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2017年12月23日 (土)

中漠:晴天航路編⑤細川晴国の乱

 細川晴国は大物にて無念の戦死を遂げた細川高国の弟でした。彼が起こした反乱は天文の錯乱(第一次石山戦争)の陰に隠れて見えにくいものですが、乱の展開に大きな影響を与えています。おそらくはこの挙兵の仕込みは波多野稙通によるものであったと思われます。彼の弟の一人、香西元盛を細川政賢の讒訴で失い、それが細川高国に対して戦いを挑むきっかけとなったのですが、もう一人の弟の柳本賢治も高国によって暗殺されました。賢治が率いていた柳本衆も細川六郎の起こした不条理な内乱のせいで壊滅の憂き目にあいました。波多野稙通にしてみれば細川六郎は細川高国を討ち取った時点で足利義維を担いで上洛していれば良かったのです。茨木長隆や木澤長政のような摂津・河内国人衆に良い顔をして三好と足利義維を排除するような小細工を弄したが故に無用な内乱が留まるところを知らず拡大したわけでした。彼が早い段階で細川六郎を見限っていたとしても、それは不思議でもなんでもありません。彼は幕府に運命を弄ばれた弟たちとは違って細川京兆家とは距離をとり、慎重に丹波国に勢力を扶植しておりました。とは言え、彼もまた自らの実力で得た領地を保証してくれる存在を欲していました。六郎の能力不足はあきらかでしたので、代わりを探して見つけたのが細川晴国であったわけでしょう。

 細川晴国は丹波国境に近い山城国高雄山にて挙兵しました。それに機を合わせて波多野稙通は西丹波の母坪城へ攻め入っています。ここを守っていたのは赤澤景盛、おそらくは宗益・長経の縁者でありましょう。赤澤景盛は緒戦は防いで桑実寺にいる足利義晴より感状を得ております。波多野稙通は足利義晴から敵認定されてしまったわけですが、この人物は細川高国に擁立されたにもかかわらず、その高国を討ち取った六郎と結ぶような人物でもありました。波多野稙通は戦で勝ちを連ねればいくらでも状況をひっくり返せると考えていたものと思われます。彼としてみれば最終的に京都に将軍を中心とした五畿内管領体制を整わせるのが目的であったはずです。

 細川晴国の挙兵の直前、桂川、淀川沿いに洛中法華宗徒軍が石山御坊に向けて行軍しておりました。晴国の挙兵はその退路を脅します。細川六郎は晴国に対して摂津国高槻にいた薬師寺国長を差し向けます。彼は細川政元対して反乱を企てた薬師寺元一の遺児でした。幼年故許され、後に細川高国に認められ摂津守護代を務め、その死後は六郎に仕えていたのです。しかし、薬師寺国長は高雄山まで攻め込んだものの返り討ちにあってしまいました。薬師寺国長の敗死により、京と摂津のルートは分断されたことになります。これによって洛中の町衆で組織された法華軍団は浮き足立った役立たずになります。

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 西摂津の池田・伊丹両城にいた 細川六郎、茨木長隆、木澤長政にとってもここで本願寺教団と殴り合いをしている場合ではなくなりました。細川晴国は細川六郎を代替する資格の保有者で、北方にはその支援者の波多野稙通がいて、はさみうちの状況になっていました。六郎・木澤長政は本願寺との和睦を策します。その白羽の矢が当たったのが、三好千熊丸でした。おそらくは消去法でしょうが、この両当事者が千熊丸にとっては親の仇でした。このあたりすごく茶番劇めいています。この時の三好千熊丸には一門を統率して意思を示すだけの力がありませんでした。自らの情を殺して、自分の手で未来を切り開くために、やむなくこの申し出を受けたのです。このあたりのお膳立てをしたのは、千熊丸本人ではなく、一門衆の一人、三好伊賀守連盛という人物であったらしい。しかし、事態はそう簡単に収まってはくれませんでした。

 細川晴国や波多野稙通の存在です。波多野稙通は母坪城を陥落させて赤澤景盛を討ち取りました。細川晴国も薬師寺国長を返り討ちにして高雄を守り切った勝利の余勢をかって京へと軍を進めます。この間京都を守っていたのは良くも悪くも法華宗徒たちでした。将軍も管領もいない町を守り続けてきた自負も芽生え始めていました。山科の本願寺を破り、摂津富田の教行寺も焼き、石山に迫った軍団も持っていました。細川六郎に貸しを作る意味でも、戦う意義を感じていたようです。1533年(天文二年)十月二十二日細川晴国勢と法華宗徒勢が西院で戦います。晴国勢にも京を目前にして抵抗はないだろうと思っていたのかも知れません。法華勢は無事京を守りおおせたのでした。十二月には細川晴元勢が西岡に侵入しましたが、ここを任されていた野田弾正忠らが守り通したようです。晴国勢は内野大宮といいますから、旧大内裏のあった場所(明徳の乱で山名勢が戦った場所でもあります)まで迫りましたが、結局都を占拠するにはいたりませんでした。その事態打開にすがったのが、六郎方との和睦によって体制固めの時間を得た石山御坊でした。

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※国土地理院地図(https://maps.gsi.go.jp/)を加工


 その時間を利して東摂津の国人三宅国村が本願寺に与し、細川晴国を支援します。三宅氏は茨木氏の所領春日荘に隣接する三宅荘の荘官の出であり、三宅国村の妻は摂津富田の教行寺の坊官、下間頼広の娘であり、彼もまた本願寺と縁の強い人物でした。結局のところ細川晴国がその存在感を示したのはここまでで、こののちジリ貧になってゆきます。本願寺が防戦一方になると細川晴国も占領地を維持できず、三宅国村らとともに、摂津中島砦の防備に駆り出されてしまいます。そこが落ちたのち、三宅国村は細川晴国を見限り、石山本願寺降伏後堺に亡命することになった途上、天王寺において自害を強いられてしまいました。しかし、彼が稼いだ時間が石山御坊の証如たちの運命をも変えてゆくことになります。

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