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2018年1月27日 (土)

中漠:晴天航路編⑩武野仲材のアーバンライフⅠ

  本稿で取り上げるのは、茶人として後世に名を遺した武野紹鴎です。彼が上洛して京文化を吸収していた時期はまさに、桂川原合戦から天文法華乱までの間のまさに混沌とした時代でした。

● 本稿の主人公とシラバス
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 武野紹鴎こと、武野新五郎仲材が上洛したのが、1525年(大永五年)の頃でした。彼は四条通にある夷堂脇に居を構えてそこを大黒庵と称しました。その心は七福神の恵比寿様の隣に大黒様はつきものであるという他愛の無いものでしたが、なにしろこの時、武野新五郎は齢二十五の裕福な商家のボンボンでしたので、そのような稚気があってもそういうものかと思います。京は細川高国執政で、大内義弘も足利義稙もいない反面、三好勢を四国に追い払って比較的安定していた政治状況下ではありましたが、それはすぐに崩れます。翌年に細川尹賢の讒言で重臣香西元盛を誅殺したことをきっかけに細川高国は政権転落する羽目に陥ったのでした。

 武野新五郎が初めて三條西実隆にあったのは1528年(大永八年)三月九日でした。印政と号する連歌師に連れられての面会で、進物を持って来ており、三條西実隆はこの新五郎と酒を酌み交わしました。この時の注記に「皮屋云々」とも書かれていた為、この新五郎が屠殺を生業にする身分の者ではないかと疑われたりするのですが、この当時、皮革は鎧などの武具の素材として利用されており、武者の必需品でもありこれを商うことは商人の大きな収益源でもあったわけです。皮屋はその屋号であり、それは天文四年四月二十八日付、開口神社念仏差帳日記という奉加帳に武野紹鴎が皮屋の屋号で寄進していることでも裏付けられます。日記を読み進めてゆけばわかるのですが、武野新五郎は三條西実隆の家を訪問するたびに、現金を含めた様々な進物を贈っておりますので、大金持ちであることは間違いが無く、皮革製品を商うことはあっても自ら屠殺に手を染める立場ではなかったかと思われます。

 この前年に三條西実隆が懇意にしていた幕府管領の細川高国は京を追われ、治安が悪化してきていました。三條西家は伏見三栖に荘園を持っていたのですが、年貢徴収にトラブルが発生していました。武野新五郎そのトラブル解決に乗り出し、一時は年貢を届ける約束を取り付けたのですが、その途上で地下人に横領されてしまうと言う結果に終わってしまいます。その翌年はなんとか年貢を確保できたので小康を得ました。

 その功というわけではないのでしょうが、その翌年の1530年(享禄三年)に武野新五郎は朝廷より従五位下因幡守の官位を取得します。もっとも、実隆公記にはそれ以後も彼のことを官職で呼ぶ記述は無いのですが、どうも並行して売官をしていたらしいです。この従五位下因幡守、武野新五郎は伝承では若狭武田氏の血を引いているらしいものの俄には信じがたい話です。この年、細川高国を京から追い出して自ら支配者になっていた柳本賢治は播磨まで出陣して暗殺されてしまい、代わりに木澤長政が河内から派遣されてきました。細川高国は播磨の浦上村宗とタッグを組んで京の街を窺います。朝廷も大きく動揺していたものと思われます。そのどさくさまぎれと言うわけかもしれません。

 そして時代は武野新五郎に遊学生活だけをさせてはもらえませんでした。彼が本願寺教団門徒である旨は先に書きましたが、1531年(享禄四年)六月末に在京の彼に対して山科本願寺から招集がかかったのです。この時、上洛戦を仕掛けてくる細川高国につくか、堺に幕府をたてた足利義維・細川六郎コンビにつくかで加賀国の本願寺教団が真っ二つに割れました。世に言う大小一揆です。元々加賀を基盤としていた三ヶ寺と、永正の一向一揆で越前国を追われた超勝寺等の亡命寺院が本寺の本願寺と結託して起こった争いでした。加賀三ヶ寺は細川高国・朝倉氏・能登畠山氏との協調路線を取り、本願寺教団の意を受ける亡命寺院たちは堺幕府の足利義維・細川六郎方で内戦が始まったのです。
 武野新五郎はその山科本願寺方に呼び出されたわけです。彼は本願寺教団と深い関係にありました。後に彼の息子の武野宗瓦は本願寺坊官の娘と結婚します。すなわち、武野家は本願寺教団幹部衆とも付き合いがあったわけですね。幸い彼は戦場に行くことは無かったようです。恐らくは、近江から美濃飛騨周りで兵を送り込む兵站と武器調達に従事していたものと思われます。と言うのは、戦闘は十一月まで続いたのですが、彼は八月には京に舞い戻っております。どうもこの出兵で武野新五郎は本願寺教団にきな臭い危うさを感じ取ったようです。

 翌年早々の二月十五日、突如武野新五郎は大徳寺に参禅。得度して大黒庵紹鴎一閑居士と名乗ります。その間に三好元長と細川六郎の関係は修復不能なところまで悪化しました。三好元長は畠山義堯と組んで、親六郎派の木澤長政を攻めさせますが、細川六郎とその側近茨木長隆は本願寺に命じてこの二人を討たせます。それどころか、さらに侵入して興福寺を焼く事態となって細川六郎と本願寺との対立が決定的になってしまったのでした。

 茨木長隆は今度は洛中法華衆を動員します。柳本衆の生き残りの柳本信堯と山村正次らが中心になって、京の町衆を兵卒に仕立て上げました。そして、洛中にある本願寺系寺院の破却とともに、六角定頼の軍と合流して山科本願寺を攻撃せよと命じました。もし、武野紹鴎が大徳寺に逃げ込まなければ、彼には再び本願寺からの動員がかかったか、あるいはいきりたった法華宗徒に血祭りにあげられていた可能性があります。

 大徳寺の僧籍に入ることで彼は自身の安全を確保しましたが、洛中洛外は阿鼻叫喚の巷と化していました。山科本願寺は破却され、石山に移り、洛中法華衆はその追撃をして摂津国富田教行寺を焼きました。その戦いに関連すると思いますが、1532年(天文元年)十二月に堺で大火があり、北庄全域と南庄三分の二が焼けてしまいました。翌年は流石の武野紹鴎も堺に戻ります。その後は堺と京都を往復する生活になりましたが、いつの間にか京の街は法華宗徒の王国となっておりました。しかし、法華宗徒は所詮は商人・地下人の寄せ集めに過ぎません。金がある分装備は潤沢ではありますが、兵の練度が圧倒的に足りておりません。要するに周辺勢力より圧倒的に弱いのです。

 最終的には延暦寺に絡まれて六角氏の介入を招き、京の街は史上最大の破壊と略奪を経験することになります。武野紹鴎と三條西実隆との交流はそれ以降も続きましたが、1537年(天文六年)十月三日に三條西実隆は亡くなりました。それ以後、武野紹鴎は生活の基盤を堺に移すことになります。

●武野仲材のアーバンライフ年表
「chronology_tables_takenonakaki.pdf」をダウンロード

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