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2018年2月24日 (土)

中漠:晴天航路編⑭木澤のオッサンの唄Ⅲ

 第一次石山合戦後の河内の処分において、木澤長政は優位を築くことができました。細川晴元(六郎)が畠山長経の尾州畠山家相続に難色を示したのです。細川晴元にとって尾州畠山家は細川高国一派の残党ですし、石山合戦のどさくさに紛れて畠山稙長が高屋城に居座ることで勢力を再建した連中でもあります。石山合戦の終盤で遊佐長教が畠山稙長を高屋城から追い出して、代わりに弟の畠山長経を立てて本願寺との手切れを行い、さらには後奈良天皇をして本願寺滅亡と唸らせるほどのダメージを本願寺に負わせるという戦功まで立てて自らの存在をアピールしていたのでした。

 遊佐長教にしても本願寺との和睦が成立した以上、アンチ本願寺でいる必要はなくなり、畠山長経を立てたせいで、尾州家当主よりも本願寺をとることになった旧家臣門徒と、尾州畠山家臣に分裂してしまった尾州畠山家の再統合を図る必要がありました。そこで畠山長経には当主の座を降りてもらって代わりにさらに弟の晴煕を新当主に据えてみたものの、細川晴元はこれにも難色を示します。晴元にとって尾州畠山=高国残党なんですね。
 このすったもんだは1538年(天文七年)まで足掛け三年ばかり続くのですが、その間に木澤長政は証如と本願寺で会見して大和国で興福寺の怒りを買った門徒衆の本願寺教団寺院への還住を約束して味方につけると、大和と河内の国境の要衝に信貴山城を立てました。証如に対して自分は大和の守護であると言い放って請け合ったと言います。その上、将軍の取次と称して段銭徴収や成敗権の一部行使も実施するようになりました。大和国は細川高国期には親尾州畠山派で占められておりましたので、ここでも尾州派の影響力が排されるようになってしまいます。
 遊佐長教は木澤長政に大きな差をつけられた状況で、ようやく南河内をまとめる交渉にけりをつけました。新当主は尾州畠山弥九郎という人物ですが、この人物は一時期の歴史家において畠山稙長の別の弟である畠山政国ではないかと言われていたのですが、のちの研究で別人であるという指摘がされています。つまり、尾州畠山を名乗っていますが立ち位置不明な人物であるわけで、これを遊佐長教が守護代として支える形でようやく南河内に尾州畠山派河内国人衆の居所が定まったわけです。木澤長政は総州畠山在氏を当主とした同じく北河内の守護代であるわけですが、石山合戦であぶれた門徒衆を取り込み、自称「大和守護」の将軍の名代として大和国に影響力を持つ権力機構を形成しております。河内国人以外の者から見れば、遊佐長教もその一党とみなされたことでしょう。まさに木澤長政ならではの立ち回りの巧みさですが、この立ち回りの巧みさが後々災いとなって彼自身に降りかかってきます。

 前稿で述べました三好長慶の上洛騒動で足利義晴と細川晴元は決して一枚岩ではなく、足利義晴は旧細川高国派の守護衆と今もなお連携していることが明らかになりました。腹の中ではどう思っているかはともかく、木澤長政にとって細川晴元は現在の勢力を保つための重要な要素です。そこで京の将軍御所ににらみを利かせるために山城・大和国境の笠置山に城を築いてそこに入ることにしました。天文法華一揆以降、京は商人もいない実質無防備都市なので洛中に軍勢を置く場所はありませんし、細川晴元もそれを認めた上と考えられます。ところが、今度は足元の河内で不穏な動きがあることが発覚しました。高屋城にいつの間にか追放されたはずの尾州畠山長経が居座っていたのです。細川晴元は足利義晴の背後に細川高国派の残党がいることを察知してセンシティブになっていました。畠山長経を看過していては、細川晴元より疑いをもたれてしまうことは必定です。晴元との関係は何にもまして重要でしたので、木澤長政は遊佐長教と諮って畠山長経を毒殺します。木澤長政にとって畠山長経は直接の主人ではありませんが、両畠山家の和睦後、この畠山一族の連枝である長経を総州畠山家家臣である木澤長政は尊重する義務がありました。背に腹は代えられないとはいえ、この行いは増上慢の振る舞いであると非難を浴びるようになります。

