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2018年1月13日 (土)

中漠:晴天航路編⑧調略合戦

 証如の石山退去に失敗した下間頼玄、頼盛親子は腹をくくるしかありませんでした。何より優先したのが石山本願寺防衛のために、諸国の門徒衆に動員をかけたことです。四月四日に蓮応こと、下間頼玄は飛騨国白川郷の照蓮寺に本願寺防衛のための出兵以来の書状を送ります。この書状には、照蓮寺だけではなく、美濃、尾張、三河三国の坊主衆の動員命令も出ていることが記されています。

〇照蓮寺宛蓮応(下間頼玄)書状 金龍静著 一向一揆論 吉川弘文館刊行 より引用
能以書状申候。仍此方之近所まで敵罷出、方々令放火候。雖然当御山之儀、堅固御座候。乍去為御用心ニ候之間、美濃・尾張・三川三ヶ国坊主衆、可有上洛之由、被仰出候間。貴所之儀同前ニて候。乍御大儀上洛待入候。拙者も二月辺より、此方致祇候事候。必々御上待申候。恐々謹言。
四月四日 蓮応(花押)
照蓮寺御房
   進之候

 これらの地域は1531年(享禄四年)大小一揆の折に加賀に派遣された三河坊主衆の行軍ルートにある国々でした。この前年に大垣の順行寺を初めとする西美濃十ヶ所や揖保郡永徳寺グループの門徒衆が本山防衛のために参上し戦ったと言います。
 このころ、木澤長政は越智氏に協力して大和に向かっており、吉野の一向衆の拠点である本善寺を攻め落としました。ここは実従の実兄である実玄が住持を務めている御一家寺院でもあります。これを機に石山本願寺は和議の破棄に踏み切りました。そして、仲介の労をとった三好家に働きかけて三好伊賀(連盛)と久介を味方につけることに成功します。三好伊賀は一門衆に連なっているものの、のちに失脚しますので詳しいことはよくわからないのですが、少なくとも宗家の中枢にいた人物ではないかと思われます。この三好伊賀に対して宗家千熊丸が掣肘したという話はありませんので、私は三好宗家は伊賀に与同、もしくは好意的中立の立場にいたと考えております。元々が無理筋の講和でしたし、講和の実効性を担保する勢力はどこにもいませんでした。こうなることはある意味必然であったでしょう。

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 大和国でも吉野の一向衆が反撃に出て金峰山寺を焼きます。そして中嶋から豊中のライン、八尾に防衛線を引いて細川六郎方に敵対しました。これに対して六郎方は木澤長政を介して大きな一手を打ちます。それは尾州畠山方を支える遊佐長教を調略して当主の畠山稙長を追放することでした。この時までに尾州畠山稙長は高屋城を回復、総州派主力の木澤長政は摂津伊丹に陣を構え北から本願寺と対峙していました。尾州派としては失地回復のチャンスでしたが、この時河内には事実上二人の国主がいる状態になっています。一人は高屋城の畠山稙長、そしてもう一人は石山本願寺にいる証如でした。

 遊佐長教は畠山家の譜代の重臣です。河内門徒衆の主力の多くは尾州畠山家臣たちでした。それが本願寺証如に靡いてゆくさまを見せつけられていたものと思われます。そこで木澤長政が囁いた誘惑の一言、「河内を南北に分けて飯盛山城を中心とした北河内を総州畠山在氏が、高屋城を中心とした南河内を尾州畠山稙長を後々に呼び戻して治め、木澤は北守護代、遊佐は南守護代として分け取りにしよう」という提案は遊佐長教にとって魅惑的に聞こえたかもしれません。

