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2018年1月20日 (土)

中漠:晴天航路編⑨蓮淳・イスト・ヴィーダー・ダー

 タイトルはドイツ語です。直訳すると「蓮淳がまたここにいる」、意訳すると「帰ってきた蓮淳」という感じになります。とある映画化された小説のタイトルをパクってます。すみません。
  下間頼玄、頼盛親子には味方についた三好千熊丸を説得して阿波にいる足利義維を確保し、細川晴国が山城にいる間に連携するという手もあったはずです。それができなかったのは恐らくは蓮淳の存在があったからだと私は見ています。下間頼盛は石山に入山するまでは伊勢にいました。同じ国の長嶋願証寺には蓮淳がいたのですから、当然頼盛は石山への入山前に蓮淳に挨拶くらいはしたはずですし、蓮淳の方も下間頼盛にやってはいけないことを言い含めておくくらいのことはしていたのではないか、と想像しています。

  それでも木澤長政や細川六郎との戦闘は避け得なかったわけですが、この時下間親子には勝利条件の設定をすることができませんでした。細川晴国を手元に置いていた以上、細川六郎が本願寺を許すことはできませんし、かといって、かといって連枝寺院である富田教行寺のコネクションを通じて頼ってきた細川晴国や石山に入り込んでいた細川高国の旧臣たちを追い出すことは下間親子には許されていませんでした。細川高国の旧臣衆は状況から見て畠山稙長派河内国人衆として入山したものと思われます。石山本願寺には畠山家の血を引く一家衆の実従がいました。

 下間一族は大谷家の家宰に過ぎず、一門一家の意向に反した行動は取れなかったものと思われます。かつては実如と蓮淳の命令で下間頼慶が石山御坊にいた蓮能親子を捕縛しましたが、実如はすでにこの世の者ではなく、蓮淳も伊勢に亡命中です。石山にいる証如はまだ若年ですし、三河本宗寺の実円はこの一連の戦いにおいての存在感は極めて薄いです。とはいえ彼は何らかの働きをしていたことは間違いなく、享禄錯乱で三河兵を加賀に送り、1534年(天文三年)に下間頼玄より美濃・尾張・三河三国の兵を番衆として石山に派遣する要請を受けたことは確かで、その前年にあった西美濃衆の石山派遣にも関与していたのではないかと想像できるのですが、実際どこにいたかは史料に出てこないのでわかりません。石山にいたのならもう少し明瞭な形で史料に残るはずですが、石山にいなかったのか、または故意に記録を残さなかったのか、よくわかりません。いずれにせよ、石山の法主一門には実従以外に意思決定ができる人物はいなかったはずです。下間頼盛としては河内門徒衆から離れるために法主を連れて晴国派の巣窟となった石山からの脱出を試みるのが精いっぱいでした。この試みは失敗します。退避先が晴国派の三宅国村のもとというのでは、細川六郎からの赦免を勝ち取れる見込みがなかったためと推察します。

 結局、下間親子ができたことは石山に味方を集めて本願寺のみを防衛することだけでした。その結果、波多野稙通や尾州畠山稙長ら本願寺の力を利用して自らの勢力の拡大を図ったものは手を引いたり、脱落したりし、細川六郎の最大の脅威である細川晴国も山城の占領地を維持することができなくなります。本願寺は孤立し、勝利の展望が見えなくなって頼みの綱の三好伊賀(連盛)も去ってゆきました。劣勢はますます明らかになってゆきます。ここに至って本願寺を救うのは個々の戦闘の勝利ではないことが誰の目にも明らかになったのでした。

 この状況を待っていた人物がいました。恐らくそれは下間頼盛に証如を守り切ることだけを命じ、それ以外のことをすることを禁じた人物。すなわち蓮淳です。彼は伊勢で逼塞しつつ、戦闘の状況を見守っていました。水面下では京の公家や石山の実従、教行寺実誓、本稿ではあまり言及しておりませんでしたが、紀伊に下った興正寺衆らと接触を図り続けていたと思われます。1535年(天文四年)四月七日に南河内高屋城で遊佐長教によるクーデター後の畠山軍が蜂起すると、これに対応して下間頼盛が自ら兵を率いて出陣しました。蓮淳はその間隙に滑り込むように石山本願寺に入ります。それ以後、下間頼盛は二度と本願寺に入ることはありませんでした。

 畠山軍は五月三十日には河内八ヶ所(河内十七ヶ所南方の荘園群)に侵入し、そこから西進して杜河内、長田、稲田の本願寺防衛の城砦群と次々と落とし、翌月十一日には天王寺近辺の諸村を焼きます。もはや本願寺は目の前にありました。その翌日に畠山軍と本願寺勢が戦うのですが、ここで本願寺は大敗北を喫します。後奈良天皇がこの戦いを本願寺滅亡と評したくらいの大負けでした。恐らくここで戦ったのは下間頼盛が加賀から連れ帰ってきた兵と丹下盛賢ら旧畠山稙長派の河内衆であったと思われます。それから半月も経たぬうちに本願寺は紀州から増援を得ておりますので、蓮淳は現在の本願寺勢の主力である河内衆の力を削ぐことを策していたようです。