 細川晴元との関係を維持するためになんとか火消しをしたつもりだったのですが、その翌月になって今度は細川晴元本人が火病を発症してしまいます。摂津の一国人にすぎない塩川政年を突然細川高国派残党認定してしまって、彼が守る摂津一庫城の攻撃を越水の三好長慶と丹波八上の波多野秀忠に命じたのでした。何が原因なのかはよくわからないのですが、塩川政年の妻は細川高国の妹であったそうです。しかし、細川高国が死んでもはやまる十年も経っています。旧高国派がダメと言うなら近江の六角定頼も越前の朝倉孝景もアウトのはずです。嫁つながりなら六角定頼の養女(転法輪三条公頼の娘)を嫁にもらっている細川晴元自身が何かを言う資格はありません。
 塩川政年は縁戚の伊丹親興、三宅国村を通じて将軍足利義晴に直訴します。伊丹親興も三宅国村も摂津国人で細川晴元の被官です。足利義晴にとっては陪臣に過ぎず、細川晴元の頭越しに出された訴えを受ける筋合いはないはずですが、先年三好長慶が三好政長と争った折に細川晴元は京を逃げ出したために足利義晴が介入するという前例ができていました。細川晴元の摂津国人に対する支配権はすでに足利義晴によって毀損されていたわけです。

 直訴を受けた足利義晴はその主張を正当とし、なんと木澤長政に一庫城の攻囲を解くことを命じたのでした。木澤長政は非難を浴びること覚悟で畠山長経を殺害して細川晴元への忠誠を示したのですが、その細川晴元に逆らえとの命令が下されてしまったわけでした。この時の足利義晴は三国志に登場する軍師さながらのえげつない策を弄します。
 また、直訴を行った人物の中に三宅国村がことも注目すべきでしょう。彼は細川晴国を本願寺と組ませることで本願寺を滅亡寸前にまで追い込んだ人物です。その厄神ぶりが今度は木澤長政にも襲い掛かってきたわけでした。将軍はともかく、三宅国村は富田教行寺とゆかりが深く、本願寺中枢にも影響力を行使できる人物でもありました。木澤長政は河内支配を確実にするために本願寺との関係も無視するわけにはゆきませんでした。木澤長政にとっては遊佐長教に先んじて河内門徒衆を自派に取り込むために本願寺との関係強化を図ったことがここで裏目にでます。

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※国土地理院地図(https://maps.gsi.go.jp/)を加工


 木澤長政はやむを得ず足利義晴の命に従い、一庫城の救援に出向き、三好長慶らの攻囲を解いた上で越水城まで追撃します。しかし、それと引き換えに細川晴元からの不信を得ることになってしまったのです。足利義晴の離間の計が見事に功を奏してしまいました。この状況下で木澤長政がこの先生きのこるには木澤長政の手で足利義晴と細川晴元を和解させる以外にありませんでした。

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2018年2月17日 (土)

中漠:晴天航路編⑬三好が来たぁ!!

 三好千熊丸、元服して孫次郎長慶は細川晴元に仕えることになりましたが、間違いなく内心忸怩たるものであったと想像できます。一説に1547年(天文十六年)の舎利寺の戦いが起こるまで、自分の父親の死に三好政長が関わっていたことを知らず、敵として戦った遊佐長教に教えられて逆上して三好政長や細川晴元を倒すことを決意したと言う話もありますが、あれほど派手な死に方をした三好元長の死について、その真相を秘匿することは極めて困難なことでしょう。いわんや、三好政長は長慶を惣領とする三好一門の一員に過ぎないのですから。仮に長慶がそうしたことに気付かなかったとしても、周囲が教えないはずはありませんし、教える際には父親の轍を踏まないように慎重な行動が求められていたに違いありません。と言うか、彼自身が携わった本願寺と幕府との講和が破たんした折に、一旦は幕府側ではなく本願寺側について戦っています。それは、終始細川六郎(晴元)の膝下にいた政長への不満や鬱憤によるものであったでしょう。そして、長慶の地位の保証は他ならぬ三好政長や木澤長政の仲裁で晴元に降参して赦されるという形で行われました。正直格好のつかない不面目です。この段階における三好軍が十全な働きが出来なかった事情は、長慶自身の経験の浅さもあったでしょうが、阿波守護家の細川持隆が阿波国に逼塞していたことも影響しているものと思われます。そもそも、三好の惣領が畿内に進出できるのは、彼の父の元長が堺公方足利義維を補佐する細川晴元の執事であったためで、義維が堺を追われ、細川晴元は足利義晴派に転向してしまいました。しかも持隆の手元には志破れた足利義維がいます。ここで彼が三好長慶の支援をすれば、足利義晴、義維の対立と言う形になり、阿波守護家は宗家である京兆家を完全に敵に回すことになります。細川持隆としては、それだけは避けたかった事態であったのでしょう。

