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2018年1月 6日 (土)

中漠:晴天航路編⑦河内の重力に魂を惹かれる

 下間頼秀の後を受けたのはその弟頼盛と二人の父親頼玄でした。頼盛は前線指揮官タイプでしたので、証如側近のとりまとめとしては心もとなく、天文三年の二月に寺務のベテランである父親がフォローすることになったということでありましょう。このあたり想像というか妄想なのですが、彼らが北伊勢にいる蓮淳から期待されていた役割はおそらく証如を石山と河内以外のどこかに移すことであったのではないかと思われます。そんな思いとは裏腹に、頼秀が退いた翌月に尾州畠山基信(稙長の弟)が石山本願寺に味方することを宣言します。尾州家は親細川高国派で桂川ら合戦後に河内を追い出されていた連中でした。それが本願寺に味方すると宣言することは、本願寺に和議の条件を破らせて、細川高国の弟である晴国方に引き込む意図が見え見えです。証如をこのまま石山に置いておけば、和議が敗れることは必定でした。

 そんな折、淀川対岸の摂津国三宅城(大阪府茨木市)の三宅国村から自ら本願寺教団門徒となって証如の味方になる旨の書状が届きました。この前年、摂津国守護代薬師寺国長が細川六郎方として山城国高雄に攻め込んで逆に討ち取られるという事態になっておりました。東摂津に力の真空が生まれております。彼自身は機会主義的な考えの持ち主であり、彼はその勢力の真空を自らの手で埋めたいと考えておりました。しかし、摂津国人の一人にすぎない彼単独でそれを行うのは困難であることは彼自身も理解しております。そこで考えたことが本願寺と組むことでした。

 彼には本願寺との間のパイプがありました。彼の妻が本願寺門徒であり、それも三宅城からほど近い富田教行寺の坊官である下間頼広の娘です。富田教行寺は蓮如が開き、八男蓮芸に与えた寺院で、山科と石山の中間に位置しておりました。本気で畠山氏を折伏するつもりだった蓮如が細川氏の支援を受けやすい摂津に作った後方支援拠点であったのでしょう。山科、富田、石山は川でつながる地勢でもあります。天文年間の時点では蓮芸はすでに寂しており、子の実誓の代になっておりました。下間頼広は実誓の側近でありました。教行寺は山科陥落の煽りを受けて、都から押し寄せてきた法華宗徒によって焼かれておりましたが、この時点においては細川晴国が西岡を押さえて京を攻めているところでした。法華宗はそれに対抗して洛西の集落に放火をするのがせいぜいです。当面法華衆が攻めてくる恐れはありませんでした。

 和約を維持したい下間頼盛と頼玄にとって証如を石山に留めておくことは和約破棄への一本道でしかありませんでした。証如の避難先に困っていたところで、この三宅国村の申し出は願ったりというところではなかったでしょうか。連枝である蓮芸のいた教行寺の縁者ということであればなおさらです。とりあえず証如を三宅国村の保護下に置いたうえで教行寺の再興を行うことであれば、和議の維持自体はできるとふんだのでしょう。すでに尾州畠山基信の本願寺助勢の宣言は木澤長政の攻撃を招いてしまっていました。木澤長政は本願寺の動向よりも、尾州畠山家の動きの方に敏感に反応します。そして、浅香道場の攻撃においてもそうだったのですが、そのことが本願寺を窮地に陥れることなど微塵も斟酌しない人物でもあったのです。下間頼盛らは本来であれば三宅国村との間に綿密な打ち合わせをする必要があったのですが、事態はそれを許しませんでした。

 下間頼盛は証如を連れて石山本願寺を脱出します。目指す場所は摂津国三宅と思われますが、その途上にある中洲の榎並まで来たところで足が止まります。理由はおそらく下間頼盛と三宅国村との間に認識のギャップが存在したからと思われます。すなわち、下間頼盛は和議条件に即して石山以外の証如の落ち着き先として三宅城そしていずれは富田教行寺を考えていたのに対し、三宅国村はそうではなかったということではないでしょうか?すなわち、証如の北上は証如に賛同する河内門徒軍を引き連れたものを期待していたのではないかと思っております。それはもちろん、西岡を掌握して洛中に迫る細川晴国を助けるためであり、洛中法華衆を駆逐したうえで山科本願寺を奪い返すためではなかったでしょうか。

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 一瞬で畠山義堯や三好元長を屠った証如の檄の威力を見ればそれもまた不可能ではないように思われます。しかし、それは下間頼盛には受け入れられないことでした。細川晴国に助力するということ自体、和議の条件を破ることになります。榎並から三宅城までは半日もかからない行程ですが、そこに留まり数日間を費やすということは、下間頼盛と三宅国村との間で交渉ごとがあったと解釈すれば、つじつまが合うのではないでしょうか。おそらく頼盛としては三宅国村には細川晴国と手を切ってほしかったし、国村からしてみれば、法華衆しかいない洛中を陥落させることは容易であり、下間頼盛が山科奪回を躊躇する理由がわからないということだったのでしょう。

 しかし、幕府にとっては証如を榎並に移したという行為自体が本願寺の異心を疑うに十分なことでした。曰く本願寺は三宅国村を頼って細川晴国に同心した、と。ここに下間頼盛と本願寺教団は進退窮まることになりました。

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