは曾祖叔父にあたる実従と山科陥落の報を受けて加賀から急遽石山に駆けつけた下間頼秀だけだったのですから。
 実従にとって石山御坊は母親や兄弟たちとその幼時を過ごした土地でもありました。実従の母親は旧畠山宗家の血を引く蓮能であり、当時石山御坊にいた蓮能母子は細川政元が企図した畠山征伐の障害になるという理由で実如に捕縛されて京に連行されたことがあります。証如の側近衆の一人に下間頼慶という法主家宰相の下間頼秀の叔父がいたのですが、彼は蓮能、実従ら母子を石山から連行した張本人でもありました。故に下間頼慶は証如と同道して石山入りはできなかったものと考えられます。山科陥落の直前まで本願寺の実権を握っていた蓮淳も伊勢長嶋に退避しており、その兄弟である連枝衆も蓮淳が粛清した後でした。本願寺教団の法主である証如もまだまだ若年であり、よってこの時実従の行動を牽制し得たものはどこにもおりませんでした。もっともこの時にそのような行動をとり得た一族衆は一人だけいないわけではありませんでした。それは三河国本宗寺、播磨国本徳寺の住持である実円で、彼は証如の叔父にあたりました。彼は大小一揆において三河兵を加賀に派遣したこと、第一次石山戦争において石山防衛に三河兵を動員した痕跡はあるのですが、本願寺の歴史においてこの時の実円の行動の詳細を追うことができません。
 石山入りした証如を助けるべく、紀州から門徒衆が殺到して木澤長政や細川六郎を追い散らしましたが、これを主導したのは実従と考えて差し支えないと思います。なんと言っても紀州は畠山氏の領国であり、畠山氏の内紛が延々と続いてしまう理由は紀伊国が山深く、ここにこもってしまうとなまなかな手段では追討することができないからでした。そしてついこの間まで総州畠山義堯の居城であった高屋城にいつの間にか尾州畠山家の稙長が新城主に収まっていました。総州畠山義堯を打ち取ったのは証如が動員した門徒衆です。つまりはそういうことでありました。
 実従が動員した紀伊・河内門徒衆は戦線を西摂津まで押し上げて膠着します。そんな折に丹波の波多野稙通と山城国の細川晴国が反細川六郎の狼煙を上げたことに、証如一行は救われた思いがしたに違いありません。

 ただ、細川六郎と茨木長隆・木澤長政の三人組は政治的センスが一本抜けています。三好千熊丸を担ぎ出して本願寺に示した講和条件が二つばかりあるのですが、これが二つともやらかしちゃっています。まあ細川六郎と茨木長隆がやらかしちゃったから今のこの事態があるわけですが、木澤長政が加わってもそれは一向に改まる気配すらありません。最初に示したのが、細川六郎を管領と認めること。そもそも本願寺の軍事行動は細川六郎を助けるために始めたことなので、これ自体は妥当と言えるかもしれないのですが、それも細川晴国が挙兵する前までのことです。細川晴国が山城国西岡で勢力を張っている中でわざわざこんな条件を持ち出すこと自体、本願寺が細川晴国を立てて六郎たちに敵対することを恐れていることがバレバレです。そしてもう一つの条件が、足利義晴を将軍と認めることをよりにもよって三好千熊丸に言わせたことです。父三好元長亡き後、千熊丸は阿波細川持隆の庇護を受けていました。同時に、細川持隆は堺公方足利義維を平島に匿っています。細川持隆と縁切りする形で足利義晴を担ぎ、三好元長を滅ぼした細川六郎としては、足利義維が公方として足利義晴と対立する形になることは何としても阻止したかったわけです。三好千熊丸を仲裁者としてこの条件を呑ませるということは、三好千熊丸にも同様にその条件を従わせることと同義でした。和議の条件と言ってもこれはどちらも細川六郎の弱点以外の何物でもなく、彼らは自分の弱点を自ら言いふらしているのと同然でした。そのくせ、六郎方は本願寺だけではなく、波多野稙通、細川晴国、そして尾州畠山稙長ら反細川勢力に囲まれていて、戦線維持にも窮している状況でした。どこまでマゾなのか、ひょっとして誘い受けなのか、と突っ込みたくなるほどです。