 三好長慶は実力で占拠した摂津国西方の越水城を拠点としていましたが、細川京兆家家中における三好長慶の位置づけは決まっておりませんでした。同族の三好政長は榎並城という長慶の領地よりも京により近い摂津欠郡の水郷を与えられていました。三好家中における序列を考えれば、長慶は政長を超越しています。よって、家格にふさわしい扱いをと、細川晴元に要求することは長慶にとって当然なことでもありました。その要求が河内十七箇所の明け渡しです。同所は明応年間の細川政元の執政期に尾州畠山尚順が総州畠山義豊を討って台頭する中、赤澤宗益をその地の代官にして河内国の橋頭保を担保しようとしたことでも判るように、淀川を挟んだ摂河国境の要所でもありました。足利義維が堺に幕府を開いた頃、そこは三好元長にまかされていたのですが、天文錯乱に一区切りついた後、そこは三好政長にまかされるようになっていたのです。 

 1539年(天文八年)正月、三好長慶は二千五百の兵とともに上洛。細川晴元に談判して河内十七箇所の代官職の拝命を求めましたが、細川晴元はこれを拒否します。恐らくはかつて三好政長と組んで三好元長を陥れたことが、細川晴元の心の負担となっていたのでしょう。この頃になると、細川京兆家当主は管領を名乗らなくなっていたそうです。細川家当主が将軍になり替わって天下に号令する時代ではなくなってすでに久しくなっていました。
 幕府の権威は畿内周辺にしか及ばなくなったとしても、その支配のためには実力が必要です。細川晴元にとって三好元長はその実力の源泉でした。しかし、折り合いを悪くし、元長に死を与えることになったわけです。

 元長の死後、足利義晴が迎え入れられた幕府のあり様は絶対的な強者を幕閣に入れないことにありました。実力が突出する勢力に対しては寄ってたかって袋叩きにすることで実力を拮抗させて平和を作り出そうと策していたのでした。しかしそのためであったとしてもなお、細川晴元が権力を維持するためには実力が必要です。三好家の力は晴元の政権維持のための絶対条件でした。細川晴元や茨木長隆を筆頭とする晴元側近衆の意向は、三好政長を通して三好家をコントロールすることでした。三好宗家の長慶より政長をあえて立てることにより、両勢力を互いにけん制させてその上に立つというやり方です。晴元政権のやり口は本願寺門徒衆や法華宗徒の動員に見られるように、狡猾であるのですが、見方を変えれば実力のない勢力が政権にしがみつきながらその維持に汲々としていると見ることも出来ます。

 本来細川晴元は阿波細川家及び三好家に推戴された次期管領であるはずだったのですが、阿波細川家も三好家も振り払って自分だけ先に上洛した態になっていました。丹波衆や摂津衆は彼の内衆であるはずですが、以前は彼の敵、細川高国に仕えていた人々でもあります。彼らは自らの都合で細川高国を放逐し、晴元を据えたのです。都合が悪くなった時に細川晴元を守ってくれる人達ではありませんでした。

 細川晴元が三好長慶の要求を断ったのは自信のなさの表れであるのですが、三好長慶の方はそれを見透かして今度は十七箇所代官補任を足利義晴に要求しました。義晴側近の大舘尚氏がこれを支持したことを受け、義晴は細川晴元と三好長慶との調停を六角定頼に命じます。本来は三好長慶は細川晴元の家臣であって足利義晴にとっては陪臣であり、直接の口出しは出来ないはずですが、元々河内十七箇所は細川京兆家が守護する領域ではないことを良いことに介入することにしたものと思われます。細川晴元は政元、高国と違って将軍すら牛耳ることが出来ていません。足利義晴も細川高国の傀儡として将軍の座に座り、その政権崩壊にともなって京を追われたものの、細川家中の内紛に乗じて京に復帰した経験を持ち、なかなかに強かです。細川晴元に真の味方はどこにもいませんでした。

