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2017年12月 2日 (土)

中漠:晴天航路編②木澤のオッサンの唄Ⅰ

 戦国時代の畿内における権力抗争はまことに凄まじく、敵味方が簡単に入れ替わってしまいます。そんな中でひときわ異彩を放っていたのが、中世人離れした価値観の持ち主である赤澤宗益や宗益の振る舞いに新たな価値を見出そうとした古市澄胤などの一代英傑たちでした。その延長線上に位置する傑物で天文錯乱に大きくかかわり、歴史にひときわ大きな光彩を放っていた人物を本稿にて紹介したいと思います。名を木澤長政といいます。彼は毀誉褒貶の激しい人物ではありますが、戦国時代を語るに欠かせない英傑の一人であると思います。

  木澤長政の前半生は不明です。ただ、同じ木澤姓の人物が畠山持国に仕えていたことが確認されておりますので、その縁者ではないかと思われます。応仁の乱からこちら主家畠山氏は尾州家と総州家に分裂して飽くことのない戦いに明け暮れていました。鷲尾隆康の日記である二水記の1530年(享禄三年)十二月十八日の記事によると、彼は元々畠山家の被官であったが、命令によって遊佐某を生害した後に出奔。その後細川高国の被官人になり、河内で活躍して堺の細川六郎に仕えることになったという意味の記述があります。この頃、木澤長政は暗殺された柳本賢治の後釜として京の治安を守る任を得ていました。これはあくまでも上洛した木澤長政の来歴を噂として書きとめられた話で、正確であるかどうかはわかりません。

 木澤長政は畠山総州家の義堯に仕えておりました。桂川原で都落ちした細川高国が浦上村宗と組んで上洛戦を挑んだ時、京を守っていた柳本賢治が播磨に出陣、その留守に京を守るように言いつけられたのが、木澤長政でした。畠山家は応仁の乱以前は山城守護を任されていました。それ以後、明応年間には配下の遊佐弥六を送り込んだりして、チャンスを見ては南山城への影響力を確保しようと工作しております。木澤長政の在京もその一環であったのかもしれません。京に入った噂については、遊佐弥六のように畠山家の干渉ととられることを避けるために敢えて細川家被官の立場を強調したとも考えられます。

 柳本賢治は播磨であえなく暗殺の憂き目にあい、その結果、高国・村宗連合は勢いづいて京都も占領されかけます。そんな中、京を守っていたはずの木澤長政はいつの間にか行方不明になりました。高国・村宗連合は結局中嶋の戦いで敗れ、大物崩れで全滅します。そのタイミングで元高国派の重鎮で細川六郎(晴元)に寝返っていた細川尹賢を摂津で捕縛して殺害しています。この功をもって京の防衛を放棄した罪は許されたようです。ただし、許してくれたのは細川六郎とその側近衆であって、主君である総州畠山義堯からしてみれば、細川も柳本もいない京を確保する絶好のチャンスをみすみす逃したことになるのでしょう。彼の祖父にあたる義豊も南山城に家臣の遊佐弥六を派遣して既成事実づくりを試みましたが、その時は細川政元配下の赤澤宗益に蹴散らされました。国境に高国方の六角軍がいたものの、やりようはあったのかもしれません。

 しかし、それは結果論です。前例として大内義興を引き連れた足利義尹(義材・義稙)が京を席巻した前例もあり、誰も大物崩れなどの大番狂わせが起こるなど予想の立てようもなかったはずです。ともあれ、細川高国と浦上村宗が排除されたことによって、実質的には三好元長が幕政を仕切る路線が確定しました。将軍候補の足利義維と管領候補の細川六郎がどちらも若年であったためです。いち早く総州畠山義堯は三好元長を支持いたしますが、丹波や摂津の国人衆は三好之長の孫の台頭に眉をひそめました。木澤長政もその一人です。そんな空気を読んで三好一門衆の中から三好政長も同調して元長いびりを始めます。三好元長は戦争に強くて補給指揮にも優れた軍人でしたが、煽り耐性にかけていたようです。京で政治的に敵対していた柳本賢治の息子、甚次郎を討ち取ってしまったのです。このことが細川六郎と三好元長の関係を決定的に悪化させてしまいました。しかも、六郎の傍には変節した一門衆の三好政長や摂津国人茨木長隆、そして木澤長政も控えていて反三好元長ラインを形成してしまいます。阿波守護に保護されていた恩も忘れて細川六郎は摂津・河内国人衆の手の内に入ってしまったのでした。しかし、それは総州畠山義堯の頭ごなしに行われていたことでした。ですので彼は三好元長と諮り、木澤長政が籠もる飯盛山城を攻めます。この攻城戦には三好元長は一門の一秀を援軍によこします。彼は元長の大叔父、つまり三好之長の弟にあたる人物です。木澤長政にしてみれば普通に考えて勝てる戦ではありませんでした。

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  絶体絶命の木沢長政に助け船を出したのは細川六郎の右筆筆頭茨木長隆でした。彼の縁者の妻が本願寺教団の幹部である下間氏出身者であったらしい。彼は下間氏を通して証如を動かしました。木澤長政はその時、畠山義堯に攻められていて関与は出来なかったものと思われます。証如は自ら摂津闕郡の石山御坊に入って摂河泉の門徒衆に号令をかけました。証如は蓮如の曾孫にあたり、名望も高かったこともあるでしょう、何より自ら石山まで出向いたことが身業の報謝行、すなわち本願を果たしてくれる阿弥陀如来に対して行動で感謝の意を示すこと、を促す結果になったのです。証如の檄に呼応して蜂起した摂河泉の門徒衆の規模は半端なものではありませんでした。津波の如く飯盛山上を包囲した畠山・三好連合軍を飲み込んで後には何も残さなかったのです。

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