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 それでも本願寺が講和条件を呑んだのはやはり時間がほしかったからでありましょう。山科本願寺の崩壊で蓮淳は去り、実円はどこかにいるはずなのですが、存在感はありません。実際に証如を支えているのは実従と加賀から駆けつけた下間頼秀くらいなものでした。方針を決めるにも本願寺のブレインたちは散り散りになっていてこれをまとめる時間を必要としていたのでした。

 講和がなって石山御坊は石山本願寺と名を改めると、各地に潜伏していた幹部たちが新たな本山に集結し始めます。具体的には下間頼秀の弟の頼盛や、興正寺衆たちでした。興正寺衆とは、蓮如の折伏によって仏光寺派から本願寺教団に転宗した一派で山科に拠点を持っていました。山科本願寺の陥落と同時に拠点を失っていましたが、このタイミングで石山に参陣します。山科陥落時に本山と折り合いをまずくしたのか、参陣が遅れたためかよくわからないのですが、この時興正寺衆は証如に詫び状を送っております。証如の方も興正寺衆の石山在陣は認めたものの、この味方勢力と証如の対面は見送られてしまいました。そして頼盛の潜伏先は伊勢です。伊勢は蓮淳が避難している長嶋願証寺がある国でもありました。蓮淳や下間頼慶ら幹部衆の復帰はまだ先のことになります。この状況は石山組と退避組との間には穏やかならざる対立があったものと考えられます。それを象徴するのが1533年(天文二年)十二月の下間頼秀の離山でした。

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 立ち上がったばかりの石山本願寺がこれから体制固めをしていかなければならない時期、下間頼秀は若年の証如の手足となって教団を指揮してゆかなければならない立場にありました。天文二年の和睦の功労者です。確かに講和に従わない者たちの小競り合いは散発していましたが、それがこの時点での失脚にまで至る理由とは言えないでしょう。頼秀の失脚後に弟の頼盛がやらかす証如拉致事件とのつながりを考えるに、これは石山を「本願寺」にしてしまったことへの反発ではないかと思われます。石山を本山にする以上、その運営には畠山氏が支配する河内門徒衆の支援が不可欠になります。しかし、永正二年にはその畠山一族出身の蓮能のいた石山御坊を前法主の実如が弾圧を加えました。下間頼慶は蓮能母子を逮捕拘束した張本人ですが、その逮捕拘束された中の一人である実従は天文二年には石山本願寺で証如を支える側近衆の一人になっています。石山は身に覚えのある面々には剣呑すぎて近寄れない場所です。とは言え、それを表立って口にできないでしょうから、頼秀を責め立てる口実として用いたのはなぜ山科奪回を諦めたのか、ということだったでしょう。現実問題、洛中に法華衆が充満している状況での山科復帰は自殺行為でしか無いのですが、本願寺を石山に移してしまった責任はだれかがとらねばならなかったということではなかったでしょうか。

 この時期細川晴国の乱は最盛期で山城国西岡にて勝利を収めて京にも迫っております。波多野稙通も母坪城を落として赤澤景盛を討ちとっております。細川六郎方の苦戦が続く中、石山本願寺の新たなる船出は早くも迷走するに至るのでした。

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2017年12月23日 (土)