 将軍義晴の仲介に関しては細川晴元は頑なに拒否を続けましたが、業を煮やした三好長慶は兵を帯同して上洛の挙にでます。この時、阿波細川家の細川持隆や本願寺証如は三好長慶を支援していました。細川持隆は天文錯乱以前に阿波に落居して以降、宗家に遠慮して距離を置いておりましたが、本家と分家の立場の違いを蔑ろにした晴元のやり方には賛同できなかったものと思われます。本願寺は和議破談後、三好千熊丸に攻められてはいますが、彼が攻めた本願寺の中嶋砦は本願寺の実権を握った蓮淳とは立場を異にする継戦派の立てこもる砦でした。なので必ずしも相性が悪いと言うわけではなく、むしろ本願寺の傍にある榎並砦にいる三好政長が邪魔であったためではないかと想像します。

 これに慌てたのは細川晴元でした。何しろ京の街は自分の命令によって灰燼に帰して、復興もままならなかったからです。それもそのはず、彼は天文法華乱後に残敵掃討のために洛中に法華禁止令を出して法華宗徒の活動を全面的に禁止してしまっていました。そして京の富商の多くは法華宗徒でした。彼らは堺への避難を余儀なくされています。そういうわけですので、細川晴元に京を防衛する力がないことは明らかでした。細川晴元はなけなしの兵をまとめて洛西の高雄に避難します。

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※国土地理院地図(https://maps.gsi.go.jp/)を加工

 京を守る任を帯びた細川晴元の脱出に京はパニックに陥ります。先の兵火で京は丸焼けになった上に守る兵はいない、やってくるのは「応仁の乱で洛中に暴虐の限りを尽くした」との誇張された伝説が伝えられている三好之長の曾孫です(この辺りは細川高国政権期のプロパガンダの影響もあったかと推測します)。兵禍が及ぼす被害の深刻さはほんの数年前に味わったばかりでした。これでパニックに陥るなと言う方が無茶でしょう。しかし、それに対して足利義晴は泰然として京に居座り続けます。彼は三好長慶が何を欲しているかを知っていたので自分に対して危害が及ぶ危険はないと踏んでいました。そして、近江の六角、若狭の武田、能登の畠山に動員をかけた上で細川晴元のいなくなった京の治安の維持を命じます。細川晴元はこの段にいたって足利義晴の意図を察知しました。

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 義晴は晴元と長慶の仲介すると称して大永年間以来の自派勢力を京に引き入れようとしていたのでした。即ちこれが意味する所は無血クーデターです。細川晴元は足利義晴から調停するので戦争をするなと申し渡されていましたが、六角兵が三好軍と合流して京に入って新政権を宣言される前に京を再び確保できなければ細川京兆家は丹波と摂津の一部の一勢力に叩き落とされてしまいます。晴元は内衆・一族衆に動員をかけるとともに、三好政長を京に派遣します。
 1539年(天文八年)七月二十四日、三好長慶の先鋒軍と三好政長軍が妙心寺前で合戦を繰り広げました。小競り合いであったと言われています。その間に事態も動いていました。恐らくはですが、足利義晴のクーデター計画を阿波細川持隆も察知したのでしょう。義晴の無血クーデターが成功すれば、三好長慶は取り立てられるでしょうが、細川家は再び二つに分裂することになります。持隆としてはそれだけは避けたかったはずです。その意は三好長慶にも伝えられ、長慶も撤兵に同意したのでしょう。妥協が図られ、三好長慶は西摂津半国守護代の扱いを受けるようになります。細川晴元も京に戻りましたが、自らが奉じた将軍と言えども、全幅の信頼を置くことが出来ないことを肝に銘ぜざる得ませんでした。

 いずれにせよ、足利義晴の仲裁が功を奏し、京に平安は戻りました。しかし、その平安は畿内を取り巻く諸勢力の均衡によってのみ担保されるものであって、ひとたびバランスを崩してしまえば、それを埋めるべく別の勢力が進出してくるのです。そして細川晴元といえどもその諸勢力の一つ、ただの駒に過ぎないことが露呈してしまいました。
 何より京の街が以前にもまして無防備であることが明らかになってしまったのです。すかさず堺に亡命した京の法華宗徒達が還住の願いを提出しますが、幕府はこれを拒絶します。しかし、町の復興がままならない中、いつまでそのやせ我慢が続くか、誰にも判断できませんでした。

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2018年2月10日 (土)

