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2018年1月27日 (土)

中漠:晴天航路編⑩武野仲材のアーバンライフⅠ

  本稿で取り上げるのは、茶人として後世に名を遺した武野紹鴎です。彼が上洛して京文化を吸収していた時期はまさに、桂川原合戦から天文法華乱までの間のまさに混沌とした時代でした。

● 本稿の主人公とシラバス
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 武野紹鴎こと、武野新五郎仲材が上洛したのが、1525年(大永五年)の頃でした。彼は四条通にある夷堂脇に居を構えてそこを大黒庵と称しました。その心は七福神の恵比寿様の隣に大黒様はつきものであるという他愛の無いものでしたが、なにしろこの時、武野新五郎は齢二十五の裕福な商家のボンボンでしたので、そのような稚気があってもそういうものかと思います。京は細川高国執政で、大内義弘も足利義稙もいない反面、三好勢を四国に追い払って比較的安定していた政治状況下ではありましたが、それはすぐに崩れます。翌年に細川尹賢の讒言で重臣香西元盛を誅殺したことをきっかけに細川高国は政権転落する羽目に陥ったのでした。

 武野新五郎が初めて三條西実隆にあったのは1528年(大永八年)三月九日でした。印政と号する連歌師に連れられての面会で、進物を持って来ており、三條西実隆はこの新五郎と酒を酌み交わしました。この時の注記に「皮屋云々」とも書かれていた為、この新五郎が屠殺を生業にする身分の者ではないかと疑われたりするのですが、この当時、皮革は鎧などの武具の素材として利用されており、武者の必需品でもありこれを商うことは商人の大きな収益源でもあったわけです。皮屋はその屋号であり、それは天文四年四月二十八日付、開口神社念仏差帳日記という奉加帳に武野紹鴎が皮屋の屋号で寄進していることでも裏付けられます。日記を読み進めてゆけばわかるのですが、武野新五郎は三條西実隆の家を訪問するたびに、現金を含めた様々な進物を贈っておりますので、大金持ちであることは間違いが無く、皮革製品を商うことはあっても自ら屠殺に手を染める立場ではなかったかと思われます。

 この前年に三條西実隆が懇意にしていた幕府管領の細川高国は京を追われ、治安が悪化してきていました。三條西家は伏見三栖に荘園を持っていたのですが、年貢徴収にトラブルが発生していました。武野新五郎そのトラブル解決に乗り出し、一時は年貢を届ける約束を取り付けたのですが、その途上で地下人に横領されてしまうと言う結果に終わってしまいます。その翌年はなんとか年貢を確保できたので小康を得ました。

 その功というわけではないのでしょうが、その翌年の1530年(享禄三年)に武野新五郎は朝廷より従五位下因幡守の官位を取得します。もっとも、実隆公記にはそれ以後も彼のことを官職で呼ぶ記述は無いのですが、どうも並行して売官をしていたらしいです。この従五位下因幡守、武野新五郎は伝承では若狭武田氏の血を引いているらしいものの俄には信じがたい話です。この年、細川高国を京から追い出して自ら支配者になっていた柳本賢治は播磨まで出陣して暗殺されてしまい、代わりに木澤長政が河内から派遣されてきました。細川高国は播磨の浦上村宗とタッグを組んで京の街を窺います。朝廷も大きく動揺していたものと思われます。そのどさくさまぎれと言うわけかもしれません。

 そして時代は武野新五郎に遊学生活だけをさせてはもらえませんでした。彼が本願寺教団門徒である旨は先に書きましたが、1531年(享禄四年)六月末に在京の彼に対して山科本願寺から招集がかかったのです。この時、上洛戦を仕掛けてくる細川高国につくか、堺に幕府をたてた足利義維・細川六郎コンビにつくかで加賀国の本願寺教団が真っ二つに割れました。世に言う大小一揆です。元々加賀を基盤としていた三ヶ寺と、永正の一向一揆で越前国を追われた超勝寺等の亡命寺院が本寺の本願寺と結託して起こった争いでした。加賀三ヶ寺は細川高国・朝倉氏・能登畠山氏との協調路線を取り、本願寺教団の意を受ける亡命寺院たちは堺幕府の足利義維・細川六郎方で内戦が始まったのです。
 武野新五郎はその山科本願寺方に呼び出されたわけです。彼は本願寺教団と深い関係にありました。後に彼の息子の武野宗瓦は本願寺坊官の娘と結婚します。すなわち、武野家は本願寺教団幹部衆とも付き合いがあったわけですね。幸い彼は戦場に行くことは無かったようです。恐らくは、近江から美濃飛騨周りで兵を送り込む兵站と武器調達に従事していたものと思われます。と言うのは、戦闘は十一月まで続いたのですが、彼は八月には京に舞い戻っております。どうもこの出兵で武野新五郎は本願寺教団にきな臭い危うさを感じ取ったようです。