中漠:晴天航路編⑤細川晴国の乱

 細川晴国は大物にて無念の戦死を遂げた細川高国の弟でした。彼が起こした反乱は天文の錯乱(第一次石山戦争)の陰に隠れて見えにくいものですが、乱の展開に大きな影響を与えています。おそらくはこの挙兵の仕込みは波多野稙通によるものであったと思われます。彼の弟の一人、香西元盛を細川政賢の讒訴で失い、それが細川高国に対して戦いを挑むきっかけとなったのですが、もう一人の弟の柳本賢治も高国によって暗殺されました。賢治が率いていた柳本衆も細川六郎の起こした不条理な内乱のせいで壊滅の憂き目にあいました。波多野稙通にしてみれば細川六郎は細川高国を討ち取った時点で足利義維を担いで上洛していれば良かったのです。茨木長隆や木澤長政のような摂津・河内国人衆に良い顔をして三好と足利義維を排除するような小細工を弄したが故に無用な内乱が留まるところを知らず拡大したわけでした。彼が早い段階で細川六郎を見限っていたとしても、それは不思議でもなんでもありません。彼は幕府に運命を弄ばれた弟たちとは違って細川京兆家とは距離をとり、慎重に丹波国に勢力を扶植しておりました。とは言え、彼もまた自らの実力で得た領地を保証してくれる存在を欲していました。六郎の能力不足はあきらかでしたので、代わりを探して見つけたのが細川晴国であったわけでしょう。

 細川晴国は丹波国境に近い山城国高雄山にて挙兵しました。それに機を合わせて波多野稙通は西丹波の母坪城へ攻め入っています。ここを守っていたのは赤澤景盛、おそらくは宗益・長経の縁者でありましょう。赤澤景盛は緒戦は防いで桑実寺にいる足利義晴より感状を得ております。波多野稙通は足利義晴から敵認定されてしまったわけですが、この人物は細川高国に擁立されたにもかかわらず、その高国を討ち取った六郎と結ぶような人物でもありました。波多野稙通は戦で勝ちを連ねればいくらでも状況をひっくり返せると考えていたものと思われます。彼としてみれば最終的に京都に将軍を中心とした五畿内管領体制を整わせるのが目的であったはずです。

 細川晴国の挙兵の直前、桂川、淀川沿いに洛中法華宗徒軍が石山御坊に向けて行軍しておりました。晴国の挙兵はその退路を脅します。細川六郎は晴国に対して摂津国高槻にいた薬師寺国長を差し向けます。彼は細川政元対して反乱を企てた薬師寺元一の遺児でした。幼年故許され、後に細川高国に認められ摂津守護代を務め、その死後は六郎に仕えていたのです。しかし、薬師寺国長は高雄山まで攻め込んだものの返り討ちにあってしまいました。薬師寺国長の敗死により、京と摂津のルートは分断されたことになります。これによって洛中の町衆で組織された法華軍団は浮き足立った役立たずになります。

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 西摂津の池田・伊丹両城にいた 細川六郎、茨木長隆、木澤長政にとってもここで本願寺教団と殴り合いをしている場合ではなくなりました。細川晴国は細川六郎を代替する資格の保有者で、北方にはその支援者の波多野稙通がいて、はさみうちの状況になっていました。六郎・木澤長政は本願寺との和睦を策します。その白羽の矢が当たったのが、三好千熊丸でした。おそらくは消去法でしょうが、この両当事者が千熊丸にとっては親の仇でした。このあたりすごく茶番劇めいています。この時の三好千熊丸には一門を統率して意思を示すだけの力がありませんでした。自らの情を殺して、自分の手で未来を切り開くために、やむなくこの申し出を受けたのです。このあたりのお膳立てをしたのは、千熊丸本人ではなく、一門衆の一人、三好伊賀守連盛という人物であったらしい。しかし、事態はそう簡単に収まってはくれませんでした。

