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2017年12月16日 (土)

中漠:晴天航路編④両属の衆

 飯盛山城を攻囲された木澤長政を救助するために門徒衆を動員する戦略を立てたのは茨木長隆で間違いないでしょう。彼の出自である茨木氏は摂津国にある興福寺所有の荘園の荘官出身でした。彼と本願寺を繋ぐ縁ですが、一世代前の一族に茨木近江守という人物がいて、彼の娘が本願寺坊官、下間頼善の妻でした。その子である頼慶は1506年(永正三年)の大坂一乱において蓮能母子を逮捕する役目を仰せつかっています。異母兄が頼玄と言い、こちらの系統が下間宗家筋であり、頼玄は天文乱中法主の側近として証如を支えました。子供の頼秀、頼盛兄弟は本願寺軍団の司令官として加賀出陣や本山防衛線を戦っていました。茨木氏は本願寺教団の中枢にパイプを持っていたわけです。

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 茨木長隆に相対する本願寺教団の窓口は下間頼慶、そしてその背後にいたのは顕証寺蓮淳で間違いない所と思います。法主の外戚である彼以外に普段は山科にいる証如を石山に出向かせることは難しいと思われるからです。
  逆に言うと、茨木長隆の要求に応えるためには、証如本人を石山御坊に向かわせなければならない事情があったのですね。ここに至る以前に本願寺は何度か軍事力を行使しています。例えば、大坂一乱、例えば大小一揆、そこには加賀門徒や三河門徒が本願寺兵として派遣されております。しかし、この時は山科本願寺が頼みにする加賀門徒兵は大小一揆で分裂し、三河門徒はその鎮圧に駆り出されておりました。河内門徒衆は蓮能一派が弾圧されていたことを忘れていません。すなわち、蓮淳だけでは河内門徒に命令を下してそれを実現することは難しいと考えていた故の証如の動座だったわけであり、その結果は畠山義堯、三好一秀、三好元長を討ち取ると言う出来すぎた働きでした。蓮淳としては、目的を果たした後で証如を山科本願寺に戻せば彼らをまとめる大義が無くなるので問題はないと考えたのでしょう。しかし、飯盛山と堺で挙げた河内門徒衆の戦功は自ら自身の力を自覚するに十分なものでした。そして総州畠山義堯が居城としていた高屋城にはいつのまにか尾州畠山稙長が居座ってしまいました。畠山家と本願寺に両属する彼らにとって、大義とはいくらでも挿げ替えがきくものであったのでした。かくて、大和で暴挙が企てられ、制御のきかない河内門徒衆の行動は本山の存続にも影響する危機を生み出したのです。おそらく、木澤長政本人は尾州畠山派の拠点を叩くつもりで行った浅香道場襲撃が引き金になって本願寺と幕府の戦争が始まってしまいました。

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 京では法華宗徒が動員されて、近江六角勢とともに洛中・洛外の門徒勢力に攻めかかったのでした。 このあたり、かなり迅速です。1532年(天文元年)八月十二日、柳本信堯・山村正次率いる柳本衆、在京法華衆、六角定頼連合軍が蓮淳が住持を務める大津顕証寺を陥落させます。その十二日後の二十四日に山科本願寺も焼亡するわけですが、ここで蓮淳は奇妙な行動をとります。山科本願寺を脱出する証如に帯同せず、遠路勢尾国境の長嶋願証寺まで単身で逃げたのでした。
 そしてこの時に堅田本福寺の住持明宗がとった態度を理由に蓮淳は後に三度目の破門を言い渡しています。これが何を意味するかを考えてみます。まず、蓮淳が北伊勢長嶋まで逃げおおせられたのは、そのタイミングは不明なものの東への脱出ルートを確保できていたことを意味します。当然孫にあたる証如も同道させることもできたはずなのですが、結果として叶いませんでした。その過程で本福寺明宗が破門されていることを考えに加えると、脱出ルートは堅田から北近江へ水路を使い、美濃から川伝いに伊勢へ向かう経路であり、明宗は証如帯同に反対をしたと考えられます。この頃までに本福寺は蓮淳によってほぼ壊滅状態に追い込まれていましたが、堅田衆を使った妨害は可能と考えられたせいではなかったでしょうか?
 結果として宗祖御影像を初めとする寺宝とともに証如を山科本願寺から脱出させ、石山御坊へと迎えたのは、証如の側近衆の一人、実従でした。彼は畠山氏の血を引く蓮能の息子の一人であり、幼時は石山御坊に住していました。

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 ここの判断は難しい所です。もし、証如が願証寺入りしていれば、河内門徒衆は大義を失い、天文錯乱は小規模なものになったかもしれません。あるいは、別の教主が立てられて教団分裂の可能性もありました。大和国吉野の本善寺には実従の兄であり、蓮如の息子でもある実考がいました。彼もまた蓮能の血を引いており、河内門徒衆にとっては神輿にしやすい人材であったと言えます。しかし、そうしたとしても、石山御坊の陥落は避け得なかったものと思います。分派するにしても新造の法主では求心力を得られないはずです。分派しなくても史実においては本願寺の大苦戦は避けようがなかったのですから、これはやむをえざる判断かと思います。

 かくて、蓮淳が脱落した後に証如一行は石山に入りました。北伊勢の長嶋に落ちた蓮淳は失脚した態になっておりました。幕府と本願寺とのパイプはここで完全に断ち切れてしまったわけです。証如石山入りの報をきいて真っ先に駆けつけてきたのが紀伊門徒衆でした。木澤長政はこれを撃退しようとしたのですが返り討ちにあってしまいます。そればかりか、堺にいた細川六郎までが脱出を余儀なくされました。このことで本願寺勢は俄に勢いづき、摂津国の大物(尼崎)、山田(千里丘)あたりで戦線が拮抗します。木澤長政、細川六郎らは堺を追われて摂津国内でこれに対陣しました。

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 ここでさらに事態をややこしくする人物が登場します。名を細川八郎晴国と言い、細川高国の弟でした。大物崩れで無念の死を遂げた兄の遺志を継ぎ、本願寺方について参戦します。


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