中漠:晴天航路編⑫堺の避難所

 本稿においては天文法華乱後における法華宗の動向を取り上げてゆきたいと思います。
 大徳寺の堺進出と堺町衆との結託による影響力増大を説明するに当たり、その前段階としてその両者をつなぐ存在としての堺へ亡命した法華衆の動向を外すことは出来ないと考えたからです。
 それに当たって一点ご留意いただきたいことがあるのですが、本稿においては法流に沿って四条門流系とか、六条門流系という書き方をしていますが、それが必ずしも教義の類似性を示すものではありません。なんでわざわざこのようなことを書くかと言いますと、分派が出来上がる過程において、元の流派と教義や重宝等の扱いで師弟・兄弟弟子間での諍いがあったケースが多かったのです。分派にとってはその違いこそが彼らのアイデンティティに他ならず、単純に~門流系とひとくくりできないという事情があります。それを踏まえた上で本稿においてはわかりやすくするための便宜として、法華諸派を法流によって分類させていただきました。

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 大虐殺から生き残った法華宗徒達は堺に逃れたと言います。記事の末尾に、昭和五年に刊行された堺市史を参考として乱中乱後の洛中法華諸寺院の動向をまとめておきました。この動向を通して堺の町衆の動きを考察し、さらに珠光や紹鴎のように、浄土門徒や本願寺教団門徒であると同時に、大徳寺僧でもある両義的なありようを素描したいと考えております。ちなみに、堺市史は現在堺市のホームページの市立図書館コンテンツでデジタル化されたものが公開されております。以下リンクでたどり着けますが、堺市史で検索すれば当該ページが引っ掛かります。

 堺市ホームページ>子育て・教育>堺市立図書館>地域資料>デジタル堺史について>堺市中央図書館堺市史

 洛中法華は二十一ヶ寺と過去に書きましたが、実際には天文年間までに脱落していた寺が三つばかりあります。四条門流系の弘経寺、本覚寺などです。天文乱が始まる前に弘経寺は妙顕寺に、本覚寺は妙覚寺に吸収併合されてしまいました。身延門流の学養寺も同門の妙伝寺に併合されております。また、六条門流系の宝国寺のように、大本山の寺域に組み込まれてしまったために、洛中法華二十一ヶ寺の一つではあったにもかかわらず復興しても本山を名乗れなくなった例もあります。

 その他の門流は一部例外を除いて、概ね天文年間までに堺に拠点を持っておりました。但し、堺市史において明確に本寺を移したと記載されているのは、六条門流の本国寺が成就寺に、日什門流の妙満寺が堺妙満寺を使ったことが明記されていますが、その他も同様のことであったでしょう。
 前稿でふれました武野紹鴎の弟子辻玄哉は京を拠点とした本国寺の大旦那でしたが、堺の辻家に養子に入った人物であるそうです。おそらくはですが、本国寺の成就寺利用に関しては堺に実家のある辻玄哉の働きがあったものと推察します。この辻玄哉は茶人として武野紹鴎から相伝の小壺を受け継ぎ、それを利休に伝えた人物でもあります。

 四条門流の妙顕寺は堺に妙法寺という末寺を持っておりましたが、一時さびれていたらしく、天文年中に再興されたと言う記載がありますが、この再興の理由は本寺の妙顕寺が堺に亡命してきて落ち着き先を確保するために寺を再整備したものと考えられます。

>後天文年中革屋道賀の一族、石津屋宗榮(塔頭報恩坊の檀越)の一門、北向道陳(塔頭圓輪坊の檀越)
>及び京屋道壽等之を再興し

 それだけではなく、着目すべきは再興を手掛けた旦那衆の面々で、筆頭に書かれている革屋道賀は武野紹鴎と同じ読みのかわやの屋号を持っております。北向道陳の屋号も皮屋であり、武野紹鴎が属した皮屋は堺でもある程度の規模を持った商人集団であったことがわかります。ちなみに、北向道陳は千利休が最初に学んだ茶の湯の師匠であったことで知られております。千利休の茶の師匠である北向道陳、辻玄哉はいずれも法華宗徒であり、茶は京や堺の町衆法華宗徒においても盛んであったということでありましょう。