 細川晴国や波多野稙通の存在です。波多野稙通は母坪城を陥落させて赤澤景盛を討ち取りました。細川晴国も薬師寺国長を返り討ちにして高雄を守り切った勝利の余勢をかって京へと軍を進めます。この間京都を守っていたのは良くも悪くも法華宗徒たちでした。将軍も管領もいない町を守り続けてきた自負も芽生え始めていました。山科の本願寺を破り、摂津富田の教行寺も焼き、石山に迫った軍団も持っていました。細川六郎に貸しを作る意味でも、戦う意義を感じていたようです。1533年(天文二年)十月二十二日細川晴国勢と法華宗徒勢が西院で戦います。晴国勢にも京を目前にして抵抗はないだろうと思っていたのかも知れません。法華勢は無事京を守りおおせたのでした。十二月には細川晴元勢が西岡に侵入しましたが、ここを任されていた野田弾正忠らが守り通したようです。晴国勢は内野大宮といいますから、旧大内裏のあった場所(明徳の乱で山名勢が戦った場所でもあります)まで迫りましたが、結局都を占拠するにはいたりませんでした。その事態打開にすがったのが、六郎方との和睦によって体制固めの時間を得た石山御坊でした。

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※国土地理院地図(https://maps.gsi.go.jp/)を加工


 その時間を利して東摂津の国人三宅国村が本願寺に与し、細川晴国を支援します。三宅氏は茨木氏の所領春日荘に隣接する三宅荘の荘官の出であり、三宅国村の妻は摂津富田の教行寺の坊官、下間頼広の娘であり、彼もまた本願寺と縁の強い人物でした。結局のところ細川晴国がその存在感を示したのはここまでで、こののちジリ貧になってゆきます。本願寺が防戦一方になると細川晴国も占領地を維持できず、三宅国村らとともに、摂津中島砦の防備に駆り出されてしまいます。そこが落ちたのち、三宅国村は細川晴国を見限り、石山本願寺降伏後堺に亡命することになった途上、天王寺において自害を強いられてしまいました。しかし、彼が稼いだ時間が石山御坊の証如たちの運命をも変えてゆくことになります。

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2017年12月16日 (土)

中漠:晴天航路編④両属の衆

 飯盛山城を攻囲された木澤長政を救助するために門徒衆を動員する戦略を立てたのは茨木長隆で間違いないでしょう。彼の出自である茨木氏は摂津国にある興福寺所有の荘園の荘官出身でした。彼と本願寺を繋ぐ縁ですが、一世代前の一族に茨木近江守という人物がいて、彼の娘が本願寺坊官、下間頼善の妻でした。その子である頼慶は1506年(永正三年)の大坂一乱において蓮能母子を逮捕する役目を仰せつかっています。異母兄が頼玄と言い、こちらの系統が下間宗家筋であり、頼玄は天文乱中法主の側近として証如を支えました。子供の頼秀、頼盛兄弟は本願寺軍団の司令官として加賀出陣や本山防衛線を戦っていました。茨木氏は本願寺教団の中枢にパイプを持っていたわけです。

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 茨木長隆に相対する本願寺教団の窓口は下間頼慶、そしてその背後にいたのは顕証寺蓮淳で間違いない所と思います。法主の外戚である彼以外に普段は山科にいる証如を石山に出向かせることは難しいと思われるからです。
  逆に言うと、茨木長隆の要求に応えるためには、証如本人を石山御坊に向かわせなければならない事情があったのですね。ここに至る以前に本願寺は何度か軍事力を行使しています。例えば、大坂一乱、例えば大小一揆、そこには加賀門徒や三河門徒が本願寺兵として派遣されております。しかし、この時は山科本願寺が頼みにする加賀門徒兵は大小一揆で分裂し、三河門徒はその鎮圧に駆り出されておりました。河内門徒衆は蓮能一派が弾圧されていたことを忘れていません。すなわち、蓮淳だけでは河内門徒に命令を下してそれを実現することは難しいと考えていた故の証如の動座だったわけであり、その結果は畠山義堯、三好一秀、三好元長を討ち取ると言う出来すぎた働きでした。蓮淳としては、目的を果たした後で証如を山科本願寺に戻せば彼らをまとめる大義が無くなるので問題はないと考えたのでしょう。しかし、飯盛山と堺で挙げた河内門徒衆の戦功は自ら自身の力を自覚するに十分なものでした。そして総州畠山義堯が居城としていた高屋城にはいつのまにか尾州畠山稙長が居座ってしまいました。畠山家と本願寺に両属する彼らにとって、大義とはいくらでも挿げ替えがきくものであったのでした。かくて、大和で暴挙が企てられ、制御のきかない河内門徒衆の行動は本山の存続にも影響する危機を生み出したのです。おそらく、木澤長政本人は尾州畠山派の拠点を叩くつもりで行った浅香道場襲撃が引き金になって本願寺と幕府の戦争が始まってしまいました。

