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2017年12月 9日 (土)

中漠:晴天航路編③木澤のオッサンの唄Ⅱ

 少し時を遡って蜂起した河内門徒衆がどんな人々であったかを考察します。彼らはかつて石山御坊にいた蓮如と蓮能によって教化された人々でした。蓮如は細川政元への義理もあり、総州畠山義豊を支援するつもりで布教を進めていたと考えられますが、その義豊は尾州畠山尚順によって討ち取られ、それに前後して蓮如も寂してしまいます。遺された蓮能とその実賢を筆頭とする子供たちは畠山旧宗家の血を引いていました。彼女たちの立場で、戦乱の河内国で何かを働きかけようとするならば、それは尾州畠山家と総州畠山家との和睦を進め、平和を実現することであったと考えられます。そして、それは実現しました。1504年末、尾州畠山尚順と総州畠山義英は和睦にいたします。しかし、その和睦は細川政元にとってすこぶる都合の悪いものでした。細川政元は時の本願寺法主実如に畠山討伐を命じます。蓮能はこれにあらがいますが、実如は加賀門徒衆を河内に派遣し、石山御坊の蓮能一派を拘束することで細川政元に協力します。そして細川政元は赤澤宗益・三好之長の二人を派遣して、大和・河内を蹂躙しました。その後細川政元が暗殺されて周防に逼塞していた足利義稙が上洛すると、細川高国と尾州畠山尚順がそれに味方し、河内国は尾州家が支配するようになりました。しかし、1527年(大永七年)に細川高国が内紛によって京から没落し、畠山稙長(尚順の子)も柳本賢治に攻められ、紀州に没落します。柳本賢治ら堺幕府派はここに総州畠山義堯(義英の息子)を置いて河内を支配させたわけです。

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 拘束された蓮能とその息子たちに対するその後の本願寺における扱いは冷たいものでした。彼女たちは破門を言い渡された後、三年後に一応は許されます。細川高国治下で恭順することで生き残った本願寺は体制固めを行い、法主との血縁の近さで家門の序列を定めたのですが、法主実如の兄弟たちには「連枝」の家格が与えられたものの、蓮能の息子たちにはそれより一段落ちる「一家」の家格があてがわれたのです。彼女たちは石山御坊に戻ることは許されず、各自の寺院があてがわれました。その一人の実悟などは早い時期に加賀三ヶ寺の一つ、本泉寺の蓮悟の養子として迎えられて本泉寺の後継者と目されていました。大坂一乱の折には加賀にいて無関係だったのですが、あおりを受けて後継者の立場を外され、末寺に追われる目にあいました。蓮如・蓮能によって教化された河内門徒衆を長く支配したのは畠山尚順・稙長ら尾州畠山家の面々でした。総州畠山義堯は細川高国の都落ちで河内を任されたにすぎず、尾州派の残党も国内にいて不安定な状況でした。

  さらに悪いことに京都や堺においても指導者層の内輪もめで誰につけば安心であるかをはっきり示す人物はいませんでした。そんな中に現れたのが証如だったわけです。形勢としては、総州勢が畠山義堯派と木澤派に分裂して争っていたところを旧尾州派の門徒衆が証如を担いで襲い掛かったというところでした。木澤長政はこれによって命を救われましたが、河内の支配者はいなくなってしまったのでした。証如は返す刀で門徒衆を堺に向かわせ、三好元長を屠ると山科本願寺に戻ってしまいます。茨木長隆の策は、手術で病巣を取り除いたものの、開腹した傷口を縫い合わせもせず、そのまま放置したに等しい所業でした。

  この頃の本願寺兵は軍団の体をなしておらず、それぞれがそれぞれの利害で動く連中でした。彼らにとって国境を接する大和国は尾州畠山尚順と大和国人衆が同盟を結んでいたこともあり、尾州畠山家旧臣でかつ門徒衆である彼らにとっては勢力範囲の一部でした。そして、彼らの大和衆への働きかけは興福寺への狼藉という最悪の結果を生み出すことになります。ではどのような大義が彼らにあったか、それを端的に示すのが尾州畠山稙長の存在です。彼は桂川原合戦後、柳本賢治に河内を追われて紀州に潜伏していたのでした。そして、河内門徒衆の興福寺襲撃に前後して攻め滅ぼされた総州畠山義堯が拠点としていた高屋城に遊佐長教に守られながら、こっそりと入っていたのでした。後に三河一向一揆を起こす三河門徒もそうでしたが、河内門徒衆も王法を体現する領主と仏法を体現する法主に両属していたわけです。
 証如と蓮淳は興福寺襲撃と言う暴挙を止めにかかりますが、収まらなかったのは、この場はより都合のよい王法の主人に従ったにすぎなかったでしょう。あるいは、大坂一乱で蓮能一派を捕縛したことも影響しているのかもしれません。彼らは仏法の楽土を築くために門徒衆は蜂起したのであって、細川家の走狗になりたかったわけではありません。説得は難航し、それより早く幕府の方が先に本願寺全体を敵認定してしまいました。

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 木澤長政はいち早く総州畠山義堯の遺児在氏の身柄を確保すると、自らの居城飯盛山城に置きます。木澤長政にはそうしなければならない理由がありました。すなわち、彼の配下にも門徒衆がいたはずだからです。こと河内での戦いの局面において本願寺対幕府の形にしては総州家を二つに割ってしまった木沢勢は自派から門徒衆をぶっこ抜かれ、動乱の渦にのみこまれていたことでしょう。総州畠山在氏にとって木澤長政は親の仇でもあるのですが、彼自らが手を下したわけではありません。結果として彼は木澤長政の傀儡となってしまうのですが、木澤長政の保護下に入ることで総州畠山軍団は再びまとまることができました。そして木澤長政は尾州派河内門徒の拠点である浅香道場を襲撃します。これの報復として本願寺坊官下間刑部太夫が堺を襲いますが、これを返り討ちにしたのが木澤長政でした。

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