 翌年早々の二月十五日、突如武野新五郎は大徳寺に参禅。得度して大黒庵紹鴎一閑居士と名乗ります。その間に三好元長と細川六郎の関係は修復不能なところまで悪化しました。三好元長は畠山義堯と組んで、親六郎派の木澤長政を攻めさせますが、細川六郎とその側近茨木長隆は本願寺に命じてこの二人を討たせます。それどころか、さらに侵入して興福寺を焼く事態となって細川六郎と本願寺との対立が決定的になってしまったのでした。

 茨木長隆は今度は洛中法華衆を動員します。柳本衆の生き残りの柳本信堯と山村正次らが中心になって、京の町衆を兵卒に仕立て上げました。そして、洛中にある本願寺系寺院の破却とともに、六角定頼の軍と合流して山科本願寺を攻撃せよと命じました。もし、武野紹鴎が大徳寺に逃げ込まなければ、彼には再び本願寺からの動員がかかったか、あるいはいきりたった法華宗徒に血祭りにあげられていた可能性があります。

 大徳寺の僧籍に入ることで彼は自身の安全を確保しましたが、洛中洛外は阿鼻叫喚の巷と化していました。山科本願寺は破却され、石山に移り、洛中法華衆はその追撃をして摂津国富田教行寺を焼きました。その戦いに関連すると思いますが、1532年(天文元年)十二月に堺で大火があり、北庄全域と南庄三分の二が焼けてしまいました。翌年は流石の武野紹鴎も堺に戻ります。その後は堺と京都を往復する生活になりましたが、いつの間にか京の街は法華宗徒の王国となっておりました。しかし、法華宗徒は所詮は商人・地下人の寄せ集めに過ぎません。金がある分装備は潤沢ではありますが、兵の練度が圧倒的に足りておりません。要するに周辺勢力より圧倒的に弱いのです。

 最終的には延暦寺に絡まれて六角氏の介入を招き、京の街は史上最大の破壊と略奪を経験することになります。武野紹鴎と三條西実隆との交流はそれ以降も続きましたが、1537年(天文六年)十月三日に三條西実隆は亡くなりました。それ以後、武野紹鴎は生活の基盤を堺に移すことになります。

●武野仲材のアーバンライフ年表
「chronology_tables_takenonakaki.pdf」をダウンロード

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2018年1月20日 (土)

中漠:晴天航路編⑨蓮淳・イスト・ヴィーダー・ダー

 タイトルはドイツ語です。直訳すると「蓮淳がまたここにいる」、意訳すると「帰ってきた蓮淳」という感じになります。とある映画化された小説のタイトルをパクってます。すみません。
  下間頼玄、頼盛親子には味方についた三好千熊丸を説得して阿波にいる足利義維を確保し、細川晴国が山城にいる間に連携するという手もあったはずです。それができなかったのは恐らくは蓮淳の存在があったからだと私は見ています。下間頼盛は石山に入山するまでは伊勢にいました。同じ国の長嶋願証寺には蓮淳がいたのですから、当然頼盛は石山への入山前に蓮淳に挨拶くらいはしたはずですし、蓮淳の方も下間頼盛にやってはいけないことを言い含めておくくらいのことはしていたのではないか、と想像しています。

  それでも木澤長政や細川六郎との戦闘は避け得なかったわけですが、この時下間親子には勝利条件の設定をすることができませんでした。細川晴国を手元に置いていた以上、細川六郎が本願寺を許すことはできませんし、かといって、かといって連枝寺院である富田教行寺のコネクションを通じて頼ってきた細川晴国や石山に入り込んでいた細川高国の旧臣たちを追い出すことは下間親子には許されていませんでした。細川高国の旧臣衆は状況から見て畠山稙長派河内国人衆として入山したものと思われます。石山本願寺には畠山家の血を引く一家衆の実従がいました。