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 京では法華宗徒が動員されて、近江六角勢とともに洛中・洛外の門徒勢力に攻めかかったのでした。 このあたり、かなり迅速です。1532年(天文元年)八月十二日、柳本信堯・山村正次率いる柳本衆、在京法華衆、六角定頼連合軍が蓮淳が住持を務める大津顕証寺を陥落させます。その十二日後の二十四日に山科本願寺も焼亡するわけですが、ここで蓮淳は奇妙な行動をとります。山科本願寺を脱出する証如に帯同せず、遠路勢尾国境の長嶋願証寺まで単身で逃げたのでした。
 そしてこの時に堅田本福寺の住持明宗がとった態度を理由に蓮淳は後に三度目の破門を言い渡しています。これが何を意味するかを考えてみます。まず、蓮淳が北伊勢長嶋まで逃げおおせられたのは、そのタイミングは不明なものの東への脱出ルートを確保できていたことを意味します。当然孫にあたる証如も同道させることもできたはずなのですが、結果として叶いませんでした。その過程で本福寺明宗が破門されていることを考えに加えると、脱出ルートは堅田から北近江へ水路を使い、美濃から川伝いに伊勢へ向かう経路であり、明宗は証如帯同に反対をしたと考えられます。この頃までに本福寺は蓮淳によってほぼ壊滅状態に追い込まれていましたが、堅田衆を使った妨害は可能と考えられたせいではなかったでしょうか?
 結果として宗祖御影像を初めとする寺宝とともに証如を山科本願寺から脱出させ、石山御坊へと迎えたのは、証如の側近衆の一人、実従でした。彼は畠山氏の血を引く蓮能の息子の一人であり、幼時は石山御坊に住していました。

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 ここの判断は難しい所です。もし、証如が願証寺入りしていれば、河内門徒衆は大義を失い、天文錯乱は小規模なものになったかもしれません。あるいは、別の教主が立てられて教団分裂の可能性もありました。大和国吉野の本善寺には実従の兄であり、蓮如の息子でもある実考がいました。彼もまた蓮能の血を引いており、河内門徒衆にとっては神輿にしやすい人材であったと言えます。しかし、そうしたとしても、石山御坊の陥落は避け得なかったものと思います。分派するにしても新造の法主では求心力を得られないはずです。分派しなくても史実においては本願寺の大苦戦は避けようがなかったのですから、これはやむをえざる判断かと思います。

 かくて、蓮淳が脱落した後に証如一行は石山に入りました。北伊勢の長嶋に落ちた蓮淳は失脚した態になっておりました。幕府と本願寺とのパイプはここで完全に断ち切れてしまったわけです。証如石山入りの報をきいて真っ先に駆けつけてきたのが紀伊門徒衆でした。木澤長政はこれを撃退しようとしたのですが返り討ちにあってしまいます。そればかりか、堺にいた細川六郎までが脱出を余儀なくされました。このことで本願寺勢は俄に勢いづき、摂津国の大物(尼崎)、山田(千里丘)あたりで戦線が拮抗します。木澤長政、細川六郎らは堺を追われて摂津国内でこれに対陣しました。

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 ここでさらに事態をややこしくする人物が登場します。名を細川八郎晴国と言い、細川高国の弟でした。大物崩れで無念の死を遂げた兄の遺志を継ぎ、本願寺方について参戦します。