 1542年(天文十一年)、後奈良天皇が洛中法華一揆の赦免の宣旨を出したことが、還住のきっかけになりますが、これに先駆けて復帰していた寺が三寺ありました。うち二つは六条門流系の本満寺、本禅寺と身延門流系の妙伝寺です。本満寺は太閤(引退した関白のこと)近衛尚通の手引きで1539年(天文八年)に復帰。本禅寺はその翌年に復帰しました。本禅寺の場合は越中の菩提心院にいた日覚が本禅寺・越後本成寺の長老として復帰に尽力していた形跡が伺える書状があります。残りの一つは身延門流(日向門流)の妙伝寺です。読みもらしもあるかもしれないのですが、これらの寺院は堺市史に末寺の記載を確認できませんでした。十全な考察ではありませんが、堺に拠点がないことが京への復帰を急がせた側面があったかもしれません。

 洛中復帰時に二つの寺院を一つにして復興したケースもあります。日尊門流(富士門流系)の住本寺と上行院は堺に逃れましたが、復帰時にこの二寺は合併して要法寺と寺名を変えております。
 一部帰洛年次が未詳なものも含まれていますが、概ね天文年間中に洛中還住を果たした本山は以下の十四寺院となります。

本国寺、本満寺、本禅寺、妙顕寺、妙覚寺、立本寺、本隆寺、本能寺、妙蓮寺、頂妙寺、本法寺、要法寺、妙満寺、妙伝寺

 これに1578年(天正六年)に建立された寂光寺と、1308年(延慶元年)建立されたものの、1599年(慶長四年)に洛中に復帰した青柳本門寺(後の宥清寺)を含めて江戸期には洛中十六本山と称されるようになりました。
 青柳本門寺は日蓮直弟子の日弁が藤原定家の子孫を折伏して、その邸宅を法華寺としたのが濫觴であり、その活動は日像よりも早かったらしいのですが、これがやりすぎと反感を買って日弁は暗殺されてしまいます。寺院自体は応仁の乱まで存続していたらしいのですが、なぜか二十一本山には数えられていませんでした。

 まだまだ堺の法華宗徒の動きに関しては概略しかつかめていませんが、京の寺社を含めた京の富裕層が堺に避難し、それが再び洛中に復帰することによって京と堺の町衆に強固なネットワークが構築されたとみてよいかと思われます。それが後々、堺に所縁の深い三好家の躍進につながったのではないかと、想像しております。

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洛中法華二十一箇寺の避難先

■六条門流系統
本国寺 六条門流 成就寺に本山を移す。1547年(天文十六年)帰洛。(十六本山)
   成就寺 1406年(応永十三年)建立。
   本教寺 1430年(永享十二年)建立
   本光寺 1450年(宝徳 元年)建立
   圓明寺 1479年(文明十一年)建立

本満寺 六条門流分派 1539年(天文 八年)近衛尚通の手引きで帰洛。※後奈良天皇綸旨発令前。(十六本山)
   本要寺 1451年(宝徳二年)以前建立

宝国寺 六条門流分派 1492年-1501年(明応年間)中に本寺寺域内に移転。

本禅寺 陣門流 1540年(天文 九年)帰洛して伽藍を再建。※後奈良天皇綸旨発令前。(十六本山)

■四条門流系統
妙顕寺 四条門流 1548年(天文十七年)帰洛。(十六本山)
   妙法寺 1345年(貞和 元年)建立。天文年中再興。
   妙慶寺 1501年(文亀 元年)建立

妙覚寺 四条門流分派 1548年(天文十七年)帰洛。(十六本山)
   興覺寺 創建年未詳
   經王寺 1429年(永享 元年)建立

立本寺 四条門流分派 1544年(天文十三年)帰洛。(十六本山)
   櫛笥寺 1492年(明応 元年)建立

大妙寺 四条門流分派 1594年(文禄 三年)豊臣秀吉の命で妙顕寺寺域内に再建。

弘経寺 四条門流分派 天文乱以前に洛外へ移転
   弘経寺 永享元年に寺基を堺に移し、のち妙顕寺末に。

本覚寺 四条門流分派 1466年(文正 元年)妙覚寺に吸収合併。

本隆寺 真門流 1542年(天文十一年)帰洛。(十六本山)
   調御寺 1412年(応永十九年)建立

本能寺 本門流 1537-38年(天文十六~十七年)帰洛。(十六本山)
   顯本寺 1429年-1444年(永享嘉吉年間)建立
   眞如庵 1521年(大永 元年)建立
   本受寺 1461年(寛正 二年)建立

