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2017年12月30日 (土)

中漠:晴天航路編⑥誘い受けの講和条件

  細川晴国の挙兵によって石山御坊の証如たちが得たものは、体制固めのための時間でした。それまでの石山御坊は山科本願寺の陥落でその傍にいたのは曾祖叔父にあたる実従と山科陥落の報を受けて加賀から急遽石山に駆けつけた下間頼秀だけだったのですから。
 実従にとって石山御坊は母親や兄弟たちとその幼時を過ごした土地でもありました。実従の母親は旧畠山宗家の血を引く蓮能であり、当時石山御坊にいた蓮能母子は細川政元が企図した畠山征伐の障害になるという理由で実如に捕縛されて京に連行されたことがあります。証如の側近衆の一人に下間頼慶という法主家宰相の下間頼秀の叔父がいたのですが、彼は蓮能、実従ら母子を石山から連行した張本人でもありました。故に下間頼慶は証如と同道して石山入りはできなかったものと考えられます。山科陥落の直前まで本願寺の実権を握っていた蓮淳も伊勢長嶋に退避しており、その兄弟である連枝衆も蓮淳が粛清した後でした。本願寺教団の法主である証如もまだまだ若年であり、よってこの時実従の行動を牽制し得たものはどこにもおりませんでした。もっともこの時にそのような行動をとり得た一族衆は一人だけいないわけではありませんでした。それは三河国本宗寺、播磨国本徳寺の住持である実円で、彼は証如の叔父にあたりました。彼は大小一揆において三河兵を加賀に派遣したこと、第一次石山戦争において石山防衛に三河兵を動員した痕跡はあるのですが、本願寺の歴史においてこの時の実円の行動の詳細を追うことができません。
 石山入りした証如を助けるべく、紀州から門徒衆が殺到して木澤長政や細川六郎を追い散らしましたが、これを主導したのは実従と考えて差し支えないと思います。なんと言っても紀州は畠山氏の領国であり、畠山氏の内紛が延々と続いてしまう理由は紀伊国が山深く、ここにこもってしまうとなまなかな手段では追討することができないからでした。そしてついこの間まで総州畠山義堯の居城であった高屋城にいつの間にか尾州畠山家の稙長が新城主に収まっていました。総州畠山義堯を打ち取ったのは証如が動員した門徒衆です。つまりはそういうことでありました。
 実従が動員した紀伊・河内門徒衆は戦線を西摂津まで押し上げて膠着します。そんな折に丹波の波多野稙通と山城国の細川晴国が反細川六郎の狼煙を上げたことに、証如一行は救われた思いがしたに違いありません。

 ただ、細川六郎と茨木長隆・木澤長政の三人組は政治的センスが一本抜けています。三好千熊丸を担ぎ出して本願寺に示した講和条件が二つばかりあるのですが、これが二つともやらかしちゃっています。まあ細川六郎と茨木長隆がやらかしちゃったから今のこの事態があるわけですが、木澤長政が加わってもそれは一向に改まる気配すらありません。最初に示したのが、細川六郎を管領と認めること。そもそも本願寺の軍事行動は細川六郎を助けるために始めたことなので、これ自体は妥当と言えるかもしれないのですが、それも細川晴国が挙兵する前までのことです。細川晴国が山城国西岡で勢力を張っている中でわざわざこんな条件を持ち出すこと自体、本願寺が細川晴国を立てて六郎たちに敵対することを恐れていることがバレバレです。そしてもう一つの条件が、足利義晴を将軍と認めることをよりにもよって三好千熊丸に言わせたことです。父三好元長亡き後、千熊丸は阿波細川持隆の庇護を受けていました。同時に、細川持隆は堺公方足利義維を平島に匿っています。細川持隆と縁切りする形で足利義晴を担ぎ、三好元長を滅ぼした細川六郎としては、足利義維が公方として足利義晴と対立する形になることは何としても阻止したかったわけです。三好千熊丸を仲裁者としてこの条件を呑ませるということは、三好千熊丸にも同様にその条件を従わせることと同義でした。和議の条件と言ってもこれはどちらも細川六郎の弱点以外の何物でもなく、彼らは自分の弱点を自ら言いふらしているのと同然でした。そのくせ、六郎方は本願寺だけではなく、波多野稙通、細川晴国、そして尾州畠山稙長ら反細川勢力に囲まれていて、戦線維持にも窮している状況でした。どこまでマゾなのか、ひょっとして誘い受けなのか、と突っ込みたくなるほどです。

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 それでも本願寺が講和条件を呑んだのはやはり時間がほしかったからでありましょう。山科本願寺の崩壊で蓮淳は去り、実円はどこかにいるはずなのですが、存在感はありません。実際に証如を支えているのは実従と加賀から駆けつけた下間頼秀くらいなものでした。方針を決めるにも本願寺のブレインたちは散り散りになっていてこれをまとめる時間を必要としていたのでした。

 講和がなって石山御坊は石山本願寺と名を改めると、各地に潜伏していた幹部たちが新たな本山に集結し始めます。具体的には下間頼秀の弟の頼盛や、興正寺衆たちでした。興正寺衆とは、蓮如の折伏によって仏光寺派から本願寺教団に転宗した一派で山科に拠点を持っていました。山科本願寺の陥落と同時に拠点を失っていましたが、このタイミングで石山に参陣します。山科陥落時に本山と折り合いをまずくしたのか、参陣が遅れたためかよくわからないのですが、この時興正寺衆は証如に詫び状を送っております。証如の方も興正寺衆の石山在陣は認めたものの、この味方勢力と証如の対面は見送られてしまいました。そして頼盛の潜伏先は伊勢です。伊勢は蓮淳が避難している長嶋願証寺がある国でもありました。蓮淳や下間頼慶ら幹部衆の復帰はまだ先のことになります。この状況は石山組と退避組との間には穏やかならざる対立があったものと考えられます。それを象徴するのが1533年(天文二年)十二月の下間頼秀の離山でした。

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 立ち上がったばかりの石山本願寺がこれから体制固めをしていかなければならない時期、下間頼秀は若年の証如の手足となって教団を指揮してゆかなければならない立場にありました。天文二年の和睦の功労者です。確かに講和に従わない者たちの小競り合いは散発していましたが、それがこの時点での失脚にまで至る理由とは言えないでしょう。頼秀の失脚後に弟の頼盛がやらかす証如拉致事件とのつながりを考えるに、これは石山を「本願寺」にしてしまったことへの反発ではないかと思われます。石山を本山にする以上、その運営には畠山氏が支配する河内門徒衆の支援が不可欠になります。しかし、永正二年にはその畠山一族出身の蓮能のいた石山御坊を前法主の実如が弾圧を加えました。下間頼慶は蓮能母子を逮捕拘束した張本人ですが、その逮捕拘束された中の一人である実従は天文二年には石山本願寺で証如を支える側近衆の一人になっています。石山は身に覚えのある面々には剣呑すぎて近寄れない場所です。とは言え、それを表立って口にできないでしょうから、頼秀を責め立てる口実として用いたのはなぜ山科奪回を諦めたのか、ということだったでしょう。現実問題、洛中に法華衆が充満している状況での山科復帰は自殺行為でしか無いのですが、本願寺を石山に移してしまった責任はだれかがとらねばならなかったということではなかったでしょうか。

 この時期細川晴国の乱は最盛期で山城国西岡にて勝利を収めて京にも迫っております。波多野稙通も母坪城を落として赤澤景盛を討ちとっております。細川六郎方の苦戦が続く中、石山本願寺の新たなる船出は早くも迷走するに至るのでした。

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