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2017年12月 9日 (土)

中漠:晴天航路編③木澤のオッサンの唄Ⅱ

 少し時を遡って蜂起した河内門徒衆がどんな人々であったかを考察します。彼らはかつて石山御坊にいた蓮如と蓮能によって教化された人々でした。蓮如は細川政元への義理もあり、総州畠山義豊を支援するつもりで布教を進めていたと考えられますが、その義豊は尾州畠山尚順によって討ち取られ、それに前後して蓮如も寂してしまいます。遺された蓮能とその実賢を筆頭とする子供たちは畠山旧宗家の血を引いていました。彼女たちの立場で、戦乱の河内国で何かを働きかけようとするならば、それは尾州畠山家と総州畠山家との和睦を進め、平和を実現することであったと考えられます。そして、それは実現しました。1504年末、尾州畠山尚順と総州畠山義英は和睦にいたします。しかし、その和睦は細川政元にとってすこぶる都合の悪いものでした。細川政元は時の本願寺法主実如に畠山討伐を命じます。蓮能はこれにあらがいますが、実如は加賀門徒衆を河内に派遣し、石山御坊の蓮能一派を拘束することで細川政元に協力します。そして細川政元は赤澤宗益・三好之長の二人を派遣して、大和・河内を蹂躙しました。その後細川政元が暗殺されて周防に逼塞していた足利義稙が上洛すると、細川高国と尾州畠山尚順がそれに味方し、河内国は尾州家が支配するようになりました。しかし、1527年(大永七年)に細川高国が内紛によって京から没落し、畠山稙長(尚順の子)も柳本賢治に攻められ、紀州に没落します。柳本賢治ら堺幕府派はここに総州畠山義堯(義英の息子)を置いて河内を支配させたわけです。

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 拘束された蓮能とその息子たちに対するその後の本願寺における扱いは冷たいものでした。彼女たちは破門を言い渡された後、三年後に一応は許されます。細川高国治下で恭順することで生き残った本願寺は体制固めを行い、法主との血縁の近さで家門の序列を定めたのですが、法主実如の兄弟たちには「連枝」の家格が与えられたものの、蓮能の息子たちにはそれより一段落ちる「一家」の家格があてがわれたのです。彼女たちは石山御坊に戻ることは許されず、各自の寺院があてがわれました。その一人の実悟などは早い時期に加賀三ヶ寺の一つ、本泉寺の蓮悟の養子として迎えられて本泉寺の後継者と目されていました。大坂一乱の折には加賀にいて無関係だったのですが、あおりを受けて後継者の立場を外され、末寺に追われる目にあいました。蓮如・蓮能によって教化された河内門徒衆を長く支配したのは畠山尚順・稙長ら尾州畠山家の面々でした。総州畠山義堯は細川高国の都落ちで河内を任されたにすぎず、尾州派の残党も国内にいて不安定な状況でした。

  さらに悪いことに京都や堺においても指導者層の内輪もめで誰につけば安心であるかをはっきり示す人物はいませんでした。そんな中に現れたのが証如だったわけです。形勢としては、総州勢が畠山義堯派と木澤派に分裂して争っていたところを旧尾州派の門徒衆が証如を担いで襲い掛かったというところでした。木澤長政はこれによって命を救われましたが、河内の支配者はいなくなってしまったのでした。証如は返す刀で門徒衆を堺に向かわせ、三好元長を屠ると山科本願寺に戻ってしまいます。茨木長隆の策は、手術で病巣を取り除いたものの、開腹した傷口を縫い合わせもせず、そのまま放置したに等しい所業でした。