妙蓮寺 本門八品門流 1542年(天文十一年)帰洛。(十六本山)
   法華寺 1397年(応永 四年)以前に建立。

■日常門流系
頂妙寺 日常門流 1542年(天文十一年)帰洛。(十六本山)
   月藏寺 1495年(明応 四年)建立

本法寺 日常門流 帰洛年未詳。(十六本山)
   本成寺 1444年(文安 元年)建立

■日尊門流系(富士門流からの分派)
住本寺 日尊門流 住本寺、上行院が合併し要法寺として帰洛。(十六本山)
上行院 日尊門流(富士門流分派)

■日什門流系
妙満寺 日什門流 帰洛年未詳(十六本山)
   妙満寺(照光寺)1512年(永正 九年)に建立。

妙泉寺 日什門流 1575年(天正 三年)に再興される。

■身延門流系(日向門流系)
妙伝寺 身延門流 1541年(天文十 年)帰洛。(十六本山)

学養寺 身延門流 詳細未詳。妙伝寺に吸収されたと言う。

■その他十六本山
寂光寺 1576年(天正六年)建立。(十六本山)

宥清寺 1308年(延慶元年)建立 応仁の乱時丹波亀山に避難。1599年(慶長四年)に洛中に復帰。(十六本山)

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2018年2月 3日 (土)

中漠:晴天航路編⑪武野仲材のアーバンライフⅡ

 連歌師としての武野紹鴎の業績はあまりぱっとしたものではありませんでした。武野新五郎が上京して間もなく、三條西実隆の門を叩く以前の、1526年(大永六年)九月十三日連歌師の宗碩※や印政らが開催した「何人百韻」という連歌会が興行され、ここに武野新五郎も参加しております。宗碩は連歌師として当代一流の名声を得ていた人物で、印政はこの後に新五郎を三條西実隆に引き合わせることになる連歌師です。百韻というのは連歌を百句詠むことですが、武野新五郎は在京の連歌師たちが居並ぶ中で、採用された句はわずかに三句に留まっていました。連歌は語数や季語などの縛り、そして古典の知識を踏まえた上での即興性も要求される高度に知的なゲームでしたので、難しいことは確かです。この後、三條西実隆に歌学を教わるのですが、それ以後洛中で開催された連歌会に彼の作品が採用された形跡はないそうです。天文三年になって堺で万句興行を企画し、その発句を求めていますが、そこにおいて作られた作品も現存はしていません。恐らくは連歌師の道を究めることは早々に諦め、別の芸道、茶道に力点を写したものと思われます。

 近年の研究により戦国時代の歴史は色々と覆っております。例えば、明治期には織田信長は勤王の士でしたが、戦後あたりから若い頃はうつけと呼ばれるヤンキーさながらの傾いた風体をしていたとか、多聞院日記やルイスフロイスの日本史が研究されだすと、第六天魔王やら神を畏れぬ増上慢ぶりが強調されたりしました。更に近年では、過去に言われているほどタガが外れた人物ではなく、もう少し常識人だったのでは、などとも言われだしています。
 茶道史においても同様なことが起きているようです。従来の通説では、わび茶は一休宗純の禅味をとりいれた村田珠光がはじめ、それを武野紹鴎が受け継いで利休に教えたという感じになります。
もう少し詳しく書くと以下の図の通りとなります。

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 今述べました珠光―紹鴎―利休の流れは、散逸していた堺南宗寺二世の南坊宗啓の記録を黒田家家老立花実山が再発見して書籍化した「南方録」という江戸期になって流布された史料が基になっていたのですが、この内容と実際の史実を比べてみると色々矛盾点が出てくると言うことらしいです。
  例えば南方録においては、天正十八年頃に開かれた茶会に天正十一年頃に死んでいるはずの大徳寺僧侶が出席しているなどの不正確な記述があり、また、南方録の原著者と目されている南坊宗啓は同書では利休の弟子と伝えられているものの、同書以外での活動の記録が残っていないなどの問題があり、今日では立花実山の作為による挿入ではないかとの疑いがかけられております。

 実隆公記には直接の記載はないのですが、武野紹鴎が京において茶も学んでいたのは確実で、色々な史料を突き合わせると、その流れは以下のような感じになります。

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 大きく違う所は、武野紹鴎の師匠とされていた十四屋宗陳と言う人物は、実在しないということです。別の本が誤写したものを立花実山が孫引きした結果であり、十四屋宗陳は本当は村田珠光の息子である村田宗珠のことらしい。そもそも僧籍の人間に俗名の苗字は付けないし、崩し字の珠と陳はよく似ているための間違いということだそうです。