 実はこの時までに遊佐長教が判断を迷う出来事が丹波で起こっていた形跡があります。こういう言い方をするのは確証がないからなのですが、どうもそれまで細川晴国方についていた波多野稙通が細川六郎方についたようなのです。状況証拠として考えられることが幾つかあります。1533年(天文二年)六月五日に波多野稙通は丹波母坪城を陥落させて赤澤景盛を討ち取りましたが、それと同時期に丹波黒井城も攻め取って城主赤井時家を播磨に追いやっております。ところが、天文一揆後には波多野稙通は細川晴元に仕えて、黒井城を母坪城と一緒に赤井時家に引き渡しております。本願寺が完全に降伏した後であれば、丹波征伐が起こっても不思議はなかったはずですが、それを回避し得たのは恐らくはこの時点で本願寺方を見限って中立に転じたからではないかと思います。

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 そしてもう一つ。遊佐長教が畠山稙長を河内から追放した翌々月の十月十三日に摂津国大融寺(大阪市北区)に上野玄蕃頭が陣取ってそのまま「河内せさ堂」という所に出征したという話が出てきます。この上野玄蕃頭は1533年(天文二年)六月十八日には山城国高雄山城にいて攻め込んできた細川六郎方の薬師寺国長を討ち取っております。高雄山城は細川晴国の根拠地であり、この後晴国は京に攻め込んでいたのです。少なくとも1534年(天文三年)三月十二日に証如が榎並に移った時には六郎方から細川晴国に味方するつもりだろうと疑われる程度にはその勢力は顕在だったはずが、いつの間にか山城の戦場を離れて十月には石山防衛戦争に参陣しているのです。そして1536年(天文五年)初頭には上野玄蕃頭の主君細川晴国が本願寺継戦派とともに中嶋砦に立てこもることになります。つまり1534(天文三年)年の三月から十月の間に細川晴国は戦線を維持できなくなって本願寺に移っていたようなのですね。山城での戦闘は1533年(天文二年)の十二月に洛中法華衆が洛西諸集落を放火して回った以降はこれといった動きはありません。そうした中で、高雄山城を拠点とした細川晴国が自らの勢力圏を維持できなくなる事情とは丹波の波多野稙通が六郎方についたという所が妥当なのではないか、という気がします。

 細川晴国の本願寺退転という情報が遊佐長教に入っていたとすれば、摂津欠郡から摂津淀川流域北岸以外はすべて六郎方すなわち反本願寺勢力の手に落ちたということになります。大和襲撃で興福寺も敵に回しているとすれば、本願寺は本当に四面楚歌に陥っています。これを支援する勢力は、私怨で戦っている三好伊賀を除くと尾州畠山家しかいない状況はお寒い限りです。遊佐長教はクーデターを起こして主君尾州畠山稙長を紀伊に追放してその弟の長経を擁立、木澤長政と結託して六郎方につきました。これに反発した尾州畠山派の丹下盛賢は本願寺に入山します。しかし、細川晴国と同様本願寺に入った時点で詰んでいるとも言えました。

 冒頭の手紙にも書かれていた通り、下間頼玄が飛騨照蓮寺に申し入れたのは、番衆を派遣して本願寺を防衛せよということだけでした。そこには何の戦略もありません。例えば三好千熊丸を介して阿波細川持隆を説得し、阿波に逼塞している足利義維を将軍として再び担ぎ、それを管領として助ける細川晴国が上洛するルートを確保するために淀川を遡れなどの号令が証如の口から発せられたとすれば、波多野稙通や尾州畠山稙長、そして遊佐長教も乗ることはできたかもしれません。しかし、摂津欠郡の外にいて本願寺と手を組み得る諸勢力をすべて本願寺の中に取り込んでしまった結果、本願寺は孤立せざるを得ませんでした。
 その中で一人気を吐いていたのが三好伊賀でした。彼が率いる三好勢は六郎方を押しに押しまくりますが、細川六郎方が守る伊丹、池田両城を落とすには至りません。

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※国土地理院地図(https://maps.gsi.go.jp/)を加工


結局1534年(天文三年)十月末に木澤長政の仲介で和睦をせざるを得ませんでした。本願寺はますます孤立を深めてゆきます。

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