  この頃の本願寺兵は軍団の体をなしておらず、それぞれがそれぞれの利害で動く連中でした。彼らにとって国境を接する大和国は尾州畠山尚順と大和国人衆が同盟を結んでいたこともあり、尾州畠山家旧臣でかつ門徒衆である彼らにとっては勢力範囲の一部でした。そして、彼らの大和衆への働きかけは興福寺への狼藉という最悪の結果を生み出すことになります。ではどのような大義が彼らにあったか、それを端的に示すのが尾州畠山稙長の存在です。彼は桂川原合戦後、柳本賢治に河内を追われて紀州に潜伏していたのでした。そして、河内門徒衆の興福寺襲撃に前後して攻め滅ぼされた総州畠山義堯が拠点としていた高屋城に遊佐長教に守られながら、こっそりと入っていたのでした。後に三河一向一揆を起こす三河門徒もそうでしたが、河内門徒衆も王法を体現する領主と仏法を体現する法主に両属していたわけです。
 証如と蓮淳は興福寺襲撃と言う暴挙を止めにかかりますが、収まらなかったのは、この場はより都合のよい王法の主人に従ったにすぎなかったでしょう。あるいは、大坂一乱で蓮能一派を捕縛したことも影響しているのかもしれません。彼らは仏法の楽土を築くために門徒衆は蜂起したのであって、細川家の走狗になりたかったわけではありません。説得は難航し、それより早く幕府の方が先に本願寺全体を敵認定してしまいました。

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 木澤長政はいち早く総州畠山義堯の遺児在氏の身柄を確保すると、自らの居城飯盛山城に置きます。木澤長政にはそうしなければならない理由がありました。すなわち、彼の配下にも門徒衆がいたはずだからです。こと河内での戦いの局面において本願寺対幕府の形にしては総州家を二つに割ってしまった木沢勢は自派から門徒衆をぶっこ抜かれ、動乱の渦にのみこまれていたことでしょう。総州畠山在氏にとって木澤長政は親の仇でもあるのですが、彼自らが手を下したわけではありません。結果として彼は木澤長政の傀儡となってしまうのですが、木澤長政の保護下に入ることで総州畠山軍団は再びまとまることができました。そして木澤長政は尾州派河内門徒の拠点である浅香道場を襲撃します。これの報復として本願寺坊官下間刑部太夫が堺を襲いますが、これを返り討ちにしたのが木澤長政でした。

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2017年12月 2日 (土)

中漠:晴天航路編②木澤のオッサンの唄Ⅰ

 戦国時代の畿内における権力抗争はまことに凄まじく、敵味方が簡単に入れ替わってしまいます。そんな中でひときわ異彩を放っていたのが、中世人離れした価値観の持ち主である赤澤宗益や宗益の振る舞いに新たな価値を見出そうとした古市澄胤などの一代英傑たちでした。その延長線上に位置する傑物で天文錯乱に大きくかかわり、歴史にひときわ大きな光彩を放っていた人物を本稿にて紹介したいと思います。名を木澤長政といいます。彼は毀誉褒貶の激しい人物ではありますが、戦国時代を語るに欠かせない英傑の一人であると思います。

  木澤長政の前半生は不明です。ただ、同じ木澤姓の人物が畠山持国に仕えていたことが確認されておりますので、その縁者ではないかと思われます。応仁の乱からこちら主家畠山氏は尾州家と総州家に分裂して飽くことのない戦いに明け暮れていました。鷲尾隆康の日記である二水記の1530年(享禄三年)十二月十八日の記事によると、彼は元々畠山家の被官であったが、命令によって遊佐某を生害した後に出奔。その後細川高国の被官人になり、河内で活躍して堺の細川六郎に仕えることになったという意味の記述があります。この頃、木澤長政は暗殺された柳本賢治の後釜として京の治安を守る任を得ていました。これはあくまでも上洛した木澤長政の来歴を噂として書きとめられた話で、正確であるかどうかはわかりません。