 下間一族は大谷家の家宰に過ぎず、一門一家の意向に反した行動は取れなかったものと思われます。かつては実如と蓮淳の命令で下間頼慶が石山御坊にいた蓮能親子を捕縛しましたが、実如はすでにこの世の者ではなく、蓮淳も伊勢に亡命中です。石山にいる証如はまだ若年ですし、三河本宗寺の実円はこの一連の戦いにおいての存在感は極めて薄いです。とはいえ彼は何らかの働きをしていたことは間違いなく、享禄錯乱で三河兵を加賀に送り、1534年(天文三年)に下間頼玄より美濃・尾張・三河三国の兵を番衆として石山に派遣する要請を受けたことは確かで、その前年にあった西美濃衆の石山派遣にも関与していたのではないかと想像できるのですが、実際どこにいたかは史料に出てこないのでわかりません。石山にいたのならもう少し明瞭な形で史料に残るはずですが、石山にいなかったのか、または故意に記録を残さなかったのか、よくわかりません。いずれにせよ、石山の法主一門には実従以外に意思決定ができる人物はいなかったはずです。下間頼盛としては河内門徒衆から離れるために法主を連れて晴国派の巣窟となった石山からの脱出を試みるのが精いっぱいでした。この試みは失敗します。退避先が晴国派の三宅国村のもとというのでは、細川六郎からの赦免を勝ち取れる見込みがなかったためと推察します。

 結局、下間親子ができたことは石山に味方を集めて本願寺のみを防衛することだけでした。その結果、波多野稙通や尾州畠山稙長ら本願寺の力を利用して自らの勢力の拡大を図ったものは手を引いたり、脱落したりし、細川六郎の最大の脅威である細川晴国も山城の占領地を維持することができなくなります。本願寺は孤立し、勝利の展望が見えなくなって頼みの綱の三好伊賀(連盛)も去ってゆきました。劣勢はますます明らかになってゆきます。ここに至って本願寺を救うのは個々の戦闘の勝利ではないことが誰の目にも明らかになったのでした。

 この状況を待っていた人物がいました。恐らくそれは下間頼盛に証如を守り切ることだけを命じ、それ以外のことをすることを禁じた人物。すなわち蓮淳です。彼は伊勢で逼塞しつつ、戦闘の状況を見守っていました。水面下では京の公家や石山の実従、教行寺実誓、本稿ではあまり言及しておりませんでしたが、紀伊に下った興正寺衆らと接触を図り続けていたと思われます。1535年(天文四年)四月七日に南河内高屋城で遊佐長教によるクーデター後の畠山軍が蜂起すると、これに対応して下間頼盛が自ら兵を率いて出陣しました。蓮淳はその間隙に滑り込むように石山本願寺に入ります。それ以後、下間頼盛は二度と本願寺に入ることはありませんでした。

 畠山軍は五月三十日には河内八ヶ所(河内十七ヶ所南方の荘園群)に侵入し、そこから西進して杜河内、長田、稲田の本願寺防衛の城砦群と次々と落とし、翌月十一日には天王寺近辺の諸村を焼きます。もはや本願寺は目の前にありました。その翌日に畠山軍と本願寺勢が戦うのですが、ここで本願寺は大敗北を喫します。後奈良天皇がこの戦いを本願寺滅亡と評したくらいの大負けでした。恐らくここで戦ったのは下間頼盛が加賀から連れ帰ってきた兵と丹下盛賢ら旧畠山稙長派の河内衆であったと思われます。それから半月も経たぬうちに本願寺は紀州から増援を得ておりますので、蓮淳は現在の本願寺勢の主力である河内衆の力を削ぐことを策していたようです。

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※国土地理院地図(https://maps.gsi.go.jp/)を加工