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※国土地理院地図(https://maps.gsi.go.jp/)を加工

 紀州からやってきたのは傭兵集団雑賀衆(この頃はまだ鉄砲を持っていません)と、紀州に下っていた興正寺衆でした。興正寺は蓮如に折伏された浄土真宗仏光寺派の分派で、興正寺衆は証如が石山御坊に入り第一次和睦後に本願寺に入山したものの、証如との間にゴタゴタがあったらしく、すぐには法主との対面は許されずに和睦破談後の戦闘でにっちもさっちもいかなくなった段階でようやく対面かなったものの、紀伊に下るように命じられたという石山本願寺の体制においては非主流の立場に追いやられておりました。蓮淳はこの興正寺衆と富田教行寺衆(これには三宅国村も含まれます)に和平交渉をさせました。本山に残っていた下間頼玄は筆頭奏者の任を解かれ、その翌年に没します。後任奏者は弟の頼慶です。蓮淳も下間頼慶も蓮能一派粛清という脛に傷を持つ身なので石山入りには心理的抵抗があったようですが、情勢的には山科本願寺再建はほぼ不可能になっていました。腹を割って蓮能の遺児実従と話をし、妥協が図られたものと推察します。むしろ、証如が石山を新たな拠点として本願寺を運営するならば、畠山家との関係修復は不可避であり、畠山家の血を引いている実従の存在は不可欠なものであったでしょう。興正寺と富田教行寺が進めていた和睦交渉は順調に進み、九月には本願寺が封鎖していた摂津水路の閉鎖を解除、三宅氏を介して人質を幕府に引き渡します。十一月になってようやく和議が整うわけですが、和議を整えるだけなら蓮淳がいなくてもできたことであり、大事なことは和議を実効性のあるものにしてゆくことです。そのために蓮淳が行ったことは容赦のない粛清の嵐でした。

 私はその粛清第一号を徳川家康の祖父松平清康としています。詳しくは「川の戦国史・英雄編」をご参照ください。異論は認めます。松平清康が尾張守山で阿部弥七郎に斬殺された翌月に、下間頼玄は没します。死因はわかりませんが、暗殺が横行していたこの時代に実にタイミングの良い死であったろうと思います。この戦いにおいて降伏を許されない立場の者がおりました。細川晴国です。彼は下間頼盛と一緒に本願寺継戦派の門徒宗を中嶋砦に集めて抗戦します。三好軍がこれに当たりますが、この間まで味方だった者たちと戦うことには気が引けたのか、手こずります。木澤長政がこれに介入し、証如も攻城軍に補給物資を送ったり、砦の兵たちに破門をちらつかせたりすることで七月二十七日に中嶋砦は陥落します。哀れをとどめたのが、細川晴国でした。彼は堺に落ち延びて再起を図ることを勧められます。勧めたのは彼を本願寺に仲介した三宅国村でした。三宅国村は晴国一行が天王寺までたどり着くや態度を豹変させて細川晴国に自害を勧めます。晴国の最期はすべてに見捨てられた上での死でした。下間頼秀・頼盛兄弟もその二年後に本山が送った刺客により死を賜っております。その翌年に堅田本福寺の明宗が寂します。実如の代に近江顕証寺にいた蓮淳と争った遺恨の果てに三度の破門食らった結果、配下の門徒衆は飢え死にしてゆくことを目の当たりにした上での憤死でした。蓮淳は自分がコントロールできないものを極度に恐れていたようです。

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 その一方で、細川晴国を本願寺に引き入れてしまった富田教行寺の実誓にはお咎めがありませんでした。教行寺衆が和睦に意を尽くしたことと、蓮淳は伯父に当たるわけですが、女系でも大伯父でかつ祖母が蓮淳の同母妹です。三河本宗寺実円は美濃・尾張・三河門徒衆を動員できる立場であり、下間頼玄・頼盛親子を御すべき立場であったはずですが、十分な端ら指揮をしていませんでした。蓮淳は美濃・尾張の動員権を取り上げて伊勢長嶋願証寺にいる次男実恵に与えました。実円はその後播磨英賀本徳寺の経営に注力することになります。大阪湾に面した石山を本山とするとなれば、瀬戸内海沿岸にある英賀はより重要性を帯びるだろうことを見越してのことでしょう。

〇教行寺実誓関連系図
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 身内、それも蓮能の息子の実従を除けば蓮祐系の兄弟に実に甘い裁定であると思います。

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