 村田宗珠は村田珠光の息子であり後継者でもありました。そして、四条夷堂脇にある大黒庵(武野紹鴎宅)の近所に午松庵という庵を構えていたとのことです。武野紹鴎はそこでの茶会を通じたコミュニティづくりには成功していたらしく、在京中に上京新在家町で呉服問屋を営んでいた辻玄哉を弟子に取っていました。通説では千利休は最初北向道陳に後に武野紹鴎に茶を学んだと言われていますが、伝授の段階までには至らず、紹鴎の弟子の辻玄哉がそれに代わって利休に茶を教えたのだそうです。

 その根拠なのですが、山上宗二記に利休の弟子である山上宗二が二十年の修行の末に相伝の小壺を与えられるのですが、曰く、小壺の伝授には二十年の修行が必要とのこと。ということは、利休は師匠と二十年間の修行をしたことになるのですが、1555年(弘治元年没)の紹鴎から1522年(大永二年)生まれの千利休が二十年間修行をしようとすれば、十五歳の頃から始めなければならない勘定になります。千利休の伝記によると彼の茶道修業は十七歳の頃に北向道陳の元で修業を始めたとのことですから、計算が合わないことになります。なので、利休が宗二に渡した相伝の小壺は武野紹鴎その人から直接もらったものではありません。山上宗二記にも紹鴎は利休とは別の弟子、辻玄哉に伝わった旨、明記しています。辻家は元々堺の商家で玄哉はそこの養子であると言います。京で墨屋の屋号で呉服を商っていたそうで、上京に住むのお大尽でもありました。

 とはいえ、この二十年ルールは山上宗二が自分自身もしくは千利休以降の茶道伝授に課した決まりのように見えます。
 武野紹鴎が茶を学び始めたのは恐らく上京した1525年(大永五年)以降でしょうから、小壺伝授の技術水準に至るのは1545年(天文十四年)あたりになる計算です。そして辻玄哉が紹鴎の元で二十年の茶道修業をしたとすれば、遅くとも1536年(天文五年)には紹鴎の元で作業修行を始めている必要があり、その時武野紹鴎も在京で堺におらず、利休に茶を教えることもかないません。なので辻玄哉と武野紹鴎との関係は子弟というよりも村田宗殊の午松庵コミュニティあたりの茶飲み仲間と考えるのが妥当なのでしょう。

 1536年(天文五年)は京都で天文法華の乱が発生した年でもあります。六角定頼に攻め込まれた京は応仁の乱以上の大ダメージを受け、洛中法華二十一ヶ寺は悉く灰にされます。それだけではなく、洛中商家の財産目当てに大規模な略奪や殺戮も発生しておりました。その理由は洛中商家の大半が法華宗徒だったからです。辻玄哉は六条門流法華宗本山である本国寺の大旦那でもありました。恐らく辻玄哉もこの時には堺に亡命を余儀なくされたものと思われます。そして、その翌年三條西実隆が亡くなり、武野紹鴎も京から堺に戻ることになりました。
 堺で武野紹鴎は三條西実隆に貢いでいた資力で唐物の茶器を買い揃え、その一方で辻玄哉は与四郎(後の千利休)にお茶の手ほどきをしていたのでしょう。何分辻玄哉は堺衆の保護を受けていた手前、堺衆からは同じコミュニティ仲間だった武野紹鴎より格下と見られて弟子筋と思われたのではないかと想像します。

 ちなみにですが、この辻玄哉の茶道の技前については千利休の弟子である山上宗二からボロカスに書かれております。恐らくは宗二を含めて珠光、紹鴎、利休には大徳寺の参禅経験がありますが、辻玄哉は法華宗徒で大徳寺とのかかわりがないためではないかと言われています。また、千利休の業績を称揚するためにあえて悪く書くと言う意図もあったのかもしれません。しかし、辻玄哉は連歌の腕前はあったらしく、京で催される百韻に参加し、その作を残しておりました。そういう意味では、紹鴎に劣らぬ文化人であったと言うことが出来るかと思います。

 次稿においては、武野紹鴎のホームタウンであり、洛中法華衆が亡命先とした堺について書いてゆきたいと思います。

※宗碩:戦国時代の連歌師。宗祇晩年の高弟。三條西実隆とも親交を持つ。

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