 紀州からやってきたのは傭兵集団雑賀衆(この頃はまだ鉄砲を持っていません)と、紀州に下っていた興正寺衆でした。興正寺は蓮如に折伏された浄土真宗仏光寺派の分派で、興正寺衆は証如が石山御坊に入り第一次和睦後に本願寺に入山したものの、証如との間にゴタゴタがあったらしく、すぐには法主との対面は許されずに和睦破談後の戦闘でにっちもさっちもいかなくなった段階でようやく対面かなったものの、紀伊に下るように命じられたという石山本願寺の体制においては非主流の立場に追いやられておりました。蓮淳はこの興正寺衆と富田教行寺衆(これには三宅国村も含まれます)に和平交渉をさせました。本山に残っていた下間頼玄は筆頭奏者の任を解かれ、その翌年に没します。後任奏者は弟の頼慶です。蓮淳も下間頼慶も蓮能一派粛清という脛に傷を持つ身なので石山入りには心理的抵抗があったようですが、情勢的には山科本願寺再建はほぼ不可能になっていました。腹を割って蓮能の遺児実従と話をし、妥協が図られたものと推察します。むしろ、証如が石山を新たな拠点として本願寺を運営するならば、畠山家との関係修復は不可避であり、畠山家の血を引いている実従の存在は不可欠なものであったでしょう。興正寺と富田教行寺が進めていた和睦交渉は順調に進み、九月には本願寺が封鎖していた摂津水路の閉鎖を解除、三宅氏を介して人質を幕府に引き渡します。十一月になってようやく和議が整うわけですが、和議を整えるだけなら蓮淳がいなくてもできたことであり、大事なことは和議を実効性のあるものにしてゆくことです。そのために蓮淳が行ったことは容赦のない粛清の嵐でした。

 私はその粛清第一号を徳川家康の祖父松平清康としています。詳しくは「川の戦国史・英雄編」をご参照ください。異論は認めます。松平清康が尾張守山で阿部弥七郎に斬殺された翌月に、下間頼玄は没します。死因はわかりませんが、暗殺が横行していたこの時代に実にタイミングの良い死であったろうと思います。この戦いにおいて降伏を許されない立場の者がおりました。細川晴国です。彼は下間頼盛と一緒に本願寺継戦派の門徒宗を中嶋砦に集めて抗戦します。三好軍がこれに当たりますが、この間まで味方だった者たちと戦うことには気が引けたのか、手こずります。木澤長政がこれに介入し、証如も攻城軍に補給物資を送ったり、砦の兵たちに破門をちらつかせたりすることで七月二十七日に中嶋砦は陥落します。哀れをとどめたのが、細川晴国でした。彼は堺に落ち延びて再起を図ることを勧められます。勧めたのは彼を本願寺に仲介した三宅国村でした。三宅国村は晴国一行が天王寺までたどり着くや態度を豹変させて細川晴国に自害を勧めます。晴国の最期はすべてに見捨てられた上での死でした。下間頼秀・頼盛兄弟もその二年後に本山が送った刺客により死を賜っております。その翌年に堅田本福寺の明宗が寂します。実如の代に近江顕証寺にいた蓮淳と争った遺恨の果てに三度の破門食らった結果、配下の門徒衆は飢え死にしてゆくことを目の当たりにした上での憤死でした。蓮淳は自分がコントロールできないものを極度に恐れていたようです。

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 その一方で、細川晴国を本願寺に引き入れてしまった富田教行寺の実誓にはお咎めがありませんでした。教行寺衆が和睦に意を尽くしたことと、蓮淳は伯父に当たるわけですが、女系でも大伯父でかつ祖母が蓮淳の同母妹です。三河本宗寺実円は美濃・尾張・三河門徒衆を動員できる立場であり、下間頼玄・頼盛親子を御すべき立場であったはずですが、十分な端ら指揮をしていませんでした。蓮淳は美濃・尾張の動員権を取り上げて伊勢長嶋願証寺にいる次男実恵に与えました。実円はその後播磨英賀本徳寺の経営に注力することになります。大阪湾に面した石山を本山とするとなれば、瀬戸内海沿岸にある英賀はより重要性を帯びるだろうことを見越してのことでしょう。

〇教行寺実誓関連系図
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 身内、それも蓮能の息子の実従を除けば蓮祐系の兄弟に実に甘い裁定であると思います。

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2018年1月13日 (土)

中漠:晴天航路編⑧調略合戦

 証如の石山退去に失敗した下間頼玄、頼盛親子は腹をくくるしかありませんでした。何より優先したのが石山本願寺防衛のために、諸国の門徒衆に動員をかけたことです。四月四日に蓮応こと、下間頼玄は飛騨国白川郷の照蓮寺に本願寺防衛のための出兵以来の書状を送ります。この書状には、照蓮寺だけではなく、美濃、尾張、三河三国の坊主衆の動員命令も出ていることが記されています。