 木澤長政は畠山総州家の義堯に仕えておりました。桂川原で都落ちした細川高国が浦上村宗と組んで上洛戦を挑んだ時、京を守っていた柳本賢治が播磨に出陣、その留守に京を守るように言いつけられたのが、木澤長政でした。畠山家は応仁の乱以前は山城守護を任されていました。それ以後、明応年間には配下の遊佐弥六を送り込んだりして、チャンスを見ては南山城への影響力を確保しようと工作しております。木澤長政の在京もその一環であったのかもしれません。京に入った噂については、遊佐弥六のように畠山家の干渉ととられることを避けるために敢えて細川家被官の立場を強調したとも考えられます。

 柳本賢治は播磨であえなく暗殺の憂き目にあい、その結果、高国・村宗連合は勢いづいて京都も占領されかけます。そんな中、京を守っていたはずの木澤長政はいつの間にか行方不明になりました。高国・村宗連合は結局中嶋の戦いで敗れ、大物崩れで全滅します。そのタイミングで元高国派の重鎮で細川六郎(晴元)に寝返っていた細川尹賢を摂津で捕縛して殺害しています。この功をもって京の防衛を放棄した罪は許されたようです。ただし、許してくれたのは細川六郎とその側近衆であって、主君である総州畠山義堯からしてみれば、細川も柳本もいない京を確保する絶好のチャンスをみすみす逃したことになるのでしょう。彼の祖父にあたる義豊も南山城に家臣の遊佐弥六を派遣して既成事実づくりを試みましたが、その時は細川政元配下の赤澤宗益に蹴散らされました。国境に高国方の六角軍がいたものの、やりようはあったのかもしれません。

 しかし、それは結果論です。前例として大内義興を引き連れた足利義尹(義材・義稙)が京を席巻した前例もあり、誰も大物崩れなどの大番狂わせが起こるなど予想の立てようもなかったはずです。ともあれ、細川高国と浦上村宗が排除されたことによって、実質的には三好元長が幕政を仕切る路線が確定しました。将軍候補の足利義維と管領候補の細川六郎がどちらも若年であったためです。いち早く総州畠山義堯は三好元長を支持いたしますが、丹波や摂津の国人衆は三好之長の孫の台頭に眉をひそめました。木澤長政もその一人です。そんな空気を読んで三好一門衆の中から三好政長も同調して元長いびりを始めます。三好元長は戦争に強くて補給指揮にも優れた軍人でしたが、煽り耐性にかけていたようです。京で政治的に敵対していた柳本賢治の息子、甚次郎を討ち取ってしまったのです。このことが細川六郎と三好元長の関係を決定的に悪化させてしまいました。しかも、六郎の傍には変節した一門衆の三好政長や摂津国人茨木長隆、そして木澤長政も控えていて反三好元長ラインを形成してしまいます。阿波守護に保護されていた恩も忘れて細川六郎は摂津・河内国人衆の手の内に入ってしまったのでした。しかし、それは総州畠山義堯の頭ごなしに行われていたことでした。ですので彼は三好元長と諮り、木澤長政が籠もる飯盛山城を攻めます。この攻城戦には三好元長は一門の一秀を援軍によこします。彼は元長の大叔父、つまり三好之長の弟にあたる人物です。木澤長政にしてみれば普通に考えて勝てる戦ではありませんでした。

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  絶体絶命の木沢長政に助け船を出したのは細川六郎の右筆筆頭茨木長隆でした。彼の縁者の妻が本願寺教団の幹部である下間氏出身者であったらしい。彼は下間氏を通して証如を動かしました。木澤長政はその時、畠山義堯に攻められていて関与は出来なかったものと思われます。証如は自ら摂津闕郡の石山御坊に入って摂河泉の門徒衆に号令をかけました。証如は蓮如の曾孫にあたり、名望も高かったこともあるでしょう、何より自ら石山まで出向いたことが身業の報謝行、すなわち本願を果たしてくれる阿弥陀如来に対して行動で感謝の意を示すこと、を促す結果になったのです。証如の檄に呼応して蜂起した摂河泉の門徒衆の規模は半端なものではありませんでした。津波の如く飯盛山上を包囲した畠山・三好連合軍を飲み込んで後には何も残さなかったのです。

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