〇照蓮寺宛蓮応(下間頼玄)書状 金龍静著 一向一揆論 吉川弘文館刊行 より引用
能以書状申候。仍此方之近所まで敵罷出、方々令放火候。雖然当御山之儀、堅固御座候。乍去為御用心ニ候之間、美濃・尾張・三川三ヶ国坊主衆、可有上洛之由、被仰出候間。貴所之儀同前ニて候。乍御大儀上洛待入候。拙者も二月辺より、此方致祇候事候。必々御上待申候。恐々謹言。
四月四日 蓮応(花押)
照蓮寺御房
   進之候

 これらの地域は1531年(享禄四年)大小一揆の折に加賀に派遣された三河坊主衆の行軍ルートにある国々でした。この前年に大垣の順行寺を初めとする西美濃十ヶ所や揖保郡永徳寺グループの門徒衆が本山防衛のために参上し戦ったと言います。
 このころ、木澤長政は越智氏に協力して大和に向かっており、吉野の一向衆の拠点である本善寺を攻め落としました。ここは実従の実兄である実玄が住持を務めている御一家寺院でもあります。これを機に石山本願寺は和議の破棄に踏み切りました。そして、仲介の労をとった三好家に働きかけて三好伊賀(連盛)と久介を味方につけることに成功します。三好伊賀は一門衆に連なっているものの、のちに失脚しますので詳しいことはよくわからないのですが、少なくとも宗家の中枢にいた人物ではないかと思われます。この三好伊賀に対して宗家千熊丸が掣肘したという話はありませんので、私は三好宗家は伊賀に与同、もしくは好意的中立の立場にいたと考えております。元々が無理筋の講和でしたし、講和の実効性を担保する勢力はどこにもいませんでした。こうなることはある意味必然であったでしょう。

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 大和国でも吉野の一向衆が反撃に出て金峰山寺を焼きます。そして中嶋から豊中のライン、八尾に防衛線を引いて細川六郎方に敵対しました。これに対して六郎方は木澤長政を介して大きな一手を打ちます。それは尾州畠山方を支える遊佐長教を調略して当主の畠山稙長を追放することでした。この時までに尾州畠山稙長は高屋城を回復、総州派主力の木澤長政は摂津伊丹に陣を構え北から本願寺と対峙していました。尾州派としては失地回復のチャンスでしたが、この時河内には事実上二人の国主がいる状態になっています。一人は高屋城の畠山稙長、そしてもう一人は石山本願寺にいる証如でした。

 遊佐長教は畠山家の譜代の重臣です。河内門徒衆の主力の多くは尾州畠山家臣たちでした。それが本願寺証如に靡いてゆくさまを見せつけられていたものと思われます。そこで木澤長政が囁いた誘惑の一言、「河内を南北に分けて飯盛山城を中心とした北河内を総州畠山在氏が、高屋城を中心とした南河内を尾州畠山稙長を後々に呼び戻して治め、木澤は北守護代、遊佐は南守護代として分け取りにしよう」という提案は遊佐長教にとって魅惑的に聞こえたかもしれません。

 実はこの時までに遊佐長教が判断を迷う出来事が丹波で起こっていた形跡があります。こういう言い方をするのは確証がないからなのですが、どうもそれまで細川晴国方についていた波多野稙通が細川六郎方についたようなのです。状況証拠として考えられることが幾つかあります。1533年(天文二年)六月五日に波多野稙通は丹波母坪城を陥落させて赤澤景盛を討ち取りましたが、それと同時期に丹波黒井城も攻め取って城主赤井時家を播磨に追いやっております。ところが、天文一揆後には波多野稙通は細川晴元に仕えて、黒井城を母坪城と一緒に赤井時家に引き渡しております。本願寺が完全に降伏した後であれば、丹波征伐が起こっても不思議はなかったはずですが、それを回避し得たのは恐らくはこの時点で本願寺方を見限って中立に転じたからではないかと思います。

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 そしてもう一つ。遊佐長教が畠山稙長を河内から追放した翌々月の十月十三日に摂津国大融寺(大阪市北区)に上野玄蕃頭が陣取ってそのまま「河内せさ堂」という所に出征したという話が出てきます。この上野玄蕃頭は1533年(天文二年)六月十八日には山城国高雄山城にいて攻め込んできた細川六郎方の薬師寺国長を討ち取っております。高雄山城は細川晴国の根拠地であり、この後晴国は京に攻め込んでいたのです。少なくとも1534年(天文三年)三月十二日に証如が榎並に移った時には六郎方から細川晴国に味方するつもりだろうと疑われる程度にはその勢力は顕在だったはずが、いつの間にか山城の戦場を離れて十月には石山防衛戦争に参陣しているのです。そして1536年(天文五年)初頭には上野玄蕃頭の主君細川晴国が本願寺継戦派とともに中嶋砦に立てこもることになります。つまり1534(天文三年)年の三月から十月の間に細川晴国は戦線を維持できなくなって本願寺に移っていたようなのですね。山城での戦闘は1533年(天文二年)の十二月に洛中法華衆が洛西諸集落を放火して回った以降はこれといった動きはありません。そうした中で、高雄山城を拠点とした細川晴国が自らの勢力圏を維持できなくなる事情とは丹波の波多野稙通が六郎方についたという所が妥当なのではないか、という気がします。

 細川晴国の本願寺退転という情報が遊佐長教に入っていたとすれば、摂津欠郡から摂津淀川流域北岸以外はすべて六郎方すなわち反本願寺勢力の手に落ちたということになります。大和襲撃で興福寺も敵に回しているとすれば、本願寺は本当に四面楚歌に陥っています。これを支援する勢力は、私怨で戦っている三好伊賀を除くと尾州畠山家しかいない状況はお寒い限りです。遊佐長教はクーデターを起こして主君尾州畠山稙長を紀伊に追放してその弟の長経を擁立、木澤長政と結託して六郎方につきました。これに反発した尾州畠山派の丹下盛賢は本願寺に入山します。しかし、細川晴国と同様本願寺に入った時点で詰んでいるとも言えました。

 冒頭の手紙にも書かれていた通り、下間頼玄が飛騨照蓮寺に申し入れたのは、番衆を派遣して本願寺を防衛せよということだけでした。そこには何の戦略もありません。例えば三好千熊丸を介して阿波細川持隆を説得し、阿波に逼塞している足利義維を将軍として再び担ぎ、それを管領として助ける細川晴国が上洛するルートを確保するために淀川を遡れなどの号令が証如の口から発せられたとすれば、波多野稙通や尾州畠山稙長、そして遊佐長教も乗ることはできたかもしれません。しかし、摂津欠郡の外にいて本願寺と手を組み得る諸勢力をすべて本願寺の中に取り込んでしまった結果、本願寺は孤立せざるを得ませんでした。
 その中で一人気を吐いていたのが三好伊賀でした。彼が率いる三好勢は六郎方を押しに押しまくりますが、細川六郎方が守る伊丹、池田両城を落とすには至りません。

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※国土地理院地図(https://maps.gsi.go.jp/)を加工


結局1534年(天文三年)十月末に木澤長政の仲介で和睦をせざるを得ませんでした。本願寺はますます孤立を深めてゆきます。

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2018年1月 6日 (土)

中漠:晴天航路編⑦河内の重力に魂を惹かれる

 下間頼秀の後を受けたのはその弟頼盛と二人の父親頼玄でした。頼盛は前線指揮官タイプでしたので、証如側近のとりまとめとしては心もとなく、天文三年の二月に寺務のベテランである父親がフォローすることになったということでありましょう。このあたり想像というか妄想なのですが、彼らが北伊勢にいる蓮淳から期待されていた役割はおそらく証如を石山と河内以外のどこかに移すことであったのではないかと思われます。そんな思いとは裏腹に、頼秀が退いた翌月に尾州畠山基信(稙長の弟)が石山本願寺に味方することを宣言します。尾州家は親細川高国派で桂川ら合戦後に河内を追い出されていた連中でした。それが本願寺に味方すると宣言することは、本願寺に和議の条件を破らせて、細川高国の弟である晴国方に引き込む意図が見え見えです。証如をこのまま石山に置いておけば、和議が敗れることは必定でした。

 そんな折、淀川対岸の摂津国三宅城(大阪府茨木市)の三宅国村から自ら本願寺教団門徒となって証如の味方になる旨の書状が届きました。この前年、摂津国守護代薬師寺国長が細川六郎方として山城国高雄に攻め込んで逆に討ち取られるという事態になっておりました。東摂津に力の真空が生まれております。彼自身は機会主義的な考えの持ち主であり、彼はその勢力の真空を自らの手で埋めたいと考えておりました。しかし、摂津国人の一人にすぎない彼単独でそれを行うのは困難であることは彼自身も理解しております。そこで考えたことが本願寺と組むことでした。

 彼には本願寺との間のパイプがありました。彼の妻が本願寺門徒であり、それも三宅城からほど近い富田教行寺の坊官である下間頼広の娘です。富田教行寺は蓮如が開き、八男蓮芸に与えた寺院で、山科と石山の中間に位置しておりました。本気で畠山氏を折伏するつもりだった蓮如が細川氏の支援を受けやすい摂津に作った後方支援拠点であったのでしょう。山科、富田、石山は川でつながる地勢でもあります。天文年間の時点では蓮芸はすでに寂しており、子の実誓の代になっておりました。下間頼広は実誓の側近でありました。教行寺は山科陥落の煽りを受けて、都から押し寄せてきた法華宗徒によって焼かれておりましたが、この時点においては細川晴国が西岡を押さえて京を攻めているところでした。法華宗はそれに対抗して洛西の集落に放火をするのがせいぜいです。当面法華衆が攻めてくる恐れはありませんでした。

 和約を維持したい下間頼盛と頼玄にとって証如を石山に留めておくことは和約破棄への一本道でしかありませんでした。証如の避難先に困っていたところで、この三宅国村の申し出は願ったりというところではなかったでしょうか。連枝である蓮芸のいた教行寺の縁者ということであればなおさらです。とりあえず証如を三宅国村の保護下に置いたうえで教行寺の再興を行うことであれば、和議の維持自体はできるとふんだのでしょう。すでに尾州畠山基信の本願寺助勢の宣言は木澤長政の攻撃を招いてしまっていました。木澤長政は本願寺の動向よりも、尾州畠山家の動きの方に敏感に反応します。そして、浅香道場の攻撃においてもそうだったのですが、そのことが本願寺を窮地に陥れることなど微塵も斟酌しない人物でもあったのです。下間頼盛らは本来であれば三宅国村との間に綿密な打ち合わせをする必要があったのですが、事態はそれを許しませんでした。

 下間頼盛は証如を連れて石山本願寺を脱出します。目指す場所は摂津国三宅と思われますが、その途上にある中洲の榎並まで来たところで足が止まります。理由はおそらく下間頼盛と三宅国村との間に認識のギャップが存在したからと思われます。すなわち、下間頼盛は和議条件に即して石山以外の証如の落ち着き先として三宅城そしていずれは富田教行寺を考えていたのに対し、三宅国村はそうではなかったということではないでしょうか?すなわち、証如の北上は証如に賛同する河内門徒軍を引き連れたものを期待していたのではないかと思っております。それはもちろん、西岡を掌握して洛中に迫る細川晴国を助けるためであり、洛中法華衆を駆逐したうえで山科本願寺を奪い返すためではなかったでしょうか。

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 一瞬で畠山義堯や三好元長を屠った証如の檄の威力を見ればそれもまた不可能ではないように思われます。しかし、それは下間頼盛には受け入れられないことでした。細川晴国に助力するということ自体、和議の条件を破ることになります。榎並から三宅城までは半日もかからない行程ですが、そこに留まり数日間を費やすということは、下間頼盛と三宅国村との間で交渉ごとがあったと解釈すれば、つじつまが合うのではないでしょうか。おそらく頼盛としては三宅国村には細川晴国と手を切ってほしかったし、国村からしてみれば、法華衆しかいない洛中を陥落させることは容易であり、下間頼盛が山科奪回を躊躇する理由がわからないということだったのでしょう。

 しかし、幕府にとっては証如を榎並に移したという行為自体が本願寺の異心を疑うに十分なことでした。曰く本願寺は三宅国村を頼って細川晴国に同心した、と。ここに下間頼盛と本願寺教団は進退窮